東京裁判とは?わかりやすく解説|A級戦犯・問題点・パール判事まで

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東京裁判とは?わかりやすく解説

もぐたろう
もぐたろう

今回は東京裁判について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!A級・B級・C級戦犯の違い、パール判事の無罪論、「勝者の裁き」批判まで、テストにも役立つ内容でまとめてるから最後まで読んでみてね!

📚 この記事のレベル:高校日本史 / 共通テスト対応
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 昭和・戦後史(定期テスト・大学受験に対応)

この記事を読んでわかること
  • 東京裁判(極東国際軍事裁判)とは何か・開廷の基本情報
  • A級・B級・C級戦犯の違い(重さではなく罪の種類の話)
  • 主な被告人と判決の内容(絞首刑7名・終身禁固16名など)
  • パール判事の全員無罪意見・「勝者の裁き」批判とは何か
  • 東京裁判史観と戦後日本の歴史認識への影響
  • 共通テスト・高校日本史でテストに出るポイント

東京裁判は、連合国が日本の戦争犯罪を裁いた”正義の裁判”——そんなイメージが一般的ですよね。

でも実は、裁判の法律的根拠や公平性をめぐって、当時から激しい論争がありました。インドのパール判事ぱーるはんじは被告全員の無罪を主張し、あの裁判を「勝者の裁き」と真正面から批判したのです。

この記事では、東京裁判の基本情報からA級・B級・C級戦犯の違い、判決の詳細、そして今も続く論争まで、わかりやすく解説していきます。

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東京裁判とは?

3行でわかる東京裁判
  • 東京裁判とうきょうさいばん(正式名称:極東国際軍事裁判きょくとうこくさいぐんじさいばん)は、第二次世界大戦後に連合国が日本の戦争指導者を裁いた国際裁判
  • 1946年5月〜1948年11月、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校で開廷。11カ国の判事が参加し、28名が起訴された
  • 判決は絞首刑7名・終身禁固16名など。一方で裁判の正当性をめぐる論争は今も続いている

東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷の様子
東京裁判の法廷の様子(市ヶ谷・旧陸軍士官学校)

東京裁判とは、太平洋戦争(第二次世界大戦)の終結後、連合国が日本の戦争指導者たちを裁くために開いた国際軍事裁判のことです。

正式名称は極東国際軍事裁判きょくとうこくさいぐんじさいばんですが、東京で行われたことから「東京裁判」という通称が広く使われています。

裁判は1946年(昭和21年)5月3日に開廷し、1948年(昭和23年)11月12日に判決が言い渡されました。約2年半にわたる長期裁判でした。

会場は東京・市ヶ谷いちがやの旧陸軍士官学校の大講堂です。連合国11カ国から判事が派遣され、日本側からは28名A級戦犯えーきゅうせんぱんとして起訴されました。

もぐたろう
もぐたろう

ちなみに、同じ時期にドイツでも「ニュルンベルク裁判にゅるんべるくさいばん」という国際軍事裁判が開かれているよ。東京裁判はそのアジア版ってイメージだね!

東京裁判は、戦争を計画・指導した「国家のトップ」を国際法のもとで裁くという、当時としては非常に画期的な試みでした。しかし同時に、その法的根拠や公平性をめぐって多くの批判も浴びることになります。

東京裁判が開かれた理由

日本の降伏文書調印式(1945年9月・ミズーリ号艦上)
日本の降伏文書調印式(1945年9月2日・戦艦ミズーリ艦上)

東京裁判が開かれた背景には、大きく分けて2つの理由がありました。

■ポツダム宣言と戦争犯罪人の処罰

1945年7月、アメリカ・イギリス・中国はポツダム宣言を発表しました。この宣言には「日本の戦争犯罪人を厳重に処罰する」という条項が含まれていました。

1945年8月15日に日本がポツダム宣言を受諾して降伏すると、連合国はこの条項に基づいて、日本の戦争指導者たちを裁判にかける準備を始めたのです。

■連合国が「裁判」にこだわった理由

ここで疑問に思う人もいるかもしれません。「負けたんだから、そのまま罰すればいいのでは?」と。

ゆうき
ゆうき

そもそも、なんで裁判をわざわざ開いたの?戦争に負けたんだから、自動的に責任を取ればよかったんじゃないの?

