今回は、太平洋戦争の最終局面で起きた日本VSソ連の戦い(ソ連対日参戦)について、わかりやすく丁寧に説明していくね。
ソ連対日参戦とは
ソ連対日参戦とは、太平洋戦争の終戦直前の1945年8月9日、ソ連が日本へ侵攻したことで起きた日本VSソ連の戦いのことを言います。
ソ連対日参戦によって、日本は南樺太や千島列島といった領土をソ連に奪われ、戦後も日本に返還されることなく、現代に至ります。
ソ連に奪われた領土のうち、特に北海道に近い択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島の4島(通称:北方領土)は、日本政府は今もなおロシアに返還を求め続けており、現代まで続く領土問題に発展しています。(北方領土問題)
太平洋戦争当時の日本とソ連の関係
まず最初に、当時の日本とソ連の関係をおさらいしておきましょう!
ロシア(ソ連)と日本が本格的に外交関係を持ったのは江戸時代。
日本とロシアが北海道・樺太に住むアイヌを圧迫した結果、北海道・樺太付近で、日本とロシアの国境が接するようになり、国境をめぐって紛争が起こらぬよう両国は外交関係を持つようになったのです。
江戸時代以降、領土をめぐる外交はたびたび行われ、最終的には、日露戦争(1904年)後に結ばれたポーツマス条約で、樺太の南半分が日本の領土になることが決まり、両国の国境ラインが定まりました。
1931年、日本とソ連の外交に大きな影響を与えた事件が起こります。
・・・それが、満州事変です。
日本は、満州事変の混乱に乗じて、中国北部を中国から分離させて、日本の言いなりになる独立国家(満州国)を建国しました。
満州国の建国によって、日本のソ連の勢力ラインが広く接するようになると、日本とソ連はお互いに警戒を強め、両国の関係は次第に悪化していきました。
1939年にはノモンハン事件が起こり、日本とソ連の武力衝突にまで発展していきました。
日ソ中立条約
そんな険悪な関係が続いていた1939年9月、ドイツのポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が起こります。
ドイツは、ポーランド侵攻の際にソ連と争いにならないよう、事前に独ソ不可侵条約を結んで、お互いに紛争を起こさないよう約束しました。
・・・が、ドイツは裏で、約束を破ってソ連への侵攻計画を企てます。
この情報を知ったソ連は焦ります。
もしドイツが攻め込んできたら、ドイツと日独伊三国同盟を結んでいる日本もソ連に攻め込んでくるかもしれない。
片方を相手にするならまだしも、東西から挟み撃ちにされるのは絶対にマズイ。なんとかしなければ・・・。
一方の日本も、ソ連との戦争を避けたい事情がありました。
日本は今は日中戦争で手一杯だし、東南アジアにも進出するつもりだが、背後にソ連がいては迂闊に動けぬ・・・
1941年4月、両者の思惑が一致して、日ソ中立条約が結ばれます。
カイロ会談・ヤルタ会談
ソ連はドイツから攻め込まれると、同じくドイツと敵対していたイギリス・アメリカと急接近。
1943年には、ドイツへの対応を議論するため、ソ連・アメリカ・イギリスのトップたちが集まったテヘラン会談が開かれます。
テヘラン会談では、非公式にアメリカがソ連とこんな話し合いをしていました。
俺さ、今、日本と太平洋戦争で戦ってるんだけど、日本が思ってる以上に強いんだよね・・・。
もしよければ、ソ連も日本と戦ってくれない?
アメリカに協力して勝利すれば、日本から樺太・千島列島を奪い返せるんじゃね?
