今回は、平安時代中期の2大女流作家として有名な
の2人のお話。
知っている人がほとんどかと思いますが、一応説明しておくと・・・
清少納言は、どこか切なさ残るほのぼの日常エッセイ「枕草子」の著者
この2人は若干ズレはあるものの、ほとんど同世代の2大作家であり、それ故に、「紫式部と清少納言はライバルで仲悪かったんでしょ?」みたいな話もあったりなかったり。
ここでは、紫式部と清少納言について
という話を中心に紫式部・清少納言の両者について紹介をしていきます。
まずは紫式部と清少納言は政治上の関係から
最初に紫式部と清少納言の置かれていた政治上の関係について見ていきます。
紫式部と清少納言は今でこそ作家として有名ですが、本業は女官です。高貴な女性に仕えて、日々様々なお世話やお手伝いをするのが仕事でした。
紫式部が仕えていたのは藤原彰子(ふじわらのしょうし)
清少納言が仕えていたのは藤原定子(ふじわらのていし)
藤原彰子、藤原定子共に後に一条天皇の妃となる女性ですから、そこに仕えていた人々は厳選されたエリートや美人であり、紫式部も清少納言も相当優秀な女性であったことかがわかります。
藤原定子と藤原彰子は、一条天皇の妃の座を巡って対立しうる関係にありましたが、幸か不幸かこの2人が直接対立することはありません。
むしろ、戦っていたのは彰子の父である藤原道長(ふじわらのみちなが)と定子の兄である藤原伊周(ふじわらのこれちか)。(従者同士で乱闘騒ぎもあったとか!)
当時の人間関係を知るには年表を使ってみるとわかりやすいです。
- 990年藤原定子、一条天皇の妃(きさき)に。
- 993年清少納言、藤原定子に仕える
- 995年定子の父の藤原道隆が亡くなる。
- 996年藤原伊周、花山法皇と女性問題でトラブって自滅。伊周は左遷。兄のスキャンダルに巻き込まれ、定子も失脚。出家して尼になる
藤原伊周の女性スキャンダルは長徳の変というめちゃくちゃカッコいい名前で今も歴史に名を刻んでいます。女性スキャンダルとして普通に面白いのでぜひ以下の記事も合わせて読んでみてください!笑
- 999年定子、第一皇子出産。定子、宮内に戻るも尼が宮内に入るのはタブーだったためディスられる。藤原道長、定子の出産に「先を越された!」とビビる。
- 1000年藤原道長、娘の彰子を一条天皇の妃とする。
- 1001年藤原定子、亡くなる。清少納言、宮仕えを辞める
- 1001〜1007年紫式部、藤原彰子に仕える。
この年表で注目したいのは、
の二箇所です。妃って正妻ってことだから普通は1人なんですが、一条天皇にはなぜか妃が2人いました。
この異常事態は歴史上「一帝二后」と呼ばれていて、藤原道長がその権力を使って強引に娘を一条天皇に嫁がせた結果でした。
年表を追うと、一見、藤原定子と藤原彰子は一条天皇を巡って激しい争いを始めそうに見えますが、そうはなりません。一帝二后になった翌年に藤原定子が亡くなってしまうからです。むしろ、その後、藤原彰子は定子の遺児をとても大事に育てていますから、そもそも生前から両者の仲が悪かったとは考えにくいです。
同じく紫式部と清少納言もお互い争うことはありません。清少納言が1001年に宮内から去り、1006〜1007年ごろに紫式部が宮仕えを開始しますから、対立のしようがないんです。
紫式部「清少納言と比べられるのマジ悔しい!!!!!」
とは言え、紫式部も清少納言もお互いに面識ぐらいはあったかもしれません。というか、少なくとも紫式部は清少納言のことを強く意識していました。
なぜ紫式部が清少納言を強く意識したかというと、清少納言を筆頭とする藤原定子に仕える女官たちが完璧すぎたからです。
紫式部が藤原彰子に仕えるようになると、紫式部はしばしば清少納言ら定子に仕えていた女官たちと比べられ、悔しい思いをするハメになります。
定子様の頃は、女官たちが上手に和歌を詠んでくれて楽しかったのに、彰子様に使える女官たちはレベルが低いよなぁ。
昔は、もっと気の利いた女性がたくさんいたのに、今の後宮はなんか堅苦しくて居にくいんだよなぁ。
定子に仕えていた女官の中でも清少納言は、教養があったり機転が効いたりで、公家たちから特に人気があり、まさに女官世界のアイドルみたいな感じでした。こうして、昔の話を聞かされれば聞かされるほど、プライドの高い紫式部の胸のうちに清少納言への対抗心が燃え上がってきたのでした。
紫式部と清少納言の関係をまとめると・・・
紫式部と清少納言はライバル関係にはない。でも、紫式部は清少納言と比べられる悔しさから一方的に清少納言をライバル視していたっぽい。
紫式部の清少納言への対抗心については、紫式部日記を読むとよくわかります。(清少納言のことを超辛口で批評してる)
清少納言と紫式部の性格について思うこと
次に簡単に清少納言と紫式部の人柄・性格について。
まず最初に紫式部。これは紫式部日記を読むととても感じるのですが、紫式部はとにかく負けず嫌いで真面目。定子の時代と比べられる悔しさをバネに、一生懸命に彰子に仕えている姿が紫式部日記には描かれています。
一方で、清少納言に対して単なる批判の度を超えて、辛辣な悪口をひたすら書いており、負けず嫌いから由来する嫉妬心みたいなものもありそうです。
紫式部は今風に言えば「負けず嫌いで真面目なキャリアウーマン。いい人なんだけど、堅そうな人だからちょっと話しかけにくい・・・」って感じでしょうかね!
清少納言はというと、負けず嫌いだけど大らかで社交的な性格でした。自分の教養や知識をフル活用して、定子やその周りの女官たちを楽しませていました。
清少納言の書いた「枕草子」は伊周の失脚によって定子が凋落していた頃に書かれていたにも関わらず、その内容は泣けてくるほどに明るいです。清少納言が負けず嫌いであると同時に、強い芯を持った女性だったことがわかります。
清少納言は、今風に言えば「プライドは高いけど、空気が読めてとても気の利くキャリアウーマン。合コンに行ったら必ず場を盛り上げるムードメーカー的存在」って感じですかね。
紫式部と清少納言、同じ負けず嫌いでも性格はとても対照的です。
紫式部と清少納言の関係まとめ
紫式部と清少納言の関係を簡単にまとめてみました。
同じ時代に生きたため、一緒に語られることの多い紫式部と清少納言。しかし、紫式部と清少納言に直接の接点はないし、性格も真反対。そして、そんな真反対な女性から生まれた「源氏物語」と「枕草子」もまた、その性格の違いを反映するかのように全く異なる文学作品となっているのがとても興味深いなと思うのでした。
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