

今回は公職追放について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ20万人もの人が職を失ったのか、誰が対象になったのか、現代の政治にどんな影響を残したのか、一緒に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
公職追放というと、軍人や戦争犯罪人だけが対象のイメージがありますよね。
でも実は、国会議員の約8割、財界トップ、マスコミ関係者、学校の先生まで、日本社会の中枢にいた20万人以上が一斉に職を失った、日本史上空前の大粛清だったのです。
この記事では、公職追放がなぜ行われ、誰が対象となり、日本の政治をどう変えたのかを、わかりやすく解説していきます。
公職追放とは?3行でわかる
公職追放とは、1946年(昭和21年)にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令によって実施された、戦前・戦中に軍国主義や国家主義に関わった人物を公的な職務から排除する政策のことです。
対象となったのは、軍人だけではありません。政治家・官僚・財界人・マスコミ関係者・教育者など、日本社会のあらゆる分野のリーダー層が含まれていました。

要は、戦前に力を持ってた人たちを、戦後の新しい日本から一掃しようとした政策だよ!「二度と戦争を起こさせない」ために、軍国主義を支えた人たちを公の場から追い出したんだ。
追放された人物は選挙に出ることも、官僚や企業の役員を務めることもできなくなりました。まさに、日本社会の「顔ぶれ」を丸ごと入れ替えるほどの大規模な措置だったのです。
なぜ公職追放が行われたのか(背景・ポツダム宣言)

公職追放の原点は、1945年7月に発せられたポツダム宣言にあります。
ポツダム宣言の第6項には、「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力は、永久に排除されなければならない」という趣旨が明記されていました。つまり、軍国主義を指導した人物たちを権力の座から排除することが、日本の降伏条件の一つだったのです。

ポツダム宣言って、日本が降伏するときの条件だよね?それと公職追放がどうつながるの?

ポツダム宣言を受け入れた以上、日本は「軍国主義の指導者を排除する」約束を守らなきゃいけなかったんだ。GHQがその約束を具体的な政策にしたのが公職追放だよ!
1945年8月に日本が降伏した後、GHQは占領政策として「非軍事化」と「民主化」を二大方針に掲げました。五大改革指令や財閥解体と並ぶ柱として、公職追放が位置づけられたのです。
■ 1946年1月4日の覚書(1月4日指令)
GHQは1946年1月4日、日本政府に対して「好ましくない人物の公職からの除去に関する覚書」を出しました。これがいわゆる「1月4日指令」です。
この覚書によって、軍国主義者・超国家主義者と見なされた人物が公職に就くことを禁止されることになりました。同時に、幣原内閣の閣僚6名も追放対象と判定され、内閣は崩壊の危機に直面しています。
幣原内閣の閣僚6名が追放対象となり、現職内閣すら無傷ではいられなかった。GHQの追放政策がいかに徹底していたかを物語るエピソードです。
誰が追放対象になったのか?A〜G項を解説

公職追放の対象者は、GHQの覚書に基づいてA〜Gの7つの項目(カテゴリー)に分類されました。それぞれ見ていきましょう。
追放基準A〜G項(7分類)
A項:戦争犯罪人
東京裁判などで起訴された、または起訴が予定されていた戦争犯罪容疑者が対象です。
B項:職業軍人
旧日本陸軍・海軍の職業軍人(陸海軍の将校など)が該当しました。
C項:極端な国家主義団体の指導者
大政翼賛会や国防婦人会など、戦時中に活動した超国家主義的な団体の幹部が対象です。
D項:大政翼賛会・翼賛政治会の有力者
戦時中、大政翼賛会を通じて政治活動に関与した国会議員や推薦候補者が含まれます。
E項:海外の金融・開発機関の役員
旧満州国や占領地域で金融・開発事業に携わった人物が対象になりました。
F項:満州・台湾・朝鮮などの旧植民地行政官
植民地統治に関わった高級官僚が該当しました。
G項:その他の軍国主義者・超国家主義者
A〜Fに当てはまらないものの、軍国主義の推進に関わったと判断された人物全般が対象です。