日本とは日ソ中立条約を結んでるけど、ここはアメリカに味方したほうが得策だな・・・。
わかった。私も日本と戦おう。
さらに1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連は再び会談(ヤルタ会談)が開かれると、ソ連は日本に攻め込むことを正式に発表。
ソ連は協力の見返りとして、勝利の後、南樺太と千島列島をソ連のものとすることをアメリカ・イギリスに要求し、米英はこれを認めました。
さらに、ソ連の参戦時期は「ドイツが降伏した2〜3ヶ月後」ということで決まりました。
ドイツは1945年5月に降伏したので、ソ連の参戦時期は7月〜8月に決まりました。
ソ連に賭けた日本
アメリカとの協力を選んだソ連は、次第に日本と距離を置くようになります。
1945年4月、ソ連は「日本はソ連の盟友であるイギリス・アメリカの敵だ!だから日ソ中立条約は更新しない!」と明言。
一方の日本は、逆に「ソ連を頼ってアメリカと和平を結べないか?」と考えていました。
ソ連はアメリカとも深い関係を持っているから、日ソ中立条約の期限である1946年4月までなら、ソ連に頼んでアメリカと和平の場を設けてもらうことができるかもしれない・・・!
日本は1945年3月の硫黄島の戦いに敗北し、4月からは沖縄でアメリカと本土決戦(沖縄戦)に臨んでいる真っ最中でしたが、日本に勝ち目はありませんでした。
沖縄戦に敗北すれば、日本が危機に瀕することは必定であるため、日本政府はアメリカとの和平の道を探ることにしたのです。
日本政府は、ソ連に「日本との和平交渉に応じてくれるようアメリカに伝えて!」とお願いしますが、日本に侵攻するつもりだったソ連はこれを拒否し、明確な回答を避け続けます。
さらに1945年7月26日、アメリカら連合軍は、日本に対して降伏を求める最終勧告(ポツダム宣言)を出しますが、日本はこれを無視。
日本には戦争を終わらせたい気持ちもありましたが、ポツダム宣言に書いてある降伏条件を受け入れることができず、ポツダム宣言を無視する決断を下したのです。
こうして戦争は継続することとなり、ソ連の対日参戦が決定的なものとなりました。
ソ連、日本へ侵攻開始
日本がポツダム宣言を無視すると、アメリカは日本への原爆投下を決定。
8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下されます。
そして、長崎に原爆が落ちたのと同じ1945年8月9日、ついにソ連が日本への侵攻を開始します。
・・・ソ連め!!アメリカと繋がっていることは知っていたが、まさか日ソ中立条約を破るとは!!
原爆投下にソ連の参戦・・・、もはや日本に勝ち目はなく、ポツダム宣言を受け入れるしかあるまい。
8月14日、日本はポツダム宣言の受諾し、降伏することを決定。
15日には、昭和天皇の肉声によるラジオ放送(玉音放送)が流され、全軍に対して停戦命令が出されました。
こうして各地で戦いが中止されました・・・が、ソ連だけは日本がポツダム宣言を受諾しても侵攻をやめませんでした。
ソ連対日参戦の経過
ソ連は、北方の全方面(満州・朝鮮・樺太・千島)から日本めがけて侵攻しました。
日本は、太平洋戦争で南方に戦力を集中させていたため、ソ連の侵攻に太刀打ちすることができず、苦戦を強いられます。
各方面の簡単な概要だけ紹介しておきますね。
満州
満州の日本の守備軍は、ソ連軍の圧倒的な火力の前に蹂躙され、8月19日ころに戦闘は終了しました。
朝鮮
北朝鮮方面は小規模な先頭に終わり、ソ連の大規模な侵攻はありませんでした。
樺太
8月11日、ソ連は樺太への侵攻を開始。
日本がポツダム宣言を受諾した8月15日の翌日16日、ソ連軍の主力が樺太へ上陸。
樺太で本格的な戦闘が始まりました。
