今回は、1925年に制定された治安維持法について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
治安維持法とは
治安維持法とは、天皇制や資本主義を否定する思想を持つ者を取り締まるために制定された法律です。
ここで言う『天皇制や資本主義を否定する思想』っていうのは、共産主義思想のことを意味しています。
つまり治安維持法っていうのは、共産主義思想を持つ者を取り締まるための法律ってことです。
なぜ治安維持法が制定されたのか
1925年以前から、共産主義者への取り締まりって行われていたと思うんだけど、なぜこのタイミングで治安維持法なんて法律が制定されることになったの?
その謎を解く鍵は、1925年に起きた2つの出来事、
・普通選挙法の制定
・日ソ基本条約の締結
にあるよ!
普通選挙法の制定
1925年、選挙権の所得制限(納税額3円以上!)を撤廃する普通選挙法が制定されました。
所得制限が撤廃されたことで、25歳以上の男なら誰でも選挙に投票することができるようになり、有権者の数は全国民の5%から20%へ、一気に4倍も増えました。
普通選挙法の制定は、1910年代ころから始まった大正デモクラシー運動の中で、多くの国民が望んでいたことでした。
日本政府は、こうした国民の声を受けて普通選挙法を制定しましたが、1つ大きな不安を抱えていました。
共産主義思想は貧しい労働者階級(プロレタリアート)に広まっている思想だ。
それなのに、選挙権の所得制限を撤廃しちゃったら、選挙で共産主義者が議員に選ばれて政治が共産主義思想に侵されてしまうのでは・・・?
こうした政府の懸念が、治安維持法が制定の大きな原動力の1つになりました。
日ソ基本条約の締結
同じような懸念は、外交面でも見られました。
1925年、日本はソ連との国交を持つために日ソ基本条約を結んだのです。
政府は共産主義思想を危険視していたのに、なぜ社会主義国家のソ連と国交を結んだのかしら?
リスクがとても高い気がするんだけど・・・。
確かに、ソ連との国交樹立にはリスクがありました。
それでも日本がソ連と国交を結んだのは、ソ連との貿易を通じて日本経済を回復させたいと考えたからです。
1925年当時、日本経済は戦後恐慌→震災恐慌の恐慌ラッシュで景気が落ち込んでいたのです。
共産主義思想が日本に入り込むリスクを承知で結ばれた日ソ基本条約でしたが、政府は「リスクが高くなるのなら、その分取り締まりを強化すればいいんじゃね?」と考えました。
そう考えたときに、案として浮上してきたのが共産主義思想を封じ込める治安維持法だったのです。
治安維持法の内容
冒頭で、治安維持法とは、『天皇制や資本主義を否定する思想を持つ者を取り締まるために制定された法律』と紹介しましたが、もう少し詳しく法律の内容を見ていきます。
治安維持法では、天皇制・資本主義を否定することを難しい表現で『国体を変革し又は私有財産制度を否認すること』と書いています。
『国体の変革』とは、国の仕組みを変えてしまうこと、つまり天皇制を否定してしまうことを意味しています。
当時の憲法(大日本帝国憲法)には、『日本は万世一系の天皇が統治する』と書かれていて、日本が天皇を君主とする天皇制(君主制)であることが明記されていました。
※ちなみに、君主の権力が憲法で定められる仕組みのことを立憲君主制って言います。
『私有財産制度の否認』は、資本主義を否定することを意味しています。
資本主義は、私有財産(資本)を活かして経済を動かすことで、人々の生活を豊かにする仕組みのことです。
なので私有財産の否定は、そのまま資本主義の否定につながるわけです。
「国体の変革」と「私有財産制度の否認」は難しい表現だけど、治安維持法の話をするときによく出てくるワードなので、意味をしっかりと確認しておきましょう!
ここまでの話で、治安維持法がどんな思想を取り締まり対象にしているのかは理解できたけど、具合的にどんな行為が治安維持法の処罰の対象になったの?
治安維持法の処罰の対象になった行為は、
1.天皇制や資本主義を否定することを目的とした結社の結成とその参加(未遂でもNG)
2.天皇制や資本主義を否定することを目的とする協議を行うこと
3.天皇制や資本主義を否定することを目的に民衆を煽ったり(扇動)、社会を混乱させる(騒乱)こと
などです。
特に3番めの扇動・騒乱は、どれぐらい騒いだら罪になるのかが曖昧だったため、政府の匙加減で、どんな些細な出来事であっても思想弾圧できる強力なルールとなりました。
治安維持法と治安警察法の違い
実は日本にはもともと、治安警察法に似た法律で治安警察法と呼ばれる法律がありました。
治安警察法と治安維持法の違いってなんなの?
名前が似ていて違いがわからないんだけど・・・(汗
という方もいると思うので、補足説明しておくね!
この2つの法律の違いを理解するポイントは、『罰則となる対象範囲の違い』です。
治安警察法は、政治活動・労働運動について規制・罰則の定めた法律
治安維持法は、天皇制や資本主義を否定する活動について規制・罰則の定めた法律
という違いがあります。
治安維持法が日本に与えた影響
治安維持法は、日本の共産主義者たちに大きな影響を与えました。
三・一五事件&四・一六事件
治安維持法が制定された3年後の1928年、選挙権が緩和された後の初めての選挙が行われました。
すると政府の不安は的中し、共産党の党員が議員に選ばれ、公然と活動をするようになります。
そこで政府は、治安維持法を利用して共産主義者の本格的な弾圧を開始。
1928年3月と1929年4月には、多くの共産主義者が捕らえられることになります。(三・一五事件と四・一六事件)
転向
治安維持法による過酷は取り締まりが始まると、共産主義者の中には共産主義思想を捨てる者まで現れました。
1933年、獄中に捉えられていた2名の共産党幹部、佐野学と鍋山貞親という人物が「共産主義は日本に相応しくない!」という声明を発表したのを皮切りに、共産主義を捨てる者が続出することになります。
※弾圧によって共産主義的な思想を放棄させられたことを転向と言います。
普通選挙法・日ソ中立条約の影響で共産主義思想が日本に広がるのを防ぐ・・・という治安維持法の目的はしっかりと果たされたわけだね。
治安維持法による弾圧と共産主義者の転向によって、共産党は壊滅状態に追い込まれたんだ。
治安維持法のその後【悪法と呼ばれ廃止に至る】
当初は共産主義思想の弾圧を目的としていた治安維持法ですが、共産党が壊滅したことで弾圧対象を失ってしまいます。
すると1935年には、新たな弾圧ターゲットに新興宗教が追加。
戦争中だった1941年には、治安維持法の全面改正が行われます。
この改正によって、刑罰がさらに重くなるとともに、国家の方針に従わないだけで取り締まり可能なルールへと修正され、治安維持法はなんでもありの法律へと変貌してしまいました。
その後、日本が太平洋戦争で敗戦してGHQの支配下、日本の民主化が進められる中で、治安維持法は廃止され、その役目を終えることになりました。
変貌してしまった治安維持法は、国家の方針に背くもの認めなかったため、人々から言論・思想の自由を奪い去り、大量の逮捕者を生むことになりました。
そのため、言論・思想の自由が憲法で保障されている現代の日本では、治安維持法は国家権力濫用の道具にされてしまった悪法として悪いイメージを持っている人が多くいるんだ。
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