G項って「その他」ってことよね…。それだと、解釈次第で誰でも追放できちゃいそうで怖いわ。

まさにそこがポイント!G項は「包括条項」とも呼ばれていて、A〜Fに当てはまらなくても追放できる仕組みだったんだよ。実際に、追放対象の大半はこのG項を根拠にされたと言われているんだ。
注目すべきは、追放の判断が「個人の行為」だけでなく、「戦時中の役職・肩書」で機械的に決められた点です。たとえば、大政翼賛会の推薦を受けて当選しただけで追放対象となった国会議員もいました。

追放の規模:20万人とはどれくらいか
公職追放の最終的な対象者数は、合計20万3,660人にのぼりました。この数字だけでは実感がわきにくいかもしれませんが、具体的に見てみましょう。
衝撃の数字:当時の国会議員466人のうち、約381人(約82%)が追放された

今の衆議院に置き換えると、465人中380人以上が一気にいなくなるようなもの。国会がほぼ空っぽになるレベルだよ!
追放された20万人の内訳を見ると、最も多かったのは旧軍人(約18万人)でした。ただし、これは元・陸海軍の職業軍人を「一括で」追放対象にした結果です。
残りの約2万人が政治家・官僚・財界人・マスコミ関係者・教育者などで、数としては少ないものの、日本社会の意思決定層が丸ごと入れ替わったという意味では、こちらのインパクトの方がはるかに大きかったと言えます。

20万人って、全員が戦争を推進した「悪い人」だったの?なんかおかしくない?

いい質問だね。実は、個人の「悪意」ではなく「肩書き・役職」で機械的に追放が決まったんだよ。戦時中に軍に協力させられた一般の行政官も含まれていたから、「全員が悪人だったか?」と問われれば、そうとは言い切れないんだ。
公職追放が政治を変えた:鳩山一郎と吉田茂の話
公職追放が戦後日本の政治に与えた影響を語るうえで、欠かせないのが鳩山一郎と吉田茂のエピソードです。

■ 総選挙で勝利した鳩山一郎、追放で首相になれず
1946年4月、戦後初の総選挙で自由党が第一党となり、党総裁の鳩山一郎が次期首相になることは確実と見られていました。
ところが、首相指名の直前、鳩山はGHQによって公職追放の対象と判定されてしまいます。戦前に文部大臣を務めた経歴などが問題視されたのです。
選挙に勝ったのに首相になれない――。鳩山にとっては、まさに青天の霹靂でした。
■ 代わりに登場した吉田茂
鳩山の追放を受けて、代わりに首相に就任したのが吉田茂です。
吉田茂は戦前、外務省の官僚として活動しており、軍部とは距離を置いていたため追放を免れていました。鳩山から「自分が追放解除されるまで」と政権を託されたのです。
しかし、吉田は首相の座に就くと、そのまま7年以上にわたる長期政権を築き上げます。そして、鳩山の追放が解除された後も、吉田は簡単には政権を手放しませんでした。

鳩山さんが追放されなければ、吉田茂の長期政権もなかったってこと?歴史って一つの出来事で大きく変わるのね。

そのとおり!さらに面白いのは、吉田茂が鳩山の追放解除を裏で妨害しようとしたという話まであるんだよ。「政治の世界は義理人情だけでは動かない」っていう典型的な例だね。
鳩山は追放解除後に政界に復帰し、1954年にようやく首相に就任。そして翌年、55年体制の成立(自由民主党の結党)に大きく貢献しました。公職追放がなければ、戦後日本の政治地図はまったく違うものになっていた可能性があるのです。
財界・マスコミ・教育界への拡大(第2次追放令)
公職追放は当初、政界と旧軍人を中心に行われましたが、1947年1月に追放の範囲がさらに拡大されます。いわゆる「第2次追放令」です。
問題:追放が拡大したことで生まれた「矛盾」とは?
第2次追放令によって、新たに以下の分野にも追放が及ぶことになりました。
財界:財閥解体と連動して、戦時中に軍と結びついていた大企業の役員が追放されました。約1,800人以上が対象となり、日本の経済界のトップ層が一斉に交代することになります。
マスコミ:戦時中に政府の方針に沿った報道を行った新聞社・通信社の幹部が追放されました。言論統制に協力したとの理由です。
教育界:軍国主義教育を推進した教員や教育行政官も追放の対象になりました。教職追放と呼ばれ、120万人を超える教職員が審査を受け、不適格と判定された者が排除されました。

