今回は、太平洋戦争での戦いの1つ「沖縄戦」について、わかりやすく丁寧に解説していきます!
沖縄戦とは
沖縄戦とは、太平洋戦争も終盤の1945年3月、沖縄をめぐって連合国軍(※)と日本軍が争った戦いです。
※主戦力はアメリカ軍なので、この記事では連合国軍ではなくアメリカ軍と表記します。
硫黄島の戦い(1945年2月)に続く日本本土での戦いのため大激戦となり、日本軍・アメリカ軍、そして沖縄に住む島民たちに甚大な被害をもたらした戦いとなりました。
大激戦の末、勝者になったのはアメリカ軍。勝利したアメリカ軍は、沖縄を日本から奪い取り占領下に置きました。
沖縄戦までの太平洋戦争の流れ
まずは、太平洋戦争の流れをザックリと確認しておきます。
- 1941年12月太平洋戦争、始まる【真珠湾攻撃・マレー沖海戦】
- 1942年前半日本、連戦連勝!
日本は、太平洋に広大な支配領域(大東亜共栄圏)を手に入れる。
- 1942年6月ミッドウェー海戦で日本大敗
- 1943年2月ガダルカナル島の戦いで日本大敗
- 1943年9月戦況悪化により防衛ラインを縮小し絶対国防圏を定める。
- 1944年7月サイパン島の戦いで日本大敗
日本本土が連合軍による空爆の射程圏内になる。
- 1944年10月レイテ沖(フィリピン沖)海戦で日本大敗
日本は、戦争継続に必要な海軍戦力を喪失する。
- 1945年3月硫黄島の戦いで日本大敗
日本は太平洋戦争で初めて日本本土への連合国軍上陸を許してしまう。
- 1945年4月~沖縄戦 ←この記事はココ
硫黄島に続く日本本土での戦い。
日本は、1944年にサイパン島の戦い・レイテ沖海戦の2つの戦いで大敗すると、日本本土周辺の制海権・制空権を完全に失うことになりました。
もはや連合軍が本本土に攻め込んでくるのも時間の問題。
こうなれば、本土決戦で最後の戦いに持ち込むしかあるまい・・・!!
こうして日本は、1944年後半から連合軍の日本本土上陸を想定するようになり、沖縄の防衛強化が図られます。
沖縄戦が起こるまで
沖縄方面の総司令官に抜擢されたのは、陸軍中将の牛島満という人物でした。
沖縄では、当初想定されていた援軍が送られず、現存する兵力のみで防衛戦を強いられることになります。
1945年1月、大本営は本土決戦向けた戦略を策定します。
その中で、本州から離れている小笠原諸島や沖縄諸島は、本土決戦に向けた時間稼ぎの場とされ、最悪放棄もやむなし・・・と見なされていました。
沖縄に本格的な援軍が送られなかった背景には、単に日本の余力がなかった・・・という理由もありますが、そんな裏事情もありました。
なぜ大本営は沖縄に援軍を送ってこないのだ!!
この戦力では、連合軍の上陸を阻止することなど到底不可能。
こうなれば敵をあえて奥地に誘い込んで、地の利を活かした持久戦に持ち込み、アメリカ軍の心を折るしかない。
牛島中将やその参謀らたちは、手持ちの戦力で徹底的な持久戦に持ち込む作戦を採用。
敵の空爆・砲撃に耐えられる堅牢な要塞を沖縄の各地に築き上げ、連合軍の侵攻に備えて準備を始めました。
持久戦に向けた準備の中心人物になったのが、参謀だった八原博通という人物でした。
八原は、過去のアメリカへの留学経験からアメリカ人の思考・戦略を熟知しており、戦況を冷静に見極める頭脳も持ち合わせていました。
八原の戦略に沿って、後にアメリカ軍を苦しめる強固な地下要塞の建設が進んでいきます。
沖縄の地盤は硬い珊瑚礁でできているところが多かったから、地面を掘るだけで堅牢な要塞を築くことができました。
八原は、沖縄の立地・地形から主戦場になるのは沖縄島の南部と予想し、司令本部を首里城の地下に設けました。
沖縄戦、始まる
アメリカは1945年3月に硫黄島を陥落させると、さっそく沖縄への攻撃を開始します。
1945年3月末、アメリカ軍は沖縄の西にある慶良間諸島を攻略。
1945年4月1日、いよいよ沖縄に上陸し、沖縄戦が始まりました。
アメリカ軍は、日本からの抵抗をほとんど受けることなく沖縄中部に上陸し、島の南北へと2方面作戦を展開します。
もはや上陸されるのは仕方ない。
アメリカ軍を我々のテリトリー(沖縄南部)に誘い込んでからが、戦いの本番である。
