

今回は1945年の原爆投下(広島・長崎)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜアメリカは原爆を落としたのか、なぜ広島と長崎が選ばれたのか、歴史の舞台裏まで掘り下げていくね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
「原爆は広島と長崎に落とされた」——誰もがそう知っています。しかし実は、第2の原爆の第一目標は長崎ではありませんでした。小倉(現在の北九州市)だったのです。
あの日、小倉の上空に雲がかかっていなければ——歴史はまったく違う形で動いていたかもしれません。
また、原爆投下は「アメリカの一方的な報復・残虐行為」として語られることもありますが、実は早期終戦・ソ連牽制・マンハッタン計画の実証という3つの思惑が複雑に絡み合った決断でした。この記事では、その歴史の舞台裏を徹底解説します。
原爆投下とは?——3行でわかる基本知識
- 1945年8月、アメリカが広島(8/6)と長崎(8/9)に原子爆弾を投下した
- 広島では約14万人、長崎では約7万4,000人が年内に死亡したと推定されている
- 日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に終戦(玉音放送)、9月2日に降伏文書に調印した
原爆投下とは、1945年(昭和20年)8月、太平洋戦争の末期にアメリカ軍が日本の広島と長崎に原子爆弾を投下した出来事のことです。
これは人類史上初めて核兵器が実戦で使用された事例であり、広島と長崎の2都市に壊滅的な被害をもたらしました。

原爆っていうのは、原子核の分裂反応を利用した、とてつもない破壊力を持つ爆弾のこと。通常の爆弾とはまったくケタ違いの威力で、1発で都市ひとつを壊滅させてしまうんだ。
広島に投下された原爆はウラン型(通称「リトルボーイ」)、長崎に投下された原爆はプルトニウム型(通称「ファットマン」)と呼ばれ、それぞれ原料も構造も異なるものでした。
■ ウラン型とプルトニウム型の違い
原爆には大きく分けて2種類があります。
| 比較項目 | リトルボーイ(広島) | ファットマン(長崎) |
|---|---|---|
| 原料 | ウラン235 | プルトニウム239 |
| 方式 | ガンバレル方式(砲身型) | 爆縮方式(内部爆発型) |
| 威力(TNT換算) | 約15〜16キロトン(諸説あり) | 約21キロトン |
| 重量 | 約4トン | 約4.5トン |

ウラン型とプルトニウム型って、なにが違うの?

ざっくり言うと、ウラン型は構造がシンプルだけど原料が希少。プルトニウム型は構造が複雑だけど大量生産しやすい、という違いがあるんだ。
マンハッタン計画——原爆はいかにして作られたか
原爆を生み出したのが、アメリカが極秘で進めたマンハッタン計画(Manhattan Project)です。

出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/Berlyn Brixner・ロスアラモス国立研究所(1945年)
1939年、物理学者アインシュタインがアメリカのルーズベルト大統領に書簡を送り、「ナチス・ドイツが核兵器を開発する可能性がある」と警告しました。これがきっかけとなり、真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に参戦した翌年の1942年、大規模な原爆開発計画がスタートします。
この計画にはアメリカ・イギリス・カナダの3カ国が参加し、最盛期には約13万人もの科学者・技術者・作業員が動員されました。総費用は当時の金額で約20億ドル(現在の価値で約300億ドル以上)という、国家の命運を賭けた巨大プロジェクトだったのです。

マンハッタン計画は、当時のアメリカの国家予算に匹敵するほどの超巨額プロジェクトだったんだ。しかも国民にも議会にもほとんど知らされていなかったんだよ。まさに「最高機密」だね。
■ なぜ「マンハッタン計画」という名前なの?
この計画の名前は、最初の事務所がニューヨークのマンハッタン区に置かれたことに由来します。
計画の中心となったのが、ニューメキシコ州のロスアラモス研究所です。ここで物理学者ロバート・オッペンハイマーを中心とする科学者チームが原爆の設計・製造に取り組みました。
そして1945年7月16日、ニューメキシコ州の砂漠で世界初の核実験「トリニティ実験」が成功します。この時点で、原爆は「理論」から「現実の兵器」になりました。

トリニティ実験が成功したのが7月で、広島への投下が8月……たった3週間で実戦投入されたってこと?

