今回は、1955年に出来上がった55年体制について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
55年体制とは
55年体制とは、1955年に成立した自由民主党と日本社会党による二大政党体制のことを言います。
二大政党体制が成立した1955年の下2桁をとって55年体制と呼ばれています。
55年体制は1955年〜1993年までの38年間続き、その間に政権交代は一回も行われず、自由民主党が与党として長期政権を築くことになりました。
55年体制は、戦後日本の政局の安定をもたらしましたが、一方で政治腐敗を招くことにもなりました。
良くも悪くも、約40年の年月をかけて今の日本の政治のベースを作り上げたのが55年体制と言えるよ!
55年体制が構築された時代背景
まずは、55年体制ができるまでの政局の流れを確認しておきます!
話は戦時中までさかのぼります。
日中戦争の真っ最中だった1940年、政府は「ドイツのナチ党みたいに一党独裁体制を敷いて、強力なリーダーシップで戦争を終わらせよう!」と考えて、大政翼賛会を立ち上げました。
既存の政党は解党して大政翼賛会へ参加することを求められ、すベての政党がこれに応じました。
大政翼賛会の登場によって、戦争が終わるまでの間、日本から政党の存在は消え去ることになったんだ。
※大政翼賛会そのものも、後にその存在が憲法違反であるとして、政党とは認められませんでした。
1945年8月、日本は太平洋戦争に敗北。敗北した日本はGHQ占領下に置かれ、日本の非軍事化・民主化が進められました。
大政翼賛会は解体され、ふたたび政党を自由に結成することが認められました。
日本自由党と日本社会党
政党結成が認められると政党が次々と誕生します。
そしてその中には、55年体制を理解する上で重要なキーとなる『日本自由党』と『日本社会党』の存在もありました。
それぞれの政党について、簡単に紹介しておくね!
日本自由党
日本自由党は、戦前に存在していた立憲政友会という政党を母体とした政党です。
大政翼賛会ができた当時、立憲政友会の中には、軍国主義を目指す大政翼賛会に反対する人々が多くいて、その筆頭だったのが、鳩山一郎という人物でした。
鳩山は、大政翼賛会に属さない無所属議員として国政に携わりましたが、軍国主義の道を突き進む政府に失望し、1943年に活動を中止。
その鳩山が、再起のために立ち上げたのが日本自由党でした。
日本社会党
日本社会党は、社会主義の実現を目指した政党です。
社会主義っていうのは、「資本主義が続くと貧富の差が拡大してしまうから、富を産む資本を個人が保有するんじゃなくて、国家で管理するシステムにした方がみんな幸せになるよね!」っていう思想のことを言います。
日本社会党には、
資本主義を維持しようとする日本自由党を嫌う人々
や
資本主義には反対だけど、共産主義は思想が過激すぎるとと思う人々
が集まりました。
すごくザックリ言ってしまうと、「資本主義は嫌だけど、共産主義も嫌だ!」っていう人たちが集まって結成されたのが日本社会党でした。
日本社会党は、日本自由党ほど保守的でなく、共産党ほど過激でもない、いわゆる「中道」の政党として勢力を保ちました。
・・・しかし、考え方が中道であるがゆえに党の方針がまとまらず、党内では頻繁に意見対立が起こりました。
1951年、日本社会党は、サンフランシスコ平和条約をめぐる対応で党内対立が激化し、党は2つに分裂してしまいました。
自由党の分裂
日本自由党もまた、分裂の道を辿ることになります。
鳩山が立ち上げた日本自由党ですが、その後の政党運営を任されたのは吉田茂という人物でした。
鳩山一郎は政党を立ち上げただけで、身を引いてしまったってこと?
いや、鳩山一郎はやる気マンマンで、日本自由党は1946年に与党になっていたから、当初は鳩山が首相になる予定もあったんだ。
だけど、GHQによる戦争関係者の公職追放によって鳩山一郎も公職から身を引かなければならなくなったんだよ・・・。
※鳩山は、統帥権干犯問題で統帥権を認める発言をしていた過去があるため、GHQに危険思想者だとみなされてしまったのです。
鳩山は、公職追放が解かれるまでの政権運営を吉田茂に託しました。
吉田よ、私の公職追放が解かれるまでの間、首相を頼まれてくれないか。
・・・わかった、俺には荷が重そうだが、首相を引き受けよう。
ただし、嫌になったらすぐ辞めるからな!
日本自由党は、その後何度かマイナーチェンジして、日本自由党→民主自由党→自由党と党名が変わっていきました。
党名が変わった原因・背景まで覚える必要はないので、『民主自由党も自由党も母体は日本自由党!』ぐらいを知っておけばOKです。
1951年、ついに鳩山の公職追放が解かれました・・・が、
長い間待たせたな吉田よ。あとは私に任せろ!
・・・
お、おい吉田。なんか言えよ。
・・・、渡さない。
・・・え?
鳩山の公職追放が解かれても、政権は鳩山に渡さない。
吉田め、俺を裏切ったな・・・。
絶対に許さないから覚悟しとけ!
という感じで、次第に鳩山と吉田は不仲になっていきます。
そして、1954年、吉田内閣と造船業界が癒着が発覚した大スキャンダル(造船疑獄事件)が起こると、鳩山は、反吉田派を率いて自由党を離党。新たに日本民主党を結成しました。
吉田を追い詰めるなら、今がチャンスだ!
