今回は、1837年に起きたモリソン号事件について、わかりやすく丁寧に解説していくね
モリソン号事件とは?
モリソン号事件とは、1837年に江戸幕府が日本に接近してきたアメリカ船モリソン号を威嚇して追い払った事件です。
追い払われた追い払われたモリソン号には、漂流しているところを救われた日本人も乗っていたため、日本人を見捨てた江戸幕府の鎖国政策に批難が殺到。
モリソン号事件は、鎖国政策が時代遅れの政策であることを江戸幕府に突きつける事件となりました。
モリソン号事件が起きた時代背景
1837年当時、日本はまだ鎖国政策を行っていました。
日本が入港を許していたのはオランダ・中国・朝鮮・琉球王国・アイヌだけ。
アメリカ船のモリソン号は、日本が許可していない船であり、日本から見れば不法入港している船だったのです。
1800年ころになると、そんな日本にイギリスやロシアの船がどんどんやってくるようになります。
不法入港してくる外国船が後を絶たない・・・。規制を強化しなければ!!
1825年、幕府は異国船打払令を出します。
異国船打払令の内容は、『不法入港した外国船は、有無を言わさず問答無用で打ち払う!』というもの。
モリソン号事件は、そんな感じで幕府の鎖国政策が強化されたころに起きた事件でした・・・。
モリソン号、来航
1837年、アメリカ船モリソン号が浦賀(今の神奈川県横須賀市)に現れました。
モリソン号が日本にやってきた理由は大きく2つ。
航海中に救助した日本人漂流民を日本へ送り届けるため。
日本と交渉して通商や(キリスト教の)布教を認めてもらうため。
・・・しかし江戸幕府は、モリソン号の事情など知らず、異国船打払令に従って問答無用でモリソン号に砲撃を浴びせてしまいます。
不法入港する外国船との話し合いなど不要!
日本に近づく外国船は全て打ち払うのみ!!
モリソン号は浦賀から引き返すと、場所を変えて鹿児島(薩摩藩)へ入港しようとしますが、またもや攻撃を受け、モリソン号は諦めて日本を去っていきました。
こちらは日本と争う気はないし、なんなら漂流民を助けてあげようと思っていたのに・・・。話し合いすらできないなんて、日本はなんと野蛮な国なんだ!
モリソン号事件のその後
モリソン号の来航は、日本に損害がなくモリソン号もすぐに引き返したため、当時は特に大きな話題にはなりませんでした。
・・・が、一年後の1838年、オランダ人を通じて江戸幕府はモリソン号が日本に来航してきた理由を知ることになります。
えっ、モリソン号には日本人が乗っていたの!?
でも、異国船打払令を出しちゃってるし、そんな簡単に入港を認めるなんてできないよ・・・。
モリソン号の真相を知った江戸幕府では、「異国船打払令を見直すべきではないか?」との議論が沸き起こります。
・・・しかし、議論の結果、異国船打払令が見直されることはありませんでした。
※ただし、異国船打払令の例外として「漂流民を救出してくれた外国船は、入港は認めないけど、途中でオランダ船に乗せ替えてオランダ船が入港するのはオッケーにするよ!」ってことだけは認められました。
もし異国船打払令がなければ、モリソン号は日本に入港できていて、漂流された日本人たちも無事に帰国することができたかもしれません。
しかし、江戸幕府はそんな可能性よりも、外国に日本が侵略されたり、外国の思想・文化が入り込んで治安や政治が乱れることを何よりも恐れていました。
だから、鎖国をすぐに止めるという選択肢はあり得なかったんだ。
蛮社の獄へ・・・
モリソン号事件の真実は、幕府の内部だけではなく世間にも知られるようになり、世間では幕府に対する批判の声が高まります。
江戸幕府が異国船打払令なんて出さなければ、漂流した人たちだって無事に日本に帰れたのに・・・!
こんな野蛮なことを続けていたら外国を挑発してしまい、かえって日本が危険になる。
頻繁にやってくる外国船を全て打ち払うなんてあまりに非現実的だ。
鎖国政策を緩めて、外国との交流を受け入れるべきだ。
この時、幕府を特に痛烈に批判した人物が2人います。
それが、高野長英と渡辺崋山という人物でした。
この二人は、口で政府を批判するだけにとどまらず、江戸幕府を批判する本を書いて、ガチな幕府批判を行いました。
高野長英は『戊戌夢物語』って本を書いて
渡辺崋山は『慎機論』という本を書きました。
特に高野長英の「戊戌夢物語」は、世間に流通し、江戸幕府はこれを問題視するようになります。
幕府を批判する本が広まっている。
危険分子は早急に排除しなければならぬ。
当時、江戸幕府は外からの脅威だけではなく、内政面でも大きな不安を抱えていました。
というのも、日本では1833年頃から大飢饉(天保の大飢饉)が起こり、深刻な食糧不足に陥っていたからです。
食糧不足によって、日本では各地で暴動が起こるようになり、モリソン号がやってきた1837年には大塩の乱・生田万の乱など大規模な反乱が起きていました。
そんな状況なのに、モリソン号事件をきっかけにさらなる反乱の火種が増えることは、江戸幕府にとって絶対にあってはならないことだったのです。
モリソン号事件が起きた2年後の1839年、江戸幕府は異国船打払令に批判を唱える人々の弾圧を開始。(蛮社の獄)
蛮社の獄によって、幕府を批判する本を書いた高野長英・渡辺崋山も処罰されることになりました。
何が言いたいかというと、モリソン号事件が世間に知れ渡ると、言論弾圧をしなければ鎖国政策を維持できないほど、鎖国に対する江戸幕府への批判が大きくなっていったってことだよ!
鎖国政策の限界
江戸幕府は、モリソン号事件を言論弾圧(蛮社の獄)で無理やり終わらせました。
・・・が、もちろんこれでは根本的な解決にはなりません。
いくら弾圧を行ったところで、外国線が続々とやってくる状況は変わらないからです。長年続けていた江戸幕府の鎖国政策は、列強国が東アジアに進出したことで限界を迎えていました。
1840年、イギリスが清とアヘン戦争を開始。
1842年にイギリスが勝利すると、ヨーロッパ諸国の強さを恐れた日本は、異国船打払令を廃止。新たに天保の薪水給与令を出して、状況次第では外国船に水や燃料(薪)を与えることを決定。
1846年にはビッドル、1853年にはペリーが来航してきて日本に対して開国を要求。
日本はアメリカの圧力に屈して、1854年に日米和親条約を結び、日本の鎖国政策は終焉を迎えることになります。
モリソン号事件はそんな鎖国政策の過渡期に起きた事件であり、鎖国政策の限界を江戸幕府に突きつけた事件となったのです。
確認問題
正解: B. 日本人漂流者を日本に送り返すため
正解: A→D→C→B
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