そうなんだ。実験成功からわずか3週間で広島に投下されたんだよ。当時のアメリカは「ドイツが降伏した今、一刻も早く日本との戦争を終わらせたい」という強い意志を持っていたんだね。
マンハッタン計画(Manhattan Project)とは、1942年〜1946年にかけてアメリカが極秘で進めた原子爆弾の開発計画のことです。当初はナチス・ドイツの核兵器開発に対抗する目的で始まりましたが、1945年5月にドイツが降伏した後も計画は継続され、日本への投下に使われました。総費用は約20億ドル、動員人数は約13万人に達しました。
なぜ広島が選ばれたのか?——投下目標の決定
原爆の投下目標はどのようにして決まったのでしょうか。

出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)/U.S. Navy(1945年8月)
1945年春、アメリカ軍は「目標委員会」(Target Committee)を設置し、原爆の投下先を検討しました。候補に挙がったのは、広島・小倉・新潟・長崎などの都市です。
委員会が重視した選定条件は、主に次の3つでした。
■ 広島が最初の目標になった3つの理由
理由①:重要な軍事拠点だった
広島には第二総軍司令部が置かれており、日本の西日本の防衛を統括する軍事上の要衝でした。軍港である呉にも近く、軍需工場も集中していたのです。
理由②:大規模な空襲を受けていなかった
広島は、1945年時点で日本の主要都市のなかでは大規模な空襲をほとんど受けていない都市でした。アメリカは原爆の破壊力を正確に測定するために、「空襲で壊れていない都市」を選んだのです。
理由③:地形が爆発効果の測定に適していた
広島は太田川の三角州(デルタ地帯)に広がる平坦な都市で、爆風が均一に広がりやすいという特徴がありました。原爆の威力を「実験データ」として記録するのに適した地形だったのです。

空襲を受けていなかったから選ばれたって……つまり、わざと温存されていたということ?

実はその通りなんだ。アメリカ軍は原爆投下候補の都市に対して通常の空襲を控えるよう指示を出していたと言われているよ。「破壊力を正確に測定するため」という理由でね……。
なお、当初の候補には京都も含まれていました。しかし、陸軍長官スティムソンが「日本人にとって文化的・精神的に重要な都市を破壊すれば、戦後の占領統治に支障をきたす」と強く反対し、候補から外されたとされています。
1945年8月6日——広島への原爆投下

1945年8月6日午前2時45分、テニアン島の飛行場からB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が離陸しました。機長はポール・ティベッツ大佐。機体の名前は、ティベッツ大佐の母親の名前から取られたものです。
そして午前8時15分——エノラ・ゲイはウラン型原爆「リトルボーイ」を広島市の上空約9,600メートルから投下しました。
原爆は島病院の上空約600メートルでさく裂。爆心地の温度は数百万度に達し、地表でも3,000〜4,000度の熱線が発生したと推定されています。

爆心地から半径1.2キロメートル以内はほぼ全壊。2キロメートル以内でも建物の大半が破壊されたんだ。たった1発の爆弾で、街がまるごと消えてしまったんだよ……。
■ 広島の被害状況
広島への原爆投下による被害は、想像を絶するものでした。
爆発の瞬間、爆心地付近にいた人々は強烈な熱線と爆風によって一瞬で命を落としました。爆心地から半径500メートル以内での即死率はほぼ100%だったと言われています。
さらに、爆発後には大量の放射性物質を含む「黒い雨」が広範囲に降り注ぎ、直接被爆しなかった人々にも深刻な放射線障害をもたらしました。
広島市の推計によると、1945年末までに約14万人が死亡したとされています(±1万人の推定誤差あり)。当時の広島市の人口が約35万人だったことを考えると、市民の約4割が命を落としたことになります。

14万人……。たった1発の爆弾で、そんなに多くの人が亡くなったの?

