今回は、1925年に結ばれた日ソ基本条約について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
日ソ基本条約とは
シベリア出兵以降、対立が続いていた日本とソ連が、関係を回復するために国交を樹立した条約のこと。1925年に締結されました。
シベリア出兵
1918年8月、日本はアメリカ・イギリスなどの列強国と共に、第一次世界大戦の混乱に乗じてシベリア出兵を断行します。
なぜシベリア出兵を断行したのかというと、1917年のロシア革命によって登場した社会主義化したロシア(ソビエト政権)が社会主義思想を他国に広めることを、日本を含む列強国が恐れていたからです。
社会主義とは、資本を持つ者(ブルジョワシー)と持たざる者(プロレタリアート)の間で貧富の差が生じる資本主義を否定して、皆が平等・公平に暮らせる社会を目指す思想です。
社会主義の実現には、労働者を中心とする持たざる者(プロレタリアート)が力を合わせて、資本家が支配している資本主義国家を倒す必要があると考えられていました。
つまり、社会主義は国家転覆を前提とした思想だったので、資本主義国家の列強国たちは、社会主義が自国広まることを恐れた・・・ということです。
しかし、1918年11月に第一次世界大戦が終戦すると、シベリア出兵の大義名分が失われ、次第に撤兵を決める国が増えてきました。
ところが、日本だけはシベリア出兵を続行しました。日本はロシアと隣接しているため、アメリカやイギリス以上に、社会主義思想が日本に広まることを警戒し、手を緩めなかったのです。
そんな中、1919年に大事件が起こります。樺太半島のすぐ隣に位置するニコラエフスクという場所で、ソビエト政権を支持する人々に、民間人を含む日本人が皆殺しにされる事件が起こったのです。(この尼港事件と言いますが、教科書に乗っていないので無理に覚える必要はありません)
日本政府は、民間人まで殺戮した残虐非道な行為にブチギレ。ソビエト政権が誠意ある対応をするまでの間、樺太半島の北側を占領することを決めました。
※ちなみに、樺太半島の南側は、日露戦争後のポーツマス条約によって日本の領土になっていました。
日本は、1922年にシベリアからの撤退を決定しましたが、尼港事件が解決していないため、北樺太の占領を継続しました。
こうして、ソ連と日本の関係は険悪となり、これを改善したのが日ソ基本条約でした。
※ロシアのソビエト政権は、1922年に近隣の社会主義勢力と合体してソビエト連邦(通称:ソ連)になっていました。
なぜ日ソ基本条約は制定されたのか
犬猿の仲だった日本とソ連が、日ソ基本条約を結んだのは、ソ連・日本の双方の社会情勢に大きな変化があったからです。
日本の事情
日本がソ連との関係を回復しようと思ったきっかけは、大きく2つあると言われています。
1つは、日本がソ連との貿易を望んでいたからです。当時の日本は、戦後恐慌→関東大震災のダブルパンチで経済がズタボロになっていました。
そこで、国交を回復し、ソ連との経済活動を開始することで、日本の経済情勢が好転することを期待したのです。
2つ目は、日本がアメリカから強い外交的圧力を受けていたためです。
日本は、第一次世界大戦の混乱に乗じて中国支配を強めました。(二十一箇条の要求とか、西原借款とかね)
これに強い危機感を抱いたのがアメリカでした。
アメリカは、日清戦争(1894年)後の中国分割の頃から、中国への進出に乗り遅れていました。
そこでアメリカは、「俺(アメリカ)が中国を支配できないのなら、いっそのこと中国がどこの国からも干渉を受けないオープンな国になってくれた方が良い」と考えました。(この考え方のことを門戸開放・機会均等と言います)
日本の中国支配を強める政策は、アメリカの考え方と真っ向から対立するものだったので、アメリカから強く警戒されたのです。
アメリカは、1921年〜1922年にかけて行われたワシントン会議で九カ国条約を結び、各国がこれ以上中国に特別な利権を持つことを禁止します。
さらには、四カ国条約を利用して、日英同盟を破棄に誘導することで、日本を強く牽制しました。
アメリカからの圧力が強まる中、日本は無駄な敵を作らないために、他国との協調的な外交(幣原外交)を目指すようになり、その一環として、ソ連との国交回復を目指したのです。
ソ連の事情
一方のソ連にも大きな変化がありました。
その変化とは、ソ連の指導者だったレーニンが1924年に亡くなり、新しくスターリンがソ連のトップに立ったことです。
レーニンとスターリンの社会主義を目指す方針には、大きな違いがありました。そして、その違いが、日本とソ連の関係を改善させる原動力となります。
レーニンとスターリン、2人の考え方はそれぞれ次のようなものでした。
ソ連だけが社会主義国家になっても、資本主義国家に囲まれては社会主義を維持できない。
各国の労働者に社会主義の啓発を進め、ロシア革命に続く社会主義の革命を世界中に波及させなければならない・・・!
しかし、レーニンの思惑は外れることになります。というのも、ソ連に続いて革命を起こして社会主義化する国がなかったのです・・・。
そこで、後継者のスターリンは方針を変更します。
世界中が社会主義化しなくとも、ソ連は一国だけでも社会主義国家としてやっていける。
資本主義国家だらけの世界でも、ソ連を完全な社会主義国家にしてみせる!
こう考えたスターリンは、社会主義思想を恐れている資本主義国家へ思想を広めることを控え、外交等とを通じて、国際的な孤立から脱却することを考えます。
まとめると、日本はソ連との国交樹立に向けて2つの問題を抱えていました。
【メリット】日本経済のためにソ連と国交を回復させたい
【デメリット】でも、国交を回復することでソ連から社会主義思想が日本に入るこむことは避けたい
この相反する問題に対して、国内では様々な意見がありましたが、スターリンの登場でデメリットが薄れたことにより、日本政府はソ連との国交樹立を決断しました。
日ソ基本条約の内容
1924年からソ連と日本の話し合いが始まり、1925年1月に、日ソ基本条約が結ばれました。
日ソ基本条約は、日本とソ連の国交が公式に樹立したことを認める内容でであり、国交樹立に合わせて、両者の対立の火種になっていた尼港事件の解決についても明記されました。
どんな内容だったかというと、
日本は北樺太の占領をやめる。その代わり、北樺太の油田の半分の開発権を日本がもらう。
というものでした。
エネルギー資源の乏しい日本にとって、油田はとても貴重な資源です。日本は尼港事件を外交に利用し、その油田の一部を手に入れることに成功した・・・と見ることもできます。
日ソ基本条約の影響
スターリンの登場で、社会主義思想を広めようとするソ連の勢いが弱まったとはいえ、社会主義国家と国交を結ぶことには、政府内でも疑心暗鬼の意見が多くありました。
おまけに1925年1月というのは、ちょうど日本政府が選挙権の納税条件を撤廃する普通選挙法の制定に向けて準備を進めている真っ最中でした。
納税条件を緩和すれば、社会主義思想に染まりやすい労働者階級にも投票権が与えられるため、社会主義者の国会議員が誕生することも考えられます。
「そんな中で、無条件にソ連と国交を樹立するのはあまりに危険なのでは?」という考えもあり、同年(1925年)に治安維持法と呼ばれる法律が制定されることになります。
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