北部でも激しい戦闘が繰り広げられたものの、主戦場はやはり八原の予想どおり沖縄南部となり、いよいよ本格的な陸上戦が始まります。
嘉数の戦い
アメリカ軍は、日本の司令本部がある首里城を目指して南進。
4月7日には、日本軍の防衛ラインに接触し、沖縄の命運を賭けた大決戦が始まりました。
特に大激戦地となったのは、今の宜野湾市に位置する嘉数高台という場所でした。
沖縄の南部は平地が多かったため、高台になっている場所のほぼすべてに日本の要塞が築かれ、そこで大激戦が繰り広げられたのです。
日本は高台の上に陣地を築くのではなく、アメリカ軍がやってくるのとは反対側の斜面に陣地を築きました。
※反対斜面に築いた陣地のことを反斜面陣地と言います。
こうすることで、高台が盾代わりとなって敵の砲撃を防いでくれるので味方の消耗を抑えることができ、持久戦に持ち込みやすくなる・・・という作戦です。
しかし、逆に高台が邪魔となり、上手く敵を攻撃することができないデメリットもありました。
そこで活躍したのが、八原が各地に築かせた地下要塞でした。
日本軍は、高台の地下に築かれた地下通路を利用し、地下から敵を観察して砲撃したり、時には積極的に奇襲攻撃を仕掛けたり、反斜面陣地のデメリットを克服しました。
八原が築いた反射面陣地は、アメリカ軍に大打撃を与えます。
アメリカ軍は進軍こそできたものの、多くの兵が犠牲となり、嘉数高台の周辺で足止めを食うことになりました。
日本軍は、圧倒的な兵力・火力を持つアメリカ軍に対して激しく抵抗しました・・・が、最後にものを言うのはやはり兵力と火力でした。
4月23日、嘉数高台を中心とする防衛ラインは突破され、日本・アメリカは両軍ともに甚大な被害を受けました。
シュガーローフの戦い
嘉数高台での敗北は、今後の作戦指針に大きな影響を与えました。
というのも、司令本部で『このままジリ貧になるから、兵力が残っているうちに総攻撃を仕掛けるべきでは?』という議論が浮上したのです。
日本本土を守るため、ここで一分一秒でもアメリカ軍を足止めするのが我々の責務。
総攻撃など仕掛けてもアメリカの圧倒的な力の前には無力である。無駄に犠牲者を増やし、アメリカの沖縄占領を早めるだけだ!!
・・・いや、総攻撃をするぞ。総攻撃をするならチャンスは今しかない。
八原よ、兵の士気が下がるようなことを言うではない!!
こうして5月上旬、アメリカ軍への総攻撃が開始されました。
これまでの作戦を全てパーにする総攻撃に、八原は次のように痛烈な批判を残しています。
「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」
・・・、八原の予想どおり、総攻撃は失敗に終わります。
日本は甚大な被害を受けることになり、今後も徹底した持久戦を継続することが決まりました。
5月12日、アメリカ軍が、司令本部のある首里城近くまで接近。
再び日本軍VSアメリカ軍の大激戦が始まり、特に首里城の西にあった高台(安里52高地)で激しい戦闘が行われました。
※安里52高地のことをアメリカは、シュガーローフ(アメリカの菓子パンのこと)と呼びました。
シュガーローフ(安里52高地)の戦いでも日本は善戦します。圧倒的な兵力のアメリカに対して、粘りに粘りますが、5月18日、シュガーローフはアメリカの手に落ちました。
終わったことを嘆いても仕方がないが、総攻撃などしなければ、こんな容易に首里城は落とされなかったはずだ・・・。
シュガーローフを陥落させると、アメリカ軍はいよいよ敵の本丸である首里城への攻撃を本格化させます。
一方の日本軍では、今後の方針について重大な決断に迫られます。
首里城で最終決戦に臨むか、
それともさらに南に撤退して、持久戦を継続するか
の決断を迫られることになったのです。
もともとの案では、首里城が最終決戦場となる予定でした。
・・・が、参謀の八原は、少しでもアメリカ軍を沖縄に足止めするため、南に退却して持久戦を継続することを提案し、八原の案がそのまま採用されました。
当時、首里城より南の地域には多くの民間人が避難していたため、
「軍が南に撤退する」=「南側が戦場になる」=「民間人が巻き込まれる」ということになり、この作戦変更によって、甚大な民間人犠牲者を生むことになりました。