そうなんだ。しかも14万人というのは年末までの推計で、その後も放射線による後遺症で亡くなった方が大勢いるんだよ。原爆の恐ろしさは、爆発の瞬間だけでなく、長期間にわたって人々を苦しめ続けたことにあるんだ。
この投下を命じたトルーマン大統領は、のちに回想録でその決断についてこう述べています。

この爆弾は戦争を早期に終わらせるためのものだ。本土決戦になれば、日米双方にさらに多くの犠牲者が出ていただろう——それが私の判断だった。
※上記はトルーマン大統領の発言・回想録の趣旨を要約して再現したものです。
小倉から長崎へ——第2の原爆投下の舞台裏
広島への原爆投下から3日後、アメリカはさらにもう1発の原爆を投下する計画を実行に移します。
しかし、ここに「歴史の偶然」が介在します。第2の原爆の第一目標は、長崎ではなく小倉(現在の北九州市)だったのです。

なんと!小倉が第一目標だったんだよ!じゃあ、なぜ長崎に変わったんだろう……?
1945年8月9日午前3時47分、テニアン島からB-29爆撃機「ボックスカー」が出発しました。搭載していたのはプルトニウム型原爆「ファットマン」です。
ボックスカーは小倉上空に到達しましたが、前日の八幡空襲の煙と雲に覆われて目標を目視で確認できませんでした。当時の投下規則では、目標を目視で確認してから投下することが求められていたのです。
ボックスカーは小倉上空を3回旋回して投下のチャンスをうかがいましたが、視界はまったく改善しません。さらに日本軍の対空砲火も始まり、燃料も残りわずかとなりました。
やむなく、ボックスカーは第二目標の長崎へと向かったのです。
■「もし小倉に落ちていたら」——歴史の偶然性
もし8月9日の小倉上空が晴れていたら——長崎は原爆の被害を受けなかったかもしれません。逆に、小倉(当時の人口約11万人)が壊滅していた可能性があります。
歴史は、時にこうした偶然によって大きく動くことがあります。あの日の「雲」は、二つの都市の運命を分ける決定的な要因となったのです。

雲がかかっていたから長崎になったの?天気で歴史が変わるなんて信じられない……。

そうなんだよ。前日に八幡製鉄所を空襲した煙と、当日の雲が重なったことが原因と言われているよ。歴史は必然だけで動くわけじゃなくて、こういう偶然が大きく運命を左右することもあるんだね。
1945年8月9日——長崎への原爆投下

小倉での投下を断念したボックスカーは、燃料が残りわずかの状態で長崎へ向かいました。
長崎上空もまた雲に覆われていましたが、雲の切れ間から市街地が見えた瞬間——午前11時2分、プルトニウム型原爆「ファットマン」が投下されました。
爆心地は松山町の上空約500メートル。長崎市北部の浦上地区を中心に、凄まじい破壊が広がりました。
ファットマンの威力はリトルボーイよりも大きく、TNT換算で約21キロトンでした。しかし、長崎の地形が被害の広がり方に大きな影響を与えました。

長崎は山に囲まれた谷間のような地形だったから、爆風が山で遮られて、広島ほど広範囲に広がらなかったんだ。もし平坦な地形だったら、被害はさらに大きくなっていた可能性があるよ。
■ 長崎の被害状況
長崎への原爆投下による被害も甚大なものでした。
爆心地に近い浦上地区は壊滅状態となり、浦上天主堂をはじめとする建造物がことごとく破壊されました。浦上天主堂は「東洋一の聖堂」を目指して建てられた(1925年完成)、東洋を代表するカトリック教会でした。
また、爆心地近くには三菱兵器製作所や三菱製鋼所などの軍需工場が集中しており、多くの労働者が犠牲になりました。この中には、長崎で強制労働させられていた朝鮮人労働者や、捕虜として収容されていた連合国の兵士も含まれていました。
長崎市の推計によると、1945年末までに約7万4,000人が死亡したとされています。ファットマンの威力はリトルボーイを上回っていましたが、山に囲まれた地形が爆風の一部を遮ったこと、そして爆心地が市の中心部からやや北にずれたことが、広島よりも死者数が少なかった要因とされています。

広島から3日後にもう1発落とされたんでしょう?その間に日本は降伏できなかったの?

