

今回は、戦後日本で行われた五大改革について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
五大改革とは
五大改革とは、敗戦後の日本を民主化するため、GHQ占領下の日本で実施された5つの大改革のことを言います。
具体的な改革内容は、次のようなものでした。
GHQが日本を占領下に置いた目的は大きく2つ。
日本が再び戦争を起こさないようにするため、
日本を非軍事化させること
日本を民主化させること
でした。
五大改革は後者の「日本の民主化」のために行われた改革となります。
GHQと五大改革の関係
GHQは日本を直接占領するのではなく、間接統治という方法で占領をしました。
間接統治っていうのは、GHQが日本政府にさまざまな命令・指示を送って、国の統治自体は日本政府に任せる方法のことを言います。
GHQが日本政府に下す命令・指示はポツダム勅令と呼ばれ、もし日本が逆らえば、GHQが直接統治に移行することも可能でした。

1945年10月、GHQは日本政府に対して日本の民主化を進めるよう指示を下します。
当時の内閣は、幣原喜重郎内閣。

幣原内閣は、GHQから「日本を民主化するために改革を断行してくれよな!」とミッションを与えられ、その実現に向けて幣原内閣はさまざまな政策を打ち出しました。
※五大改革は、幣原内閣の次の内閣(吉田内閣)にも引き継がれていきました。
こうして始まった日本の民主化に向けた一連の改革のこそが、今回紹介する五大改革なのです。

五大改革それぞれの内容について、詳しく紹介していくね!
五大改革①:女性への参政権付与
1945年12月、衆議院議員選挙法が改正されて、女性にも参政権を認められました。
満20歳以上の男女に参政権が与えられ、有権者数はそれまでの三倍に。さらに、女性参政権が認められた後の最初の選挙(1946年4月)には、女性議員も誕生しました。

衆議院議員選挙法って初めて聞くけど、どんな法律なの?
五大改革②:労働組合の結成促進
1945年12月、労働組合法という法律が制定されて、
労働者が組合を結成する権利(団結権)
労働組合が経営者と交渉できる権利(団体交渉権)
ストライキなどで経営者に対抗する権利(争議権)
の3つの権利(労働三権)が労働者に保障されるようになりました。
その後も、労働関係調整法(1946年)・労働基準法(1947年)が制定され、労働者の権利や立場を守る基本的な法律が整備されました。

労働組合法・労働関係調整法・労働基準法は、あわせて労働三法と呼ばれていて、現在も残っている法律です。

五大改革③:教育制度の民主化
教育面では、1947年に教育基本法・学校教育法が制定されて、教育の民主化が行われました。
この時に大きく変わった点は次のとおりです。
国定教科書の廃止
国定教科書は、国によって作られた教科書のこと。
国定教科書が廃止された後、教科書は民間企業が作るようになりました。国は教科書の内容をチェックする権限を持っていて、国に認められた教科書だけが世に出回ります。

国に認められた教科書が複数あれば、教育委員会や学校は教科書を自由に選ぶことができます。
だから、地域や学校によって使っている教科書が違うことがあるんだよ。
ちなみに、私が記事を書くときは山川出版社の教科書を参考にしています。
軍国主義者を教職から追放
都道府県・市町村への教育委員会の設置
その時々の政治によって教育内が変わらないよう、教育に関する権限の多くが都道府県・市町村に委ねられるようになり、さらに各自治体には教育委員会が設置されました。
教育委員会は、都道府県・市町村から独立した機関であり、教育を政治に左右されない公平・中立なものとするために設置された組織です。
・小学6年・中学3年・高校3年・大学4年の新たな学制がスタート

五大改革④:秘密警察などの廃止
国民の言論や思想を弾圧する組織・制度が廃止されました。
廃止された組織・制度の中で、教科書にも載っているのが治安維持法と特別高等警察(略して「特高」)です。
GHQは5大改革の命令とほぼ同時に、思想弾圧を廃止するよう日本政府に個別の命令(人権指令)を出しており、この人権指令に基づき思想弾圧に関する制度・組織の廃止が行われました。
五大改革⑤ー1:経済の民主化 〜財閥解体〜
経済の民主化に向けて行われた改革では、大きく2つの改革が行われました。
財閥の解体
農地改革(寄生地主制の廃止)

それぞれ、詳しく紹介していくね。まずは、財閥解体の話から!
GHQは、国の手厚い保護を受けながら日本の軍事産業を支えていた財閥を、日本の民主化・非軍事化に邪魔な存在とみなし、財閥を解体するよう日本政府に命じました。
特定の一族によって支配された巨大な企業集団こと。
有名なのは、三菱・三井・住友・安田の4財閥です。
財閥はその圧倒的な資本力を活かして、銀行・不動産・重化学工業など多岐にわたる会社を支配下に置くことで、戦前の日本経済に大きな影響を与えていました。

政府も財閥抜きには経済政策を打ち出せないため、政府と財閥は癒着関係にあることが多く、日本の軍事産業を支えたのも財閥だったんだ。
持株会社整理委員会

財閥っていったいどんな方法で企業を支配下に置いていたの?