もぐたろう
もぐたろう

いい質問だね!連合国は「ただ罰する」んじゃなくて、法律にもとづいた公正な裁判で裁くことにこだわったんだ。裁判なしに処罰すると、ただの報復や復讐にしか見えないからね。

連合国が裁判形式にこだわったのは、「戦争を起こすことは犯罪であり、その個人責任を追及する」という新しい国際秩序のルールを世界に示すためでした。

特にアメリカは、「法の支配」にもとづく裁判を通じて、日本の戦争指導者の個人的な責任を明らかにしようとしました。「国家」ではなく「個人」を裁くという点が、東京裁判の大きな特徴です。

こうして1946年1月、連合国軍最高司令官のマッカーサーまっかーさーが「極東国際軍事裁判所」の設置を命じ、GHQのもとで裁判の準備が進められました。

もぐたろう
もぐたろう

ただし、この裁判の仕組みは連合国側が一方的に作ったもの。日本側が裁判のルール作りに参加できなかったことが、後に「勝者の裁き」批判につながっていくんだ。

A級・B級・C級戦犯とは?(テスト頻出)

A・B・C級戦犯の分類図 — 3種類の罪はそれぞれ独立
A級戦範被告人たちがバスで護送される様子(1946年5月3日・開廷日)
A級戦範被告人の護送バス(1946年5月3日・開廷日)|出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

東京裁判を理解するうえで、絶対に押さえておきたいのが「A級・B級・C級戦犯」の違いです。

この分類は、テストでも頻出のひっかけポイント。「A級が一番重くて、B級、C級と軽くなる」と思っている人が多いですが、それは間違いです。

ゆうき
ゆうき

え、A級が一番重い罪じゃないの? A・B・Cって成績みたいにランクがあるんじゃ…?

もぐたろう
もぐたろう

違うんだ!A・B・Cは罪の「重さ」じゃなくて「種類」の違いなんだよ。英語で言うと「Class A」「Class B」「Class C」で、分類番号にすぎないんだ。テストでよく間違える人がいるから、ここは絶対に覚えておいてね!

では、3つの分類をそれぞれ見ていきましょう。

A級(Class A):平和に対する罪
侵略戦争を計画・準備・開始・遂行した罪。戦争そのものを起こした責任者が対象。

B級(Class B):通常の戦争犯罪
捕虜の虐待、民間人への不法な暴力、略奪など。戦争のルール(国際法)に違反した行為が対象。

C級(Class C):人道に対する罪
一般市民に対する殺害・奴隷化・追放、民族的迫害など。ナチスのホロコーストが典型例。

東京裁判で起訴された28名は、主にA級(平和に対する罪)で裁かれました。つまり「戦争を計画し、始めた責任」を問われたということです。

B級・C級の戦犯については、東京裁判とは別に、横浜やマニラなど各地で行われた軍事裁判で裁かれました。東京裁判で扱われたのはA級のみです。ただし、一部の被告にはB級・C級の罪状も併せて適用されました。

なお、この「A級・B級・C級」という分類は、東京裁判やニュルンベルク裁判のために連合国が作った極東国際軍事裁判所条例きょくとうこくさいぐんじさいばんしょじょうれい(チャーター)で定められたものです。

もぐたろう
もぐたろう

ポイントをまとめると、A級=「戦争を起こした罪」、B級=「戦争中のルール違反」、C級=「民間人への迫害」。重さじゃなくて種類の違いだよ!ここはテストの定番ひっかけだから要注意!

裁判の経過と主な被告人

1946年5月3日、東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校で東京裁判は開廷しました。ここでは裁判の経過と、主な被告人について見ていきましょう。

■起訴された28名の被告人

連合国側の検察団は、日本の戦争指導者28名をA級戦犯として起訴しました。被告人には、元首相・陸軍大臣の東条英機とうじょうひできをはじめ、元首相・外務大臣の広田弘毅ひろたこうき、軍人・政治家・外交官・思想家など、さまざまな立場の人物が含まれていました。

ただし、28名全員が最後まで裁判を受けたわけではありません。裁判中に2名が病死(松岡洋右・永野修身)、1名が精神疾患(大川周明)で免訴となり、最終的に25名に対して判決が下されました。

