今回は、鎌倉幕府の2代目将軍である源頼家についてわかりやすく丁寧に紹介していくよ。
偉大なる源頼朝の息子として生まれる
源頼家は1182年に源頼朝と北条政子の間に、長男として生まれました。
源頼朝の誕生は多くの人々を喜ばせ、幕府は祝福ムードに包まれます。
念願の男の子が生まれた!
この子(頼家)は、私の後継として2代目の将軍を担う息子だ。大事に育てねばな・・・。
後継の誕生で、多くの人から祝福を受けた源頼家。その生涯がどんな生涯だったのか、追っていきましょう。
富士の巻狩り
源頼家は、源氏の御曹司として特に不自由することもなくスクスクと成長していきます。
幼い頃から体を動かすのが得意で、狩遊びや武芸が得意でした。
狩遊びに関しては、有名なエピソードが残っています。
1193年5月、「富士の巻狩り」という大規模な狩が行われました。この時、まだ12歳だった頼家が鹿を射止めたことが記録として残されています。
父の頼朝は息子の活躍に大喜び!
さすが俺の息子!
将来が楽しみすぎて、頼家のことを考えると笑いが止まらないんだがww
・・・そうだ!息子の勇姿を一刻も早く妻(北条政子)にも伝えなければ!!
頼朝は、鎌倉で留守番をしている北条政子にすぐさま報告しますが、政子の反応は超クール。
将軍の息子なのだから、それぐらいできて当たり前よ。
そんなことで、いちいちはしゃがないでくれるかしら?
こう言って頼朝のことを一蹴した・・・という微笑ましいエピソードです。このエピソードからも、頼家が大切に育てられていることが伺えます。
鎌倉幕府の2代目将軍、源頼家
1199年、偉大なる父、源頼朝がこの世を去りました。
そして、当時18歳になっていた源頼家が家督を継ぎ、2代目として鎌倉幕府のトップへ(1199年)。1202年には、朝廷から征夷大将軍に任命されました。
若き源頼家は、亡き父のように、御家人の上に君臨する絶対的な将軍として立ち振る舞います。
私も父のように、立派に鎌倉幕府を治めるのだ・・・!
・・・が、これは全くうまくいきません。源頼朝が鎌倉幕府を治めることができたのは、天才的な政治スキルと圧倒的人望があってこそ。残念ながら、源頼家にはその2つともが欠落しています・・・というか、良くも悪くも父親が凄すぎました。
御家人たちも、若造の頼家が上から目線でいろいろ言ってくることに強い不満を持つようになります。
俺たちは、源平合戦で俺たちを朝廷から開放してくれた頼朝殿だから従っていたんだ。それなのに、なぜこんな若造に命令されなきゃいけないんだ!!
そもそも、鎌倉幕府は御恩と奉公の関係で成立しています。なので、源頼家が御家人たちに「こいつは本当に俺たちの望む御恩を与えてくれるのか?」と疑われ信用を失った時点で、御家人たちが将軍の命令に従う理由もなくなってしまうわけです。
おまけに朝廷内では、源頼朝は亡くなったチャンスを狙って鎌倉幕府に反対する勢力が動き始めます。朝廷内では鎌倉幕府と親密な人物が追放される事件まで起こっています。
将軍就任さっそく、源頼家は大きな壁にぶち当たってしまったのです。
13人の合議制
このまま御家人たちが御恩と奉公の関係を放棄すれば、鎌倉幕府は崩壊します。さらに、朝廷がアンチ鎌倉幕府に染まりつつあり、鎌倉幕府の内部崩壊を後押ししてやろうとそのチャンスを虎視眈々と狙っています。
この鎌倉幕府崩壊の危機を見かねた頼家の側近たちは、幕府崩壊を防ぐため、13人の合議制と呼ばれる新しい政治システムを作り上げました。
13人の合議制とは、簡単に言ってしまうと「有力な13人の御家人が話し合って鎌倉幕府の政治のことを決めようぜ!」という仕組みのこと。
13人の合議制には、御家人たちに直接幕政を担わせることで、御家人たちの鎌倉幕府離れを防ごうとする狙いがあります
おかげさまで鎌倉幕府の崩壊は阻止できたものの、13人の合議制を採用した結果、将軍(源頼家)の発言力が激減してしまいます。
頼家の発言力がどれだけ低下したかは諸説あります。
完全にハブられた・・・という意見もあれば、13人の合議制は若い頼家を支えるためのもので頼家の意見が完全に切り捨てられたわけではない・・・という意見もあります。
「父のような将軍になりたい!」と考えていた源頼家にとって、13人の合議制の到底受け入れられるものではありません。
当然源頼家は、勝手に決められた13人の合議制にブチギレ。13人の合議制によって源頼家と御家人の対立が表面化しますが、それでも源頼家と御家人の関係は辛うじて保たれていました。
というのも、信頼性バツグンで有能な側近、梶原景時という男が源頼家のことを支えてくれていたからです。
源頼家、頼れる側近を失う
しかし、源頼家を支える梶原景時の存在は、頼家を嫌う御家人たちにとっては邪魔な存在です。
そのため、13人の合議制で源頼家がハブられた後、次に排除ターゲットとして狙われたのが梶原景時でした。
梶原景時さえ消えてしまえば、源頼家は完全に孤立する。
そうなれば、上から目線でものを言っていた頼家もただのお飾り将軍だぜ!
