今回は、戦後の日本で行われた財閥解体について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
財閥ってそもそもなに?
財閥っていうのは、一族経営によって経営される巨大な企業集団のことを言います。
財閥は工業・不動産・勧誘・貿易などあらゆる産業分野に関わっていたため、戦前の日本経済に大きな影響を与えていた・・・というより、
財閥抜きでは日本経済が成り立たないほどの重要なポジションを占めていました。
そのため日本政府も、財閥を無視して国政を行うことができず、財閥の存在は政治にも大きな影響を与えていました。
政府と財閥は癒着関係にあって、政府が財閥が不利になる政策をすることは基本的にありませんでした。
敗戦した日本を占領下に置いたGHQは、財閥と政府のズブズブな関係を問題視し、戦後の日本再興のため財閥を解体させることにしました。
財閥の問題点
日本を占領下に置いたGHQは、日本が再び戦争を起こさぬよう
日本の非軍事化
日本の民主化
を目指して日本の改革を目指しました。
そして、日本の非軍事化・民主化を目指そうと思ったときに、大きな障壁になったのが財閥の存在だったのです。
問題1:財閥は日本の軍事産業を支えていた
まず一つ大きな問題だったのが、財閥が日本の軍事産業の中核を担っていたという問題です。
GHQは、日本が戦争を起こした理由の1つに、「財閥は政府と癒着して、政府が望む軍事物資を次々と提供して、日本政府に戦争遂行能力を与えてしまったこと」があると考えていました。
なので、日本の戦争遂行能力を削ぐためにも、財閥を弱体化させる必要があったのです。
問題2:財閥は日本経済を支配していた
もう1つの問題は、財閥の経営方針は日本の政治・経済を大きく動かすほど重要なのに、その経営方針を経営権を握っている一族のみで決めることができてしまう点です。
これでは、日本を政治の面からどれだけ民主化できたとしても、財閥一族の意向だけで日本の政治・経済が動いてしまうので、事実上の独裁に近い形になりかねません。
そこでGHQは、日本の民主化を進めるためには財閥解体が必要不可欠である・・・と考えました。
財閥解体の始まり
1945年12月、GHQは日本の非軍事化・民主化に向けた5つの大改革を日本政府に命令しました。いわゆる五大改革というやつです。
五大改革の中にはGHQが重要視していた財閥解体も改革の1つに含まれており、いよいよ財閥解体に向けた改革が始まります。
財閥解体に向けた改革は、大きく3つの政策で成り立っていました。
持株会社整理委員会による財閥の解体
財閥の復活を阻止する独占禁止法の制定
財閥解体後も残る巨大独占企業を規制する過度経済力集中排除法の制定
の3つです。
この3つの政策はどれも受験でよく出る内容だから、それぞれ詳しく解説していくね。
持株会社整理委員会
本題に入る前に、まずは『財閥がどんな方法で多くの企業を傘下に収めていたのか?』について説明しておきます。
財閥は、株式会社の特徴である「株式をたくさん持っている人の意見が反映されやすい」という点を利用して、傘下企業の株式を大量に持つことで、傘下企業の経営権を握っていました。
財閥は、傘下企業の大量の株を保有・管理する専用の会社を設立し、その会社を通じて傘下企業全体に命令を下しコントロールしていました。
ここで登場した傘下企業の大量の株を保有・管理して財閥全体の司令塔の役割を担った会社のことを持株会社と言います。
※大量の『株』を『持』っている会社だから、持株会社と言います。
そして、企業同士が資本(お金)の関係で深く結びついて発展した巨大な企業集団のことをコンツェルンと言います。
財閥もコンツェルンの一種!
ここまでの話を図解するとこんな感じになります↓↓
GHQから財閥解体を支持された日本政府は、財閥の司令塔になっている持株会社に着目します。
持株会社が持っている子会社の株式を奪ってしまえば、財閥はコンツェルン体制を維持できなくなって崩壊していくのでは・・・!?