■裁判の進行

裁判は約2年半にわたって行われました。検察側の冒頭陳述ぼうとうちんじゅつに始まり、証拠の提出、証人の尋問、被告側の弁論と、通常の裁判と同じ手続きで進められました。

裁判長はオーストラリアのウィリアム・ウェッブうぃりあむ・うぇっぶが務め、首席検察官にはアメリカのジョセフ・キーナンじょせふ・きーなんが就任しました。

開廷回数は延べ818回(実際の開廷日数は417日)。証人は419名、提出された証拠書類は4,336点にのぼる膨大な裁判でした。

■東条英機の法廷での発言

東条英機の肖像写真
東条英機(元内閣総理大臣・陸軍大臣)

被告人のなかでもっとも注目されたのは、やはり東条英機です。東条は太平洋戦争開戦時の首相であり、裁判では検察側から「戦争を主導した最大の責任者」として追及されました。

東条英機は法廷で、みずからの戦争責任について毅然と答えました。

東条英機
東条英機

開戦の決断は、私をはじめとする政府・軍が行いました。天皇陛下は私どもの奏上を裁可されたに過ぎません。陛下に戦争の責任はありません。

東条はこのように、天皇を守るために「開戦の責任はすべて政府・軍にある」と主張しました。これは天皇の戦争責任を否定し、責任を自分たちが引き受けるという態度でした。

ただし、東条の証言の中には「天皇の意志に反して行動することはありえない」という発言もあり、これが一時「天皇にも戦争責任があるのでは」と解釈されそうになる場面もありました。東条はその後、発言を修正しています。

もぐたろう
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ちなみに、連合国側(特にマッカーサー)は天皇を裁判にかけない方針を早い段階で固めていたんだ。占領政策をスムーズに進めるには、天皇の権威を利用したほうが得策だと判断したからだよ。

他にも、唯一の文官(軍人ではない人物)として絞首刑になった広田弘毅(元首相・外務大臣)や、南京事件なんきんじけんの責任を問われた松井石根(元陸軍大将)など、被告人それぞれに異なる罪状が適用されました。

判決の内容

東京裁判の経過と判決結果(1946〜1948年)
東京裁判の法廷で証言台に立つ東条英機(1947年)
東京裁判の法廷風景(1947年)|出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

1948年(昭和23年)11月4日から12日にかけて、東京裁判の判決が読み上げられました。判決文の朗読だけで7日間を要するという、異例の長さでした。

最終的に判決が下された25名の処遇は、以下の通りです。

絞首刑:7名
東条英機・広田弘毅・松井石根・板垣征四郎いたがきせいしろう木村兵太郎きむらへいたろう土肥原賢二どいはらけんじ武藤章むとうあきら

終身禁固:16名(のちに減刑・釈放された者も含む)

有期禁固:2名重光葵しげみつまもる=禁固7年、東郷茂徳とうごうしげのり=禁固20年)

絞首刑の7名は、1948年12月23日に巣鴨拘置所すがもこうちしょで刑が執行されました。

■判決を受けなかった被告人

起訴された28名のうち、判決前に3名が裁判から外れています。

  • 松岡洋右まつおかようすけ(元外務大臣):裁判中に病死(1946年6月)
  • 永野修身ながのおさみ(元海軍軍令部総長):裁判中に病死(1947年1月)
  • 大川周明おおかわしゅうめい(思想家):法廷で東条英機の頭を叩くなどの異常行動を見せ、精神疾患と診断されて免訴

もぐたろう
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終身禁固になった16名の多くは、その後1950年代に入って減刑・仮釈放されているよ。なかには、のちに政界に復帰した人物もいるんだ。たとえば岸信介はA級戦犯容疑者として逮捕されたけど、起訴されずに釈放されて、のちに内閣総理大臣にまでなっているよ。

こうして東京裁判は判決をもって終結しました。その後、1951年のサンフランシスコ平和条約で日本は東京裁判の判決を受け入れることを約束しています。しかし、この裁判の正当性や公平性をめぐっては、当時から今日に至るまで激しい議論が続いています。次のセクションでは、その問題点と批判について詳しく見ていきます。