実は、広島の被害の全容が日本政府に伝わるまでにも時間がかかったし、軍部には「本土決戦あるのみ」と主張する徹底抗戦派もいたんだ。3日間では、降伏の意思決定ができなかったんだよ。この話は次の項目で詳しく解説するね。
長崎への原爆投下、そして同日8月8日のソ連の対日参戦——この二重の衝撃が、ついに日本政府をポツダム宣言受諾へと動かし、やがてGHQによる占領統治の時代が始まることになります。
なぜアメリカは原爆を投下したのか?——3つの説
ここまで、広島・長崎への原爆投下の経緯と被害を見てきました。では、そもそもなぜアメリカは原爆を投下したのでしょうか?

この問いに対する答えは、じつは1つではありません。歴史学の世界では、大きく分けて3つの説が議論されています。

原爆投下の理由は「戦争を終わらせるため」とだけ思っている人が多いけど、実はもっと複雑な背景があるんだよ。3つの説をそれぞれ見ていこう!
説①:早期終戦論——上陸作戦による多大な犠牲を避けるため
最も広く知られている説が、この「早期終戦論」です。
1945年当時、アメリカは日本本土への上陸作戦(ダウンフォール作戦)を計画していました。しかし、硫黄島や沖縄戦での激戦を経験したアメリカ軍は、本土決戦がいかに凄惨なものになるかを痛感していたのです。
アメリカ軍の推計では、日本本土上陸作戦を実行した場合、米軍だけで50万〜100万人の死傷者が出ると見積もられていました。日本側の犠牲者はさらに多くなると考えられていたのです。
この説に立てば、原爆投下は「上陸作戦よりも犠牲を少なくするための決断」ということになります。
説②:ソ連牽制論——戦後の国際秩序でソ連をけん制するため
2つ目は、原爆投下の目的がソ連への政治的メッセージだったとする説です。
1945年2月のヤルタ会談で、ソ連はドイツ降伏後2〜3か月以内に対日参戦することを約束していました。つまり、ソ連が日本に攻め込む前に戦争を終わらせれば、ソ連が戦後の日本に影響力を持つことを防げると考えたのです。
実際、トルーマン大統領は1945年7月のポツダム会談の最中にトリニティ実験の成功報告を受け、態度が一変したとも言われています。原爆という「切り札」を得たことで、ソ連の力を借りずに戦争を終わらせられる自信を持ったのかもしれません。

つまり、原爆投下は日本に対してだけでなく、ソ連に対しても「アメリカの力を見せつける」意味があったってこと?

そうなんだよ。当時はすでに米ソの対立(後の冷戦)の兆しが見えていたんだ。原爆投下には「ソ連よ、アメリカにはこれだけの兵器がある」というメッセージが込められていた——そう考える歴史家もいるよ。
説③:マンハッタン計画の実証論——莫大な開発費を正当化するため
3つ目は、マンハッタン計画に投じた約20億ドル(現在の価値で約3兆円以上)という莫大な費用を正当化する必要があったとする説です。
これだけの予算を議会に知られずに使っていた以上、「実戦で使って成果を示す」ことが政治的に求められていた——という見方です。
また、科学者の中にも「実戦で使用しなければ、核兵器の恐ろしさが世界に伝わらない。逆に使用してその威力を示すことで、今後の核戦争を防げる」と考えた人物がいたとされています。

大事なのは、この3つの説はどれか1つだけが正しいわけじゃないということ。複数の要因が複雑に絡み合っていた——それが歴史学の見方だよ。
ソ連参戦と終戦への連鎖
広島への原爆投下から2日後の1945年8月8日、もう1つの重大な出来事が起こります。

ソ連が日本に対して宣戦布告し、満州(中国東北部)への侵攻を開始したのです。
じつは日本とソ連の間には日ソ中立条約がありました。日本はこの条約を頼りに、ソ連を仲介とした講和(和平交渉)の可能性を模索していたのです。
しかし、ソ連はヤルタ会談での密約に基づき、ドイツ降伏後の参戦を着々と準備していました。日本がソ連に和平の仲介を期待していたことは、まさに「幻の望み」だったのです。

日本はソ連に和平の仲介をお願いしていたの?それなのにソ連が攻めてきたってこと?