ここに大きな矛盾が生まれたんだ。財界のトップを追放したら、日本の経済復興を誰がやるのか?という問題が出てきたんだよ。実際、アメリカ本国から「やりすぎだ」という反発の声が上がったんだ。
追放の拡大は、日本社会の隅々にまで及びました。地方の町内会長や翼賛壮年団の幹部まで追放対象となったケースもあり、まさに「日本社会の中枢を丸ごと入れ替える」大規模な人的刷新だったのです。
しかし、この「やりすぎ」とも言える追放の拡大が、後に追放政策そのものを揺るがす大きな転換点を生むことになります。それが、冷戦の激化に伴う「逆コース」と呼ばれる政策転換です。
公職追放とレッドパージの違い

ここまで見てきた公職追放は、軍国主義者・国家主義者を排除する政策でした。しかし、占領末期にはこれとは真逆の方向に向かう政策が登場します。それがレッドパージです。
レッドパージとは、1950年頃から行われた共産主義者やその同調者を公職や民間企業から排除する政策のこと。朝鮮戦争の勃発を背景に、GHQが日本政府に対して共産党員の追放を指示したことがきっかけでした。
両者の違いを表にまとめてみましょう。
| 比較項目 | 公職追放 | レッドパージ |
|---|---|---|
| 実施時期 | 1946年〜1952年 | 1950年〜1951年 |
| 追放対象 | 軍国主義者・国家主義者 | 共産主義者・その同調者 |
| 目的 | 戦後民主化・非軍事化 | 反共政策・冷戦対応 |
| 根拠・主導 | GHQ覚書(1946年1月4日) | GHQ指令+日本政府の自主規制 |
| 規模 | 約20万3,660人 | 約1万人以上(民間含む) |

え、公職追放では軍国主義者を排除したのに、今度は共産主義者を排除って…。方針が真逆じゃない?

まさに!これこそが「逆コース」の本質なんだよ。冷戦が激しくなるにつれて、アメリカの対日政策は「民主化」から「反共の防壁にする」へと180度変わったんだ。昨日の「追放された人」が今日の「頼りになる保守政治家」に化ける…。なんとも皮肉な話だよね。
テストでは、「公職追放=軍国主義者(戦後民主化)」「レッドパージ=共産主義者(冷戦対応)」と時代背景とセットで覚えるのが混同を防ぐポイントです。
追放解除と逆コース:冷戦の始まりとともに
1940年代後半、世界はアメリカ(資本主義)とソ連(共産主義)による冷戦の時代に突入しました。
冷戦が激化するなかで、アメリカの占領政策は大きく転換します。「日本を民主化する」という方針から、「日本をアジアにおける反共の砦にする」という方針への転換――。これがいわゆる「逆コース」と呼ばれる政策転換です。

■ 追放解除の流れ
逆コースの一環として、1950年10月から公職追放の解除が段階的に始まります。まずは経済界から、続いて政界へと解除が進みました。
そして1951年9月にサンフランシスコ講和条約が調印され、翌1952年4月の条約発効をもって、公職追放は全面解除されました。
■ 追放解除者の政界復帰と岸信介
追放を解除された政治家たちは、続々と政界に復帰していきます。なかでも注目すべきは岸信介です。

岸信介は、戦時中に東京裁判のA級戦犯容疑者として拘留された人物です。不起訴処分の後に公職追放を受けましたが、1952年に追放が解除されると政界に復帰。なんと1957年には首相に就任し、日米安保条約の改定を主導するまでに至りました。