玉音放送により樺太へも停戦命令が届いていましたが、北方守備の総司令官だった樋口季一郎は、ソ連の北海道侵攻を恐れ、命令を無視して抗戦することを決断。
樺太の守備軍は必死の抵抗を試みますが、圧倒的な物量・兵力差の前に太刀打ちすることができず、侵攻を遅らせるのが精一杯でした。
8月25日までに南樺太の大半がソ連の占領下に置かれ、戦闘は終了しました。
千島列島
8月18日、ソ連軍が千島列島の最東端にある占守島に上陸。
ソ連の北海道侵攻を防ぐため、千島列島でもソ連軍への決死の抗戦が行われました。占守島の守備隊は少ない兵力ながら善戦し、ソ連軍を苦しめます。
・・・しかし、日本の現地部隊がソ連と停戦することを決定し、23日、ソ連と日本の現地部隊の間で停戦協定が成立しました。
日本の抵抗がなくなると、ソ連は千島列島を南下して島々を次々と占領。
9月2日に日本が降伏文書に正式にサインをしてもなお、ソ連は侵攻を止めず、歯舞群島を占領した後、ソ連はようやく侵攻を止めました。
樺太・千島の守備隊は、ソ連に大敗して多くの犠牲者を出しました。
しかし、その犠牲者と樋口季一郎の決断がなければ、今ごろ北海道の一部がソ連の領土になっていたかもしれません。
ソ連対日参戦が日本に与えた影響
北方領土問題
戦後、日本はGHQによる統治下に置かれ、樺太・千島の統治は引き続きソ連が担当することになりました。
GHQによる統治は、沖縄を除いて1951年に結ばれたサンフランシスコ平和条約によって終了し、日本は主権を回復します・・・が、1箇所だけ主権が日本に戻ってこない地域がありました。
・・・その地域が、今でいう北方領土です。
サンフランシスコ平和条約では「日本は千島列島を放棄する」と決まりましたが、日本は北海道に近い択捉・国後・色丹の3島と歯舞群島は対象外だと考えていました。
択捉・国後・色丹・歯舞は昔からの日本の領土であり、ロシア(ソ連)と領有権をめぐって争ったこともない。
日本に主権が戻れば、とうぜん北方領土の主権も日本に戻るはずだ。
いやいや、千島列島は、北海道〜カムチャッカ半島にある島すべてのことだよ?
日本は千島列島を放棄したんだから、北方領土の統治権はそのままソ連のものさ!
こうした日本とソ連に意見が食い違いから北方領土は今もなお日本に返還されず、ロシアと日本の間の根深い領土問題となっています。
シベリア抑留と民間人犠牲者
ソ連と日本の戦いは、1ヶ月にも満たない短い期間でしたが、
ソ連の攻撃が日本にとっては想定外だったこと
民間人が住むエリアが戦場になったこと
から、多くの犠牲者を出す戦いとなりました。
ソ連との戦いで捕虜となった日本兵の多くがシベリアの監獄へ送られ、飢餓や過酷な労働環境・気候により多くの者が命を落としました。
民間人にも多くの犠牲者がでました。
樺太・千島は日本領土だったこともあり、空襲や市街地戦で多くの民間人が犠牲となり、生き残った人々も、その多くは終戦後も引き続きソ連の支配の下で樺太・千島で暮らしました。
さらに満州には100万人以上の日本人が住んでおり、多くの民間人が戦火に巻き込まれ、犠牲となりました。
※ソ連軍の攻撃だけでなく、混乱に乗じて暴徒と化した中国人による襲撃も日本人犠牲者の数を増やしました。
戦後、満州から日本への帰国手続が始まりましたが、現地に残らざるを得ない者も多く、過酷な環境の中、帰国する前に命を失った民間人も後を絶ちませんでした。
満州での民間人犠牲者の数は、約24万と言われていて、広島・長崎の原爆や沖縄戦の犠牲者よりも多いと言われています。
民間人犠牲者の話になると、原爆や沖縄戦の話になることが多いですが、ソ連との戦いが、それらに劣らぬほど凄惨な戦いだったことを忘れてはいけません・・・。
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