そうなんだよ。日本にとってソ連参戦は原爆と同じくらい——いや、それ以上の衝撃だったとも言われているんだ。「最後の頼みの綱」が断たれたわけだからね。
■ 原爆とソ連参戦——どちらが決め手だったのか?
原爆投下とソ連参戦——この二重の衝撃を受けて、日本政府はついにポツダム宣言の受諾を決断します。
8月9日深夜から10日未明にかけて開かれた御前会議では、軍部を中心とする徹底抗戦派と、外務大臣らを中心とする早期終戦派が激しく対立しました。
意見が分かれる中、最終的に昭和天皇の「聖断」——天皇自らが終戦の意思を示す——という異例の形で、ポツダム宣言受諾が決まりました。
そして8月14日、日本政府は正式にポツダム宣言の受諾を連合国に通告。翌8月15日、昭和天皇の声が録音された玉音放送がラジオで流れ、国民に終戦が告げられました。
9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号で降伏文書が調印され、第二次世界大戦は正式に終結しました。

終戦の決め手が原爆だったのかソ連参戦だったのか——これは歴史家の間でも意見が分かれるところなんだ。ただ、両方が重なったことで「もう戦争を続けられない」と判断されたのは間違いないよ。
原爆投下をめぐる今日の議論
原爆投下から80年以上が経った今も、この出来事をめぐる議論は続いています。ここでは、日米の歴史認識の違いと、核廃絶に向けた動きを見ていきましょう。
■ アメリカの歴史認識と日本の視点
アメリカ国内では長年、原爆投下は「戦争を早く終わらせ、多くの命を救った正しい判断だった」という認識が主流でした。特に退役軍人の間では、この見解は根強いものがあります。
一方、日本では原爆投下は「人類史上許されない非人道的行為だった」という認識が一般的です。
ただし、近年はアメリカ国内でも若い世代を中心に「原爆投下は正しかったのか?」と疑問を持つ人が増えてきています。2016年にはオバマ大統領が現職の米大統領として初めて広島を訪問し、被爆者と言葉を交わしました。謝罪こそしなかったものの、核兵器なき世界を訴えたスピーチは大きな反響を呼びました。

アメリカと日本では原爆に対する見方がこんなに違うのね……。どちらの立場も知ったうえで考えることが大事なのかしら。

その通りだね。歴史を学ぶときに大切なのは、一方の立場だけで「善悪」を決めつけないこと。さまざまな視点を知ったうえで、自分の頭で考えることが重要なんだよ。
■ 核廃絶に向けた世界の動き
広島・長崎の被爆体験は、核廃絶を求める世界的な運動の原点となっています。
1968年に核拡散防止条約(NPT)の署名が開始され(1970年発効)、核兵器の保有国をこれ以上増やさない枠組みが築かれました。
また、2017年には核兵器禁止条約が国連で採択され、2021年に発効しました。この条約の採択には、長年にわたって証言を続けてきた被爆者の方々の活動が大きく貢献しています。
しかし、核保有国(アメリカ・ロシア・中国・イギリス・フランスなど)はいずれもこの条約に参加していないのが現状です。核廃絶への道のりは、今なお長く険しいものとなっています。

広島・長崎が世界で唯一の被爆地であるということは、日本が核廃絶を訴えるうえで非常に大きな意味を持っているよ。被爆者の方々の高齢化が進むなかで、その記憶をどう次の世代に伝えていくかが今の課題なんだ。
原爆投下についてもっと深く知りたい人へ
テストに出るポイント(中学・高校日本史)
ここからは、中学歴史・高校日本史のテストで問われやすいポイントをまとめていきます。
高校日本史で差がつくポイント
・ソ連の対日参戦(8月8日)と長崎投下(8月9日)が同時期であることを時系列で整理しておく
・「ポツダム宣言の黙殺」→「原爆投下」→「ソ連参戦」→「受諾」の流れは共通テストの頻出パターン