A級戦犯容疑者として捕まった人物が、数年後に首相になる…。追放と解除が日本の政治をどれほど大きく揺さぶったか、この岸信介の例が一番わかりやすいね。
追放解除された政治家たちは、鳩山一郎を中心に結集し、1955年に自由民主党を結成します。こうして始まった55年体制は、その後約40年にわたって日本政治を支配することになるのです。
公職追放が日本に残したもの(現代への影響)
公職追放は、1952年に全面解除されて終わりました。しかし、その影響は現代にまで及んでいます。
影響①:戦後の政党再編と自民党長期政権
追放によって旧来の政治家が一掃され、吉田茂のような「戦前の非主流派」が権力を握りました。その後、追放解除された旧政治家が復帰して自民党を結成。この二つの流れの合流が、自民党一党優位体制(55年体制)の基盤となりました。
影響②:財界・マスコミ・教育界の世代交代
政界だけでなく、財界・マスコミ・教育界でも大規模な世代交代が起こりました。追放された幹部に代わって登用された若手人材が、戦後の高度経済成長を担う経営者やジャーナリスト、教育者として活躍することになります。

公職追放がなかったら、今の日本の政治や経済は全然違ったものになっていたかもしれないのね。

間違いなくそうだね。公職追放は「日本社会のリセットボタン」を押したようなもの。良くも悪くも、現代の日本政治の原点がここにあると言っても過言じゃないんだよ。
テストに出るポイント(共通テスト・高校日本史)

テストで「公職追放」と「レッドパージ」がごっちゃになりそう…。どうやって覚えればいい?

コツは「時代の流れ」と一緒に覚えること!終戦直後(1946年)→軍国主義者を追放=公職追放。冷戦激化後(1950年)→共産主義者を追放=レッドパージ。「戦後すぐは右を排除、冷戦後は左を排除」って流れで覚えると混同しにくいよ!
公職追放の理解を深めるおすすめ本
公職追放をさらに深く知りたい人には、竹前栄治さんの岩波新書『GHQ』がおすすめだよ。公職追放を含むGHQ占領政策の全体像が、コンパクトにまとまってる1冊!
よくある質問(FAQ)
GHQが1946年1月4日の覚書に基づき、軍国主義者・国家主義者を政界・財界・教育界などの公職から排除した政策です。ポツダム宣言第6項を根拠とし、最終的に20万3,660人が追放対象となりました。
約20万3,660人です。そのうち旧軍人が約18万人を占め、残りが政治家・官僚・財界人・マスコミ関係者・教育者などでした。国会議員に限れば、466人中約381人(約82%)が追放されています。
1950年10月に段階的な解除が始まり、1952年4月のサンフランシスコ講和条約発効によって全面解除されました。岸信介など一部の人物は全面解除まで追放が継続しています。
公職追放(1946年〜)は軍国主義者・国家主義者が対象で、戦後民主化が目的です。一方、レッドパージ(1950年〜)は共産主義者が対象で、冷戦への対応が目的でした。追放対象も目的も全く逆の政策です。
鳩山一郎は戦前に文部大臣として教育現場での言論弾圧を容認したことなどがGHQに「軍国主義的」と判断されたためです。1946年の総選挙で自由党が第一党になった直後に追放指定を受け、代わりに吉田茂が首相に就任しました。
冷戦の激化を背景に、アメリカの対日占領政策が「民主化・非軍事化」から「反共の防壁としての日本再建」へ転換したことを指します。公職追放の解除、レッドパージの実施、警察予備隊の創設などが逆コースの代表的な政策です。
まとめ:公職追放が変えた戦後日本
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1945年8月ポツダム宣言受諾・終戦
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1946年1月4日GHQ覚書発令・公職追放開始
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1946年4月戦後初の総選挙・自由党が第一党に
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1946年5月鳩山一郎が追放指定・吉田茂が首相就任
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1947年第2次追放令・財界・マスコミ・教育界へ拡大
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1950年6月朝鮮戦争勃発・レッドパージ開始
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1950年10月公職追放の段階的解除が始まる
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1952年4月サンフランシスコ講和条約発効・公職追放全面解除
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1955年自由民主党結成・55年体制の始まり
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「公職追放」(2026年4月確認)
コトバンク「公職追放」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
nippon.com「公職追放」連載(2026年4月確認)
国立国会図書館「史料にみる日本の近代」(2026年4月確認)
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