1200年(頼家が将軍に就任した翌年)、御家人たちの圧力に屈した梶原景時は幕府から追放。梶原景時は上京を目指しましたが、その旅路で襲撃を受け、万事休すと悟った梶原景時は自害してその生涯を終えました。
梶原景時という有能な側近を失った源頼家は、幕府内で完全に孤立。孤立した頼家は、比企氏という一族のサポートを受けながら、なんとか将軍の地位を維持し続けました。
しかし1203年、この比企氏にも魔の手が迫り、比企一族は滅びることになります・・・。
源頼家と源実朝
梶原景時が亡くなり、源頼家が比企氏と親密な関係になるにつれ、当時最強の御家人だった北条氏のボス、北条時政は次第にこんなことを考えるようになります。
なんかもう、比企氏にベッタリで北条氏の言いなりにならない源頼家っていらなくね?
頼家を将軍から追放して、次男の源実朝を将軍にしようぜ。実朝なら北条氏の操り人形にできるしな。
頼家も実朝も北条政子の息子なはずなのに、なぜ頼家がダメで実朝はOKなの?
と言う疑問もあると思うので、下図の系図を使いながら、少しだけ補足説明をしておきます。
鎌倉時代の社会風習の1つに、「偉い人の妻は子育てを乳母に任せる!」っていうのがありました。
※この風習は鎌倉時代に限ったものではなくて、奈良・平安時代の皇族・貴族から始まり、江戸や明治時代までずーっとある風習です。
源頼家が生まれた当時、源頼朝は息子(頼家)の乳母を比企氏に任せました。
一方で、次男の源実朝の乳母には、北条氏の阿波局という女性が選ばれました。
比企氏に育てられた源頼家と、北条氏に育てられた源実朝。この2人なら、北条氏にとって都合のいいのはもちろん源実朝ですよね。
こんな事情もあって、北条時政は「頼家を排除して、実朝を将軍にしよう!」と考えたのです。
しかも当時、源頼家と比企氏の娘との間に一幡という長男が生まれていました。このまま何もしなければ、次の将軍(3代目)は一幡となり、比企氏の力がますます強くなって北条氏の勝ち目がなくなってしまいます。
比企氏の勢いをなんとしても挫かなければ・・・
こうして、次期将軍をめぐって北条氏と比企氏が対立するようになり、幕府内は不吉な空気に包まれていきます・・・。
上で説明した梶原景時の事件にも、この次期将軍をめぐる争いが関与していた・・・と考えられています。
梶原景時は一幡推しだったと言われています。つまり、実朝推しだった北条氏とは対立関係だったため、「事件の裏では次期将軍問題が関わっているのでは?」とも考えられています。
比企能員の変
1203年、比企氏VS北条氏の争いが表面化。この争いに巻き込まれる形で、源頼家も命を落とすことになりました。
1203年7月、源頼家が病に倒れ、8月には危篤状態に陥ります。
このチャンスを狙って最初に仕掛けたのが北条氏です。北条氏は、当の本人である源頼家にすら相談せずに、頼家が亡くなった場合の遺産相続の話を勝手に決めてしまいます。
1203年9月1日、北条氏の暗躍によって次のような分割相続の話がまとまります。
一幡(頼家の長男)は、28国を治める地頭に。
源実朝は、38国を治める地頭に。
話が決まった翌日(9月2日)、この話を知った比企氏のボス、比企能員は大激怒。
比企能員「俺を無視して何を勝手に決めてんだ北条氏め。次期将軍は一幡なんだから、遺産は一幡に全部相続されるのが当たり前だろうが!絶対にそんな提案認めねーからな!!!」
比企能員はすぐさま病に伏していた頼家の元に向かい、北条氏の勝手な行動を報告。
自分をディスり続ける北条氏にいよいよブチギレた頼家は、比企能員と共に北条氏を討つことを決意します。
・・・が、この源頼家と比企能員の密談を北条政子が盗み聞き。父の北条時政と相談し、比企氏を返り討ちにすることにしました。
比企能員もバカなやつよ。
計画が俺たちに漏れている以上、お前に勝ち目はねーんだよww
北条時政の行動は早いです。同日(9月2日)に、時政は「頼家殿の病気回復のために仏事をやるから晩に俺の屋敷に来ない?」と比企能員を勧誘。
北条氏を討とうとしていた比企能員はビビります。
比企能員「誘いのタイミングが怪しすぎる。これは罠で、屋敷に行ったら俺殺されるんじゃ・・・」