東京裁判の問題点・批判

東京裁判の判決は確定しましたが、裁判の正当性や公平性をめぐっては当時から激しい批判がありました。ここでは、主な問題点を整理していきます。

■「勝者の裁き」という批判

東京裁判に対するもっとも有名な批判が、「勝者の裁き」という指摘です。

この裁判は、戦争に勝った連合国側が裁判官・検察官を務め、敗戦国の日本だけが被告人となりました。つまり、裁く側と裁かれる側が最初から決まっている構造だったのです。

あゆみ
あゆみ

原爆を落とした側は裁かれなかったんですか?広島や長崎の民間人が大勢亡くなっているのに…。

もぐたろう
もぐたろう

鋭い疑問だね。実は、東京裁判では連合国側の行為は一切審理の対象にならなかったんだ。原爆投下だけじゃなく、東京大空襲のような無差別爆撃も問われなかった。裁判の枠組み自体が「日本の戦争指導者を裁く」という目的で作られていたから、連合国側の戦争犯罪は最初から除外されていたんだよ。

これが「勝者の裁き」と批判される最大の理由です。戦争犯罪を裁くなら、勝者・敗者を問わずに審理すべきではないか——そういった声は、裁判当時から国際法の専門家の間でも上がっていました。

■事後法の問題(罪刑法定主義との矛盾)

もう一つの大きな問題が、事後法の問題です。

近代法の大原則に「罪刑法定主義ざいけいほうていしゅぎ」があります。これは「法律で禁止されていない行為は罰せられない」「行為のから作った法律で裁いてはいけない」という原則です。

罪刑法定主義とは、「どんな行為が犯罪になるか」と「どんな刑罰が科されるか」は、あらかじめ法律で決めておかなければならないという原則のこと。日本国憲法にも定められている近代法の基本中の基本です。

ところが、東京裁判で裁かれたA級戦犯の罪状「平和に対する罪」は、第二次世界大戦が終わったに作られた概念でした。つまり、日本の戦争指導者たちが戦争を始めた時点では、「戦争を計画・開始すること」を犯罪とする国際法は存在しなかったのです。

これは罪刑法定主義に反する「事後法による裁き」ではないかという批判が、当時から法学者の間で強く主張されていました。

■パール判事の全員無罪意見

パール判事(ラダビノド・パル)の肖像写真
パール判事(ラダビノド・パル)|出典:Wikimedia Commons(CC0)

こうした問題点をもっとも鮮烈に指摘したのが、インド代表の判事ラダビノド・パルらだびのど・ぱる(通称:パール判事)でした。

パール判事は、11人の判事のなかで唯一、被告人全員の無罪を主張する意見書(反対意見)を提出しました。その意見書は1,200ページ以上にも及ぶ膨大なものでした。

パール判事
パール判事

戦勝国が一方的に作った法律で、敗戦国を裁くことはできない。この裁判は法の支配ではなく、勝者の報復にすぎない。

パール判事の主張のポイントは、主に以下の2点でした。

主張①:「平和に対する罪」は事後法である
戦争を始めた時点で「戦争の計画・遂行」は国際法上の犯罪ではなかった。後から作った法律で裁くのは法の原則に反する。

主張②:連合国側の行為も検証すべき
原爆投下や無差別爆撃など、連合国にも国際法違反が疑われる行為がある。裁判の公平性に重大な疑問がある。

パール判事の意見書は、当時は判決文に付属する「少数意見」として扱われ、大きく取り上げられることはありませんでした。しかし、のちに日本で翻訳・出版されると大きな反響を呼び、「東京裁判の正当性に疑問を投げかけた勇気ある判事」として知られるようになりました。

もぐたろう
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ちなみに、パール判事は「日本は無罪だ」と言いたかったわけじゃないんだ。「この裁判の法的な枠組みに問題がある」ということを指摘したんだよ。法律の専門家として「法の正義」を貫いた判事として評価されているんだね。

なお、パール判事以外にも、オランダのレーリンク判事やフランスのベルナール判事が判決に対する個別意見や反対意見を提出しており、裁判所内部でも見解が一致していなかったことがわかります。