1946年、政府は、持株会社から子会社の株式を回収して管理するための組織を新たに立ち上げました。
この組織のことを持株会社整理委員会と言います。
※政府の内部には財閥と深い関係を持つ人たちがたくさんいたので、インチキされずに公正・公平に株式を処分するには、第三者による機関が必要だったのです。
政府は1年前の1945年から、財閥に対して持株会社や財閥一族に対して子会社株式の没収を命じており、そこで没収された株式は持株会社整理委員会が預かることになりました。
持株会社整理委員会に集められた株式は、世間に広く売り出され、多くの人たちが財閥子会社の株式を持つようになりました。
こうして持株会社は消滅し、司令塔を失った財閥は解体することになりました。
多くの人が株式を持つようになれば、会社は財閥一族だけではなく、いろんな人の意見を聞いて会社経営をする必要があります。
財閥一族の意向だけで経営判断ができなくなるので、日本経済の民主化に繋がりました。
独占禁止法
持株会社整理委員会を通じて財閥解体が行われた1946年の翌年(1947年)、独占禁止法という法律が制定されました。
独占禁止法には、解体した財閥が復活しないようコンツェルン・カルテル・トラストの3つを禁止する内容が盛り込まれています。
それぞれ、簡単に紹介しておきます。
コンツェルンの禁止
財閥が復活しないよう、新しくコンツェルンを結成すること(持株会社を設立すること)が禁止されました。
カルテルの禁止
カルテルとは、同じ商品を売っているライバル同士が価格競争をやめて、裏で話し合って価格を高値で統一してしまうことで、儲けを増やそうとすること。
トラストの禁止
トラストとは、価格競争を避けるため、同じ商品を売っている会社たちが合併して1つの企業となり、商品を独占販売してしまうこと。
カルテルとトラストは、持株会社がなくても財閥と似たようなことができてしまうから禁止されたんだ。
ちなみに、カルテル・トラストは今でも独占禁止法で禁止されています。
過度経済力集中排除法
独占禁止法が制定されたのと同じ1947年、もう1つ過度経済力集中排除法という法律が制定されました。
過度経済力集中排除法は、財閥解体後もなお残っている巨大独占企業が財閥のような動きをしないよう、巨大独占企業を複数の企業に分割して影響力を削ぐための法律です。
GHQの方針転換
持株会社整理委員会・独占禁止法・過度経済力集中排除法の3政策によって財閥は解体されたものの、日本経済の民主化は不完全に終わりました。
・・・というのも、1948年に入るとGHQの方針が大きく変わったからです。
具体的には、
日本経済の民主化
よりも
日本の復興と経済発展
を優先するようになったのです。
方針転換の背景には、中国で共産党が台頭してきた・・・という事情がありました。
日中戦争が終わった後、中国では中国共産党VS中国国民党の内紛が起きて、1948年に入ると中国共産党が優勢の展開が続いていました。
もし共産党が内紛に勝利すれば、日本はソ連・中国という2大社会主義国家に囲まれることになります。
ソ連と冷戦状態にあったアメリカは、日本がソ連・中国に飲み込まれて東アジア全体が社会主義化することを恐れました。
そこでアメリカは、日本経済の民主化よりも、日本を社会主義に負けない資本主義国家に成長させることを優先したのです。
※実際、1949年には中国に社会主義国家の中華人民共和国が建国されることになります。
日本の経済発展のためには、財閥の力をある程度は残しておく必要があったので、経済の民主化は中途半端に終わることになりました。
持株会社整理委員会を通じて解体される予定だった持株会社は当初83社ありましたが、GHQの方針転換により実際に解体されたのは28社にとどまり、
過度経済力排除法によって分割される企業も、当初は325社が対象でしたが、実際に分割されたのはわずか11社に留まりました。
具体的な数字まで覚える必要はないけど、『当初の予定よりも財閥解体政策が緩くなって対象となる企業数が減った』ってことは覚えておきましょう!
確認問題
答: イ
持株会社整理委員会を通じて解体される持株会社は、当初83社でしたが、1948年に行われたGHQの方針転換(経済民主化よりも経済復興!)より、実際に解体されたのは28社にとどまりました。
答: ア
アは、財閥が復活しないよう独占禁止法でトラスト・カルテル・コンツェルンが禁止されたので正しい。
イは、財閥は財閥解体に強い抵抗をすることはなかったので誤り。
ウは、過度経済力集中排除法は、財閥解体後も残っていた巨大独占企業の分割が目的の法律だったので誤り。
エは、財閥解体はGHQの指示・命令の下、日本政府が実施した政策なので誤り。
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