8月6日が広島、8月9日が長崎、8月15日が玉音放送……。日付がたくさんあって混乱しそう。

覚え方のコツは「8月の最初の10日間に全てが起きた」と捉えることだよ。6日・広島→8日・ソ連参戦→9日・長崎。この3つはセットで覚えよう!15日の玉音放送と9月2日の降伏文書調印も合わせて押さえればバッチリだよ!
よくある質問(FAQ)
最初の原爆(8月6日)については、広島は優先度の高い目標のひとつとして選ばれていました。一方、2発目の原爆(8月9日)の第一目標は小倉(現在の北九州市)でした。しかし、当日の小倉上空が雲と煙に覆われていたため、第二目標の長崎に変更されたのです。
マンハッタン計画とは、アメリカ・イギリス・カナダが共同で進めた原子爆弾の開発計画(1942〜1945年)です。ロスアラモス研究所を中心に、物理学者オッペンハイマーらが開発を主導しました。開発費は約20億ドル(当時)にのぼり、1945年7月のトリニティ実験で初の核実験に成功しました。
主な理由は3つあります。①軍部が「本土決戦」を主張していたこと、②天皇制の存続(国体護持)が保証されていなかったこと、③ソ連を仲介にした講和の可能性を模索していたことです。政府内の意見が分裂しており、降伏の意思決定に時間がかかりました。
広島に投下された「リトルボーイ」はウラン型(ガンバレル方式)で、TNT換算約15〜16キロトン(諸説あり)。長崎に投下された「ファットマン」はプルトニウム型(爆縮方式)で、TNT換算約21キロトンでした。威力はファットマンの方が大きかったものの、長崎は山に囲まれた地形のため被害範囲は広島より限定的でした。
アメリカの公式な立場として「謝罪」はしていません。ただし、世論は変化しており、若い世代を中心に「正しかったとは言い切れない」と考える人が増えています。2016年にはオバマ大統領が現職の米大統領として初めて広島を訪問し、核兵器のない世界を訴えました。
歴史学では「両方が重なったことが決め手」という見方が有力です。原爆の衝撃はもちろん大きなものでしたが、日本がソ連に和平仲介を期待していた中での参戦は「最後の望みが断たれた」ことを意味しました。この二重のショックにより、御前会議での終戦決断に至ったと考えられています。
広島平和記念資料館や長崎原爆資料館の公式サイトで、被爆者の証言映像やテキストが公開されています。また、NHK戦争証言アーカイブスでも多くの証言を視聴できます。被爆者の方々の高齢化が進んでおり、証言の記録と継承が急務とされています。
まとめ
-
1939年第二次世界大戦勃発。アインシュタインがルーズベルト大統領に原爆開発を進言する書簡を送る
-
1942年マンハッタン計画始動(アメリカ・イギリス・カナダ共同)
-
1945年2月ヤルタ会談——ソ連の対日参戦が密約される
-
1945年7月16日トリニティ実験成功(世界初の核実験)
-
1945年7月26日ポツダム宣言発表(日本は「黙殺」)
-
1945年8月6日広島に原爆投下(エノラ・ゲイ、ウラン型「リトルボーイ」)
-
1945年8月8日ソ連が日本に宣戦布告、満州侵攻開始
-
1945年8月9日長崎に原爆投下(ボックスカー、プルトニウム型「ファットマン」)※第一目標は小倉
-
1945年8月14日日本、ポツダム宣言受諾を正式決定
-
1945年8月15日玉音放送(終戦の詔)
-
1945年9月2日ミズーリ号艦上で降伏文書調印——第二次世界大戦終結

以上、原爆投下(広島・長崎)のまとめでした。原爆投下から終戦への流れ、そしてその後のGHQ占領期についても、下の記事であわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年4月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「広島市への原子爆弾投下」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「長崎市への原子爆弾投下」(2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「マンハッタン計画」(2026年4月確認)
コトバンク「マンハッタン計画」「ポツダム宣言」「核拡散防止条約」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
広島市公式サイト「死者数について」(2026年4月確認)
長崎市公式サイト「原爆被爆者対策事業概要」(2026年4月確認)
NHK戦争証言アーカイブス https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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