東京裁判史観とは?戦後日本への影響

東京裁判をめぐる議論は、戦後の日本社会にも大きな影響を与えました。なかでもよく耳にするのが「東京裁判史観」という言葉です。

■「東京裁判史観」とは何か

東京裁判史観とうきょうさいばんしかん」とは、東京裁判の判決に基づいて、「日本が侵略戦争を行い、その戦争指導者が正当に裁かれた」という歴史の見方のことを指します。

この言葉は主に、東京裁判の歴史認識に批判的な立場から使われることが多く、「連合国側が押し付けた一面的な歴史観」という意味を込めて用いられます。

一方で、東京裁判の枠組みを基本的に受け入れる立場からは、「日本がアジア太平洋地域に対して侵略戦争を行ったのは歴史的事実であり、それを否定する方が問題だ」という反論があります。

もぐたろう
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東京裁判史観については、「裁判の手続きに問題があった」という話と「日本の戦争責任そのもの」は分けて考える必要があるんだ。裁判に問題があったからといって、日本の戦争行為がすべて正しかったということにはならないし、逆に戦争責任があるからといって裁判の手続き上の問題がなかったことにもならない。両方の論点を冷静に分けて理解することが大切だよ。

■靖国神社とA級戦犯合祀問題

東京裁判との関連で現代でもたびたび議論になるのが、靖国神社やすくにじんじゃへのA級戦犯合祀の問題です。

靖国神社は、戦争で亡くなった軍人・軍属を祀る神社です。1978年に東京裁判で絞首刑になった東条英機らA級戦犯14名が「昭和殉難者しょうわじゅんなんしゃ」として合祀されました。

これに対して、中国や韓国をはじめとするアジア諸国は、「侵略戦争の責任者を祀る神社に、日本の政治指導者が参拝することは戦争を反省していない表れだ」として強く反発しています。

一方、参拝を支持する立場からは、「国のために亡くなった人々を追悼するのは当然であり、A級戦犯という分類は連合国が一方的に決めたものだ」という主張もあります。

■歴史教科書と東京裁判

日本の歴史教科書における東京裁判の記述も、しばしば議論の対象になります。

多くの教科書では、東京裁判について事実関係を中立的に記述していますが、裁判の正当性に関する評価については記述の濃淡があり、教科書検定のたびに議論が起こることもあります。

東京裁判をどのように位置づけるかは、戦後日本の歴史認識そのものに直結するテーマであり、政治・外交の場面でも繰り返し議論されています。

2024年現在、日本政府の公式見解は「サンフランシスコ平和条約で東京裁判の判決を受諾した」というものです。これは「裁判の内容すべてに賛同した」という意味ではなく、「判決の効力を認めた」という法的な意味だとされています。

テストに出るポイント

テストに出やすいポイント
  • 正式名称は「極東国際軍事裁判きょくとうこくさいぐんじさいばん」(東京裁判は通称)
  • A級・B級・C級の違い:罪の重さではなく「種類」が違う(A=平和に対する罪、B=通常の戦争犯罪、C=人道に対する罪)
  • 開廷期間:1946年5月〜1948年11月(約2年半)。場所は東京・市ヶ谷
  • 参加国は11カ国。裁判長はオーストラリアのウェッブ
  • 絞首刑7名:東条英機・広田弘毅・松井石根・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章
  • パール判事(インド)が唯一、被告人全員の無罪を主張した
  • 日本はサンフランシスコ平和条約(1951年)で東京裁判の判決を受諾した
  • 同種の裁判として、ドイツのニュルンベルク裁判があった

共通テストでは、東京裁判の正式名称を問う問題や、A級戦犯の意味(罪の重さではなく種類)を問うひっかけ問題が頻出です。また、ニュルンベルク裁判との比較も出題されることがあります。「どちらも第二次世界大戦後に戦勝国が敗戦国の指導者を裁いた裁判」という共通点を押さえておきましょう。

もぐたろう
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テスト対策としては、「A級=重い罪」と誤解しないことが最大のポイントだよ。A・B・Cは罪の種類の分類であって、ランクじゃないんだ。ここを正確に答えられると、周りと差がつくよ!