沖縄戦、日本敗北する
5月30日、日本軍は、摩文仁に司令本部を移すことに成功。
摩文仁は沖縄の南端に位置しており、これ以上の退却はできません。摩文仁の陣地は、まさに背水の陣で、こうして牛島たちはアメリカとの最終戦に臨むことになります。
しかし、予想されていたとおり、軍の撤退は多くの民間人を戦火に巻き込みました。
日本は6月中旬まではなんとか持ち堪えていましたが、6月18日、いよいよ戦闘継続が不可能となり、各部隊へ最終突撃の命令が下されました。
この命令文書の中には、
生きて虜囚の辱めを受けることなく、悠久の大義に生くべし
と書かれており、この命令は民間人たちにも大きな影響を与えました。
本来なら兵士への命令だったんだけど、沖縄の南端に追い詰められて兵士と民間人がごちゃまぜの状況下で、民間人だけが投降を許される雰囲気にはならず、多くの民間人が自害・特攻により命を落としました。
6月22日、アメリカ軍の摩文仁への攻撃が始まると、同日、牛島は地下壕の中で自害。
こうして日本の組織的な抵抗は終わり、沖縄戦は終わりました。
※孤立していた部隊による局地戦は続き、完全に戦いが終わったのは終戦後でした。
もう1つの沖縄戦【菊水作戦】
陸上で激しい攻防戦が行われていた一方で、海上でも日本の決死の抵抗が試みられました。
レイテ沖海戦で戦力を失っていた日本海軍は、神風特別攻撃隊による戦艦への自爆突撃を主戦力とした凄惨な作戦を決行します。(菊水作戦)
航空機による自爆突撃は、アメリカの戦艦に甚大なダメージを与えたものの、戦局を変えるまでには至らず、6月20日頃、抵抗を終えました。
沖縄に残された住民たち
沖縄戦は、サイパン島の戦いと同様、多くの民間人を巻き込んだ戦いでもありました。
沖縄南部での激戦が想定されていたため、老人・子供は島の北部へと疎開。
現役世代の男性や、看護学生などは南部に残って戦いの後方支援や補助に回されました。
こうした民間人の疎開・避難に尽力したのが沖縄県知事だった島田叡、沖縄県警トップの新井退造でした。
島田・新井の2人は、互いに協力しながら人々の疎開・避難を支援し、結果として多くの命を救うこととなりました。
沖縄戦の話は戦いの話ばかりになることが多いけど、裏では住民を守るため一生懸命に尽力した人たちが多くいたということも忘れてはいけません。
なお、沖縄住民の救命に多大な貢献をした島田・新井は、沖縄戦の決戦地となった摩文仁で消息不明となり帰らぬ人となりました。
沖縄戦が太平洋戦争に与えた影響
熾烈を極めた沖縄戦は、太平洋戦争の戦局にも大きな影響を与えました。
というのも、沖縄戦の過酷さを目の当たりにし、日本もアメリカも日本本土での決戦をためらうようになったのです。
日本の事情
沖縄戦が始まるまで、日本では軍部が中心となって本土決戦が叫ばれていましたが、沖縄戦の敗北により和平に向けた動きが一気に強まりました。
日本政府はソ連を仲介にした連合国軍との和平交渉に向けて動き出します・・・が、ソ連が応じなかったため失敗に終わります。
和平交渉が暗礁に乗り上げると、8月6日は広島、9日には長崎に原爆が投下され、さらに同日(9日)にソ連が日本へ侵攻。
交渉の余地すら失った日本は、8月14日、連合国軍に対して無条件降伏を受け入れ、太平洋戦争は終戦しました。
アメリカの事情
一方のアメリカも、沖縄戦による大ダメージで日本本土への上陸を断念します。
アメリカはこれ以上の被害を抑えるため、ヤルタ会談で決められていたソ連の対日参戦や、原爆による攻撃を通じて、日本の心を折る作戦に切り替えていくことになります。
ソ連が日本の和平交渉に応じなかったのは、すでにアメリカと日本へ侵攻する約束をしていたからだよ。
沖縄はアメリカの占領下へ・・・
沖縄戦の後、沖縄はアメリカの占領下に置かれます。
戦後、日本はGHQの占領下に置かれ、1951年のサンフランシスコ平和条約で主権を回復しましたが、沖縄だけはその後もアメリカの占領が続き、沖縄は苦難の歴史を歩むことになります。
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