しかし、比企能員に「行かない」という選択肢はありません。誘いを断ったら断ったで逆に怪しまれるからです。
朝に話した内容がその日の晩に北条に筒抜けになるはずがないと踏んだ比企能員は、周囲の反対の声を押しのけ、北条時政の屋敷へと向かいます。
が、案の定、比企能員は北条時政の屋敷で襲撃を受けて命を落としました。その後、謀反の嫌疑により比企一族は根絶やしにされ、幼い一幡も消されます。
この事件は、「比企能員の変」と呼ばれています。
比企能員は、謀反を企んだだけで何もすることなく討ち取られたのに、事件の名前が比企能員の変ということに違和感を感じた方がいるかもしれません。(私もその一人です)
この違和感の理由は「吾妻鏡が北条氏贔屓の文献だからでは?」と言われています。実際は北条氏が一方的に比企氏を蹂躙したんだけど、それだと北条氏のイメージが悪いから、吾妻鏡では比企氏の方から仕掛けたことにしたのでは?と考えられています。
源頼家の凄惨な最期・・・
9月5日、比企能員の変を知った源頼家は大激怒。
北条時政!!なんてことをしてくれたんだ!!
梶原景時に続いて比企能員にまで手を出すとは・・・。
もう絶対に許さん!北条時政なんて、ぶっ○してやる。
源頼家は、御家人たちに北条氏を討ち取るよう命令しますが、これまでの経過からお察しのとおり、多くの御家人たちは頼家の命令に従いません。比企氏が滅ぼされた今、幕府の中に頼家に味方するものはいなくなっていたのです・・・・。
これで邪魔者は全て消した。
あとは、頼家を将軍の座から引きずり下ろし、源実朝を将軍にしてしまえば、幕政は北条氏の思うがままになるぞ!
父上、頼家のことは私にお任せください。
9月7日、源頼家は実母の北条政子の手によって強制的に出家。しばらくして伊豆の修善寺に幽閉された後、1204年7月、源頼家は幽閉先で謎の死を遂げました。満21歳という若さで生涯に幕を閉じたのです・・・。
源頼家が強制出家させられると、北条時政の計画どおり、源実朝が3代目将軍に就任。北条氏は実朝を傀儡将軍にして、実質的な幕府の最高権力者として権力を振るうようになります。
※傀儡:操り人形のこと
源頼家まとめ
- 1182年源頼家が生まれる
父は源頼朝。母は北条政子。
- 1193年富士の巻狩りエピソード
源頼家がキャッキャと狩りを楽しんでいる間に、曽我兄弟の仇討ち事件が起こり、源範頼が排除される。
- 1199年父の源頼朝が亡くなる。源頼家が2代目の鎌倉幕府将軍へ
源頼家は父のように絶対君主として振る舞おうとしたが、13人の合議制が敷かれ、頼家の発言力はダウンした。
- 1200年頼家の頼れる側近、梶原景時が討たれる
北条氏を中心に御家人たちから疎まれていた源頼家は、頼れる存在を失う。困った頼家は、乳母として自らを育ててくれた比企氏を頼るようになる。
- 1203年頼家を乳母として育ててくれた比企一族が滅びる
北条氏の策略によって比企氏が滅ぼされる。
比企氏滅亡によって、源頼家は支持者を失い幕府内で完全に孤立する。
- 1204年源頼家、北条氏の刺客によって凄惨な死を遂げる
孤立した頼家は、実母の北条政子によって強制出家させられ、修善寺に幽閉。幽閉先で入浴中に北条氏の刺客に襲われ、金○を取られた上で首を刎ねられる・・・。
源頼家が幽閉されると、3代目将軍に源実朝が就任する。
源頼家の生涯をまとめると、「父の頼朝の死をきっかけに、源実朝を将軍にしたい北条氏が牙を剥き始め、頼家を凄惨な死に追い込んだ」という感じでしょうか。
ちなみに、次に将軍になった弟の源実朝も壮絶な最期を迎えることになります。源頼朝が開いた武士の世は、武士にとって決して甘い世界ではなかったのです。
※実朝の生涯も合わせて読んでもらえると楽しめると思います↓
コメント
横から失礼します。
頼家が征夷大将軍となったのが1902年になっています笑
ちょっと面白い誤字だったので報告させていただきました。
ご指摘ありがとうございます!修正いたしました。
初めて来ました、面白いし読みやすい…Twitterでフォローさせていただきましたほかの記事を読むのが楽しみです!