1954年12月、鳩山の離反とスキャンダルの影響により吉田内閣は総辞職に追い込まれました。
吉田内閣が解散した後、鳩山率いる日本民主党が政権を握ることになりましたが、日本民主党は議席数が少なかったため、1955年2月、衆議院選挙を実施して、民意を問うことにしました。
憲法改正をめぐる対立
この選挙で大きな焦点になったのが、再軍備とそのための憲法改正(特に憲法第9条)の議論でした。
鳩山は再軍備のために憲法改正を訴えていましたが、日本社会党は憲法改正に強く反対しました。
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(参考)日本国憲法第9条
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
憲法改正には衆参両院の3分の2以上の議席が必要だったため、
日本民主党などの改憲派が3分の2以上の議席をとれるか(逆に言えば反改憲派が1/3以上の議席をとって改憲を阻止できるか)が選挙の大きな焦点になったのです。
総議席数467だったので、
改憲派が312議席以上をゲットすれば改憲派の勝ち
逆に反改憲派が155議席以上をゲットすれば反改憲派の勝ち
です。
・・・選挙の結果は、こんな感じになりました↓↓
2つに分裂していた日本社会党が合わせて156席の議席を確保して改憲の阻止に成功しました。
一方の日本民主党は、同じ改憲派の日本自由党とあわせても297票と312票には届きませんでした。
55年体制の完成
もう1つ大きな問題となったのは、日本民主党は与党になったにも関わらず、単独で衆議院の過半数の議席をゲットできなかった・・・という問題です。
結局、日本民主党は、自身が裏切って離脱した自由党の協力がなければ政策を決められない不安定な政権運営を強いられることになりました。
法案や予算などを国会で決めるには、衆議院・参議院それぞれで過半数の賛成が必要です。
なので、単独で過半数の議席をゲットできなければ、他の政党と協力して過半数の賛成を集める必要があるのです。
さらに1955年10月、2つに分裂していた日本社会党が自由党・日本民主党に対抗するため再び統一。
不安定な政局にさらなる拍車がかかりました。
もし日本民主党と自由党が仲違いすることがあれば、その隙に日本社会党が政権を握る可能性が出てきたってわけです。
財界では、以前から民主党と自由党の合同を望む声があがっていました。
私たち資本家は、日本が社会主義化すると困る。
頼むから民主党と自由党は統一して、ちゃんと日本社会党に対抗してくれよ!
しかし、両党の仲は決して良いとは言えず、合同の交渉は頓挫していました。
・・・が、日本社会党が統一を果たすと、日本民主党も自由党も強い危機感を抱き始め、ついに歩み寄りを見せるようになります。
そして1955年11月、ついに日本民主党と自由党の合同が決まりました。
合同してできた新政党は、日本自由党の『自由』と、日本民主党の『民主党』を採って自由民主党と名付けられました。(世間では略して自民党と呼ばれています。)
こうして国会の議席の多くを日本社会党と自由民主党の2党が占める二大政党制が始まり、この体制のことを55年体制と呼ぶようになりました。
55年体制の特徴【メリット・デメリット】
55年体制による二大政党制には大きな特徴が一つありました。
それは・・・、
政権交代が一度も起こらず、ずーと自民党が政権を握り続けていた
という特徴です。
日本社会党は、改憲を阻止する3分の1以上の議席は確保できたものの、議席の過半数をゲットすることは一度もできず、政権を握ることはありませんでした。
55年体制によって、自民党は長期政権が築かれることとなり、日本の政治に次のようなメリット・デメリットをもたらしました。
メリット:政策が二転三転せず、一貫した政策を行うことができた
一貫した経済・外交政策を行うことで経済面では日本は世界屈指の経済大国へと成長し、外交面ではアメリカとの関係を深めることとなりました。
デメリット:自民党にライバルがいないため、政治腐敗が起こりやすくなった
一方で、自民党に対抗できる政党がいなくなった結果、日本の政治腐敗が進みました。
55年体制が長く続くようになると、自民党と特定企業との癒着が横行するようになり、自民党は国民からの信頼を失っていくことになります・・・。
55年体制の崩壊
自民党の汚職事件は年々増していき、1990年頃になると、自民党内では汚職を防ぐため、選挙制度や政治資金規制の改革に向けた議論が行われるようになります。
・・・しかし、議論が盛んになると、改革方針をめぐって自民党内で派閥争いが激化。
1993年に衆議院議員選挙が行われると、党の方針に不満を持つ派閥が自民党を離脱。
新たに新政党・新党さきがけを立ち上げて、選挙で自民党と戦うこととなりました。
・・・選挙の結果、自民党は惨敗。
議席の過半数すらをゲットすることができず、他政党との協力がなければ、政権運営が困難となりました。
・・・しかし、自民党と協力する政党はなく、逆に自民党に対抗するため共産党を除く野党8党が連立政権を築き、自民党からの政権交代を実現しました。(細川内閣)
こうして自民党の長期政権は崩壊し、55年体制は終わりを迎えることになりました。
自民党は55年体制崩壊からしばらく経ってから与党に復活したけど、自民党単独で衆議院・参議院それぞれの過半数の議席をゲットすることができず、公明党との連立政権を築くことになるよ。
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