よくある質問

A・B・Cは罪の重さではなく「種類」の分類です。A級は「平和に対する罪」(戦争の計画・開始・遂行)、B級は「通常の戦争犯罪」(捕虜虐待・略奪など)、C級は「人道に対する罪」(民族迫害・虐殺など)を指します。東京裁判ではA級の罪状で28名が起訴されました。

ラダビノド・パル(通称パール判事)は、東京裁判にインド代表として参加した判事です。11人の判事のなかで唯一、被告人全員の無罪を主張する意見書を提出しました。「事後法で裁くのは法の原則に反する」「連合国側の行為も検証すべきだ」と主張し、裁判の法的正当性に根本から疑問を呈したことで知られています。

連合国軍最高司令官マッカーサーが、占領政策をスムーズに進めるために天皇の権威を利用する方針を採ったためです。天皇を裁判にかければ日本国民の強い反発を招き、占領統治が困難になると判断されました。天皇の戦争責任をめぐっては歴史学の議論がありますが、政治的判断によって訴追が見送られたとされています。

東条英機は太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣であり、同時に陸軍大臣も兼任していました。東京裁判ではA級戦犯の筆頭格として起訴され、「戦争を主導した最大の責任者」として追及されました。法廷では「天皇の意志に反して戦争を遂行したことはない」と主張しましたが、最終的に絞首刑の判決を受け、1948年12月23日に刑が執行されました。

1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は東京裁判の判決を受諾しました。これにより、判決の法的効力は国際的に確定しています。ただし、「受諾」の意味をめぐっては「裁判全体を正当と認めた」のか「判決の効力を受け入れただけ」なのか、解釈の違いが今もあります。

どちらも第二次世界大戦後に戦勝国が敗戦国の指導者を裁いた国際軍事裁判です。ニュルンベルク裁判はドイツのナチス指導者を対象とし、東京裁判は日本の戦争指導者を対象としました。主な違いは、ニュルンベルクではホロコーストなどC級(人道に対する罪)が中心だったのに対し、東京裁判ではA級(平和に対する罪)が中心だった点です。また、東京裁判にはパール判事のような全面的な反対意見がありましたが、ニュルンベルクにはそうした意見はありませんでした。

まとめ

東京裁判の年表
  • 1945年8月
    ポツダム宣言受諾・日本の降伏
    日本が連合国のポツダム宣言を受諾し、無条件降伏。戦争犯罪人の処罰が連合国の方針として示される。
  • 1945年9月
    A級戦犯容疑者の逮捕開始
    GHQの指令により、東条英機ら戦争指導者の逮捕が始まる。東条は自殺未遂の後に逮捕。
  • 1946年1月
    極東国際軍事裁判所条例の公布
    マッカーサーが裁判所の設置を命じ、A級・B級・C級の3つの罪状を定めた条例が発布される。
  • 1946年4月
    28名のA級戦犯を起訴
    元首相・軍人・外交官・思想家など28名が起訴される。
  • 1946年5月
    東京裁判開廷
    東京・市ヶ谷の旧陸軍士官学校で開廷。11カ国の判事が参加。裁判長はオーストラリアのウェッブ。
  • 1946〜1948年
    約2年半にわたる審理
    開廷回数818回(開廷日数417日)、証人419名、証拠書類4,336点。途中で松岡洋右・永野修身が病死、大川周明が精神疾患で免訴。
  • 1948年11月
    判決の言い渡し
    25名に判決。絞首刑7名・終身禁固16名・有期禁固2名。パール判事は全員無罪の反対意見を提出。
  • 1948年12月
    絞首刑の執行
    12月23日、巣鴨拘置所で東条英機ら7名の刑が執行される。
  • 1950年代
    終身禁固者の減刑・仮釈放
    冷戦の進行に伴い、終身禁固者の多くが減刑・仮釈放される。一部は政界に復帰。
  • 1951年
    サンフランシスコ平和条約で判決を受諾
    日本はサンフランシスコ平和条約第11条で東京裁判の判決を受諾。翌1952年に条約発効、日本は主権を回復。

東京裁判の理解を深めるおすすめ本

もぐたろう
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東京裁判

日暮吉延 著|講談社現代新書

もぐたろう
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以上、東京裁判(極東国際軍事裁判)についてのまとめでした。A級・B級・C級の違い、パール判事の全員無罪意見、「勝者の裁き」批判まで、しっかり理解できたかな?下の記事でGHQの占領政策や太平洋戦争についても詳しく解説しているから、あわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「極東国際軍事裁判」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「ラダ・ビノード・パール」(2026年4月確認)
コトバンク「極東国際軍事裁判」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)pp.338–340(戦後の民主化・占領期)
日暮吉延『東京裁判』講談社学術文庫、2008年

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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