・・・それはね、財閥が『持株会社』と呼ばれる会社を設立して、傘下企業の株式を保有することで企業を支配下に置いていたんだよ。
株式会社っていうのは、株主が会社の方針を決める権限を持っている会社で、持っている株が多いほど、株主は強い発言権を持ちました。
財閥はこの株式会社の仕組みを利用して、傘下企業の株を多く持つことで企業の経営を支配していったのです。
※「持株会社」っていうのも、傘下企業の『株』を多く『持』っている会社という意味だったりします。
日本政府は1946年、財閥を解体するため、持株会社や財閥一族に対して持っている株を譲り渡すよう要求。
そして、譲り受けた株を世間の多くの人々に売り出し、財閥が持株会社を通じて傘下企業を支配できないようにする・・・つまり財閥を解体しようとしました。

いろんな人が株を持つようになれば、企業は経営判断のために多くの株主の意見を聞かなければならなくなり、経済の民主化が進むことになったんだ。
この時、持株会社から株を譲り受け、世間へ売り出すために立ち上げられた組織が、持株会社整理委員会と呼ばれる組織でした。
※戦前の財閥と政府は、蜜月の関係だったため、財閥を解体するには、政府とは別の第三者の機関が必要だったのです。
独占禁止法
持株会社整理委員会を通じて財閥解体が進む中、1947年には独占禁止法という法律が制定されました。
独占禁止法は、解体された財閥が再生することを防ぐための内容となっていて、持株会社が禁止されたほか、カルテル・トラストの結成も禁止されました。
【カルテル】
ライバル企業同士が価格競争をやめて、高値で商品が売れるよう裏で話し合って価格を決めてしまうこと。
【トラスト】
価格競争を避けるため、同じ商品を売っている会社たちが合併して1つの企業となり、商品を独占販売してしまうこと。
過度経済力集中排除法
1947年、日本政府は、持株会社を解散した後もなお残り続けた巨大独占企業に対して、その影響力を削ぐために会社の分割を命じました。
このときに制定された法律のことを過度経済力集中排除法と言います。
五大改革⑤ー1:経済の民主化 〜農地改革〜

GHQは日本の農地制度にも、戦争を引き起こした原因があると考えていました。
日本の農地所有者(地主)のほとんどは、自ら農業をすることはなく、農民に土地を貸し付けて小作料を取り立てることばかりを考えていました。
※自ら農業に携わらない地主は、寄生地主と呼ばれました。

地主から課せられた小作料が厳しすぎて、まともな生活が送れないんだが・・・。
そこでGHQは、「日本は経済が発展しても、国内が貧しい小作人ばかりだから、国内では商品が売れず、売り先を求めて植民地を増やそうとした。その結果が軍国主義であり太平洋戦争だったんだ!」と考えました。
つまりGHQは、日本が再び戦争を起こさないようにするためには、小作人たちを寄生地主から解放して自立して生活できるようになることが重要だと考えたってことです。
1946年、自作農創設特別措置法という法律が制定され、本格的な農地改革がスタートしました。
農地改革の目的は「寄生地主を排除して、小作人たちを自立させること」です。
具体的には、寄生地主が持つ土地を国が強制的に買い取って、小作人たちに安価で売り渡しました。
こうすることで、小作人たちは自分の農地を自分で耕すことができるようになり、寄生地主からの搾取から解放され、貧困から脱することができる・・・という理屈です。
五大改革の成果とその後
五大改革のうち「女性参政権付与」「秘密警察などの廃止」「農地改革」の3改革は、順調に進められました。
・・・が、残り2つの「労働組合結成」「経済民主化」は1948年から大きな方針転換が行われました。
というのも、中国で共産党が頭角を表すようになり、日本がソ連・中国の2大社会主義国家に挟まれてしまったのです。

このままでは日本まで社会主義に飲み込まれてしまう。
日本の社会主義化はなんとしても防がなければ・・・。
GHQは日本の社会主義化を防ぐため、大きく2つの方針転換を行いました。
労働組合への規制
社会主義者の温床となっていた労働組合に規制が加えられ、当時労働運動の中核を担っていた公務員から争議権を奪い取りました。
※公務員には今もなお争議権が与えられていません。
経済の民主化から復興へ
GHQは、財閥や独占企業の解体して経済の民主化を進めるよりも、
日本経済を復興させて、日本を社会主義に負けない資本主義国家に成長させることを優先するようになりました。
持株会社整理委員会を通じて解体される予定だった持株会社は当初83社ありましたが、GHQの方針転換により実際に解体されたのは28社だけとなり、
さらに過度経済力排除法によって分割される企業も、当初は325社が対象でしたが、実際に分割されたのはわずか11社に留まりました。

具体的な数字は覚える必要はないけど、経済復興を優先した結果、財閥解体が中途半端に終わったことはしっかりと理解しておきましょう!
確認問題
答:ウ
GHQが5大改革を指示したのは、幣原喜重郎内閣です。
五大改革の話は、その内容ばかりに目がいきがちだけど、政治の流れとの関係性も問われることがあるので、しっかり確認しておこう!
答:イ
【他の回答の間違っているところ】
ア: 教育委員会は国ではなく、都道府県・市町村に設置されました。
ウ:持株会社の解体は、持株会社整理委員会によって実施されました。過度経済力排除法は持株会社解体後もなお残った巨大独占企業の解体を目指した法律です。
エ:女性に参政権が与えられた後も最初の選挙で女性議員が誕生しています。
コメント
めっちゃ分かりやすいです!クラスのみんなにもおすすめしちゃいました(笑)ありがとうございます!