今回は、鎌倉幕府を支えた大事な概念「御恩」と「奉公」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
御恩と奉公の関係が始まった時代背景
話は、1180年〜1185年にかけて起こった治承・寿永の乱(源平合戦)にさかのぼります。
治承・寿永の乱は、以仁王という人物が「安徳天皇を即位させた平家なんてぶっ潰そうぜ!」と、全国に呼びかけ、これに呼応した人々が平家と戦った戦乱。
そして、以仁王の呼びかけに応じた人物の一人に、平清盛によって伊豆へ幽閉されていた源頼朝がいました。
源頼朝が「打倒!平家!!」と挙兵すると、関東の武士たちが源頼朝の下へ次々と集まり、気付けば源頼朝は関東一帯の武士たちを従えるリーダーとなっていきました。
他にもいろんな人物が以仁王の呼びかけに応じて立ち上がっているのに、なぜその中でも源頼朝がリーダー的存在になったの?
武士たちが源頼朝に従った理由は大きく3つあります。
さらに当時、関東の武士たちは2つの深刻な悩み・問題を抱えていました。
【悩みその1】
朝廷の貴族たちは、俺らのことを野蛮な番犬としか見ていない。俺たちは命をかけて戦っているのに、朝廷は活躍に見合った恩賞をくれないし、貴族たちは俺たちをゴミとしか思っていないんだ!
不満を朝廷にぶつけようにも、朝廷には平清盛がいるから逆らったらブチ◯されるしダメだし、誰か、武士が報われる世界に俺たちを導いてくれないかなぁ・・・。
【悩みその2】
武士同士の所領争いが凄すぎて、関東一帯がカオスになってるんだが・・・。
本音を言えば、俺だって戦いたくないし、源義朝殿のように関東の武士たちを束ねて平和に導いてくれるリーダーはいないだろうか。
関東武士たちは、この深刻な問題を解決するため、血筋よし・父親は実力者・人柄もOKな源頼朝に期待するようになったわけです。
平家打倒のために立ち上がった源頼朝殿なら、俺たちの新しい希望の光になってくれるかもしれない・・・!!
御恩と奉公が始まった理由・経過
関東一帯を平和的に治めるリーダーとしての役割を期待された源頼朝。
自分の役割をしっかりと把握していた源頼朝は考えます。
武士たちの利害関係は複雑だし、朝廷のような上からの支配も嫌っている。
屈強な武士たちを束ねるには、これまでの朝廷と武士の関係に捉われない、新しい仕組みが必要だ・・・!
こうして生まれたのが、御恩と奉公という新しい仕組みです。
御恩と奉公と書くと難しそうですが、要するにギブアンドテイクの精神を重んじた仕組みです。
なに、簡単なことよ。要するにギブアンドテイクの精神だ。
私が武士たちの悩みを解決する(御恩)代わりに、武士たちには平家を倒すために私と共に戦ってもらえばいいんだ(奉公)。
これまでの朝廷と武士のような一方的な関係ではなく、互いにwin-winの関係になることが重要だ。
この時に御恩と奉公の関係を結んだ武士のことを御家人と言います。
源頼朝は、上で紹介した2つ御家人の悩みを解決するため(御恩を与えるため)、朝廷を無視して勝手に武士たちに所領や役職を与えるようになります。
その後、1183年には源頼朝が東国を支配することを朝廷に認めさせ(寿永二年十月宣旨)、壇ノ浦の戦いで平家を破った1185年には、源頼朝が各地に守護・地頭を任命する権限を朝廷に認めさせることで、源頼朝の独断行動は朝廷からも公式に認められました。
治承・寿永の乱を経て、東国を中心とする御恩と奉公による武士統治の新しいシステムが朝廷公認の上で、完成したわけです。
犠牲になった源義経
ただ、この御恩と奉公というシステムは、源頼朝と御家人のwin-winの関係の上に成り立つもの。どちらか一方が、御恩と方向の仕組みにメリットを感じられなくなれば、両者の関係はすぐに破綻してしまいます。
なので、御家人に御恩と奉公のメリットを感じてもらうことは、リーダーの源頼朝にとって実はめちゃくちゃ重要な問題でした。
そのため源頼朝は、御家人同士の人間関係や人柄、弱みなどを常に把握し、御家人たちの不満を沈めるため全力を注ぎ、御恩と奉公のシステムを乱す者は味方であっても容赦をしませんでした。
こうして犠牲になったのが、頼朝の弟である源義経です。
源義経は、御家人を束ねる兄の存在がありながら、独断で朝廷にも仕えていました。しかし、御恩と奉公のシステムを成立させるためには、御家人が2人の主君(朝廷と源頼朝)に仕えることはあってはならないことです。
2人の主君に仕えれば、御家人が感じられる御恩と奉公のメリットが薄れ、最悪の場合、御家人が裏切る可能性もあります。
このような鎌倉幕府を崩壊させかねない危険な行為を、源頼朝の弟で、しかも知名度バツグンの人気者だった源義経が率先して行ってしまったのです。
例えば、源義経が朝廷で優遇させているのを見て、他の御家人たちも朝廷に仕えるようになってしまうと、鎌倉幕府はたちまち崩壊してしまいます。
私は、御家人を束ねる鎌倉幕府のリーダーだ。
これ以上幕府を崩壊させるような愚行を続けるのなら、私はたとえ弟であっても、絶対に容赦はしない。
こうして源頼朝は、1189年、奥州合戦によって弟の源義経を討ち取ります。源頼朝にとっては、鎌倉幕府を守るためのやむをえない決断でした・・・。
御恩
最後に「御恩」「奉公」が具体的にどんなものだったのかを見ていきます!
「御恩」は、鎌倉幕府の将軍(初代は源頼朝)から御家人たちに与える褒美のこと。
将軍が御恩として御家人に何を与えたかというと、主に2つあります。
それが「本領安堵」と「新恩給与」と呼ばれるものです。
本領安堵・新恩給与の方法は少し変わっていて、「御家人に直接土地を与える」という形ではなく、「決められた土地の管理を任せる役職(地頭)に任命する」という方法で行われました。
本領安堵の場合なら、御家人が昔から住んでいた地域の地頭に任命してあげることによって行われます。
新恩給与の場合なら、御家人を新天地の地頭に任命してあげることによって行われます。
御家人はあくまで「地頭として所領の管理を任されているだけ」なので、地頭職を解任されるとただの人になってしまいます。そして、地頭の任命・解任の権限は将軍が持っていたので、地頭の身分を与えられた後もその身分を維持するため、将軍に奉公することが必要でした。
奉公
奉公は、御恩をくれた見返りに将軍のために働くことを言います。
御恩と奉公の仕組みができた当初は、治承・寿永の乱の真っ最中だったため、奉公=「源頼朝と共に平家と戦うこと」を意味していました。
戦乱が終わって、平時になると奉公は大きく3つの方法によって行われるようになります。
それぞれ簡単に説明します。
戦があった時の軍役
戦が起こった時は、鎌倉幕府のために戦います。
源頼朝が生きていた頃は、戦いは多くありませんでしたが、頼朝の死後、鎌倉幕府内での争いが多くなり、軍役の機会が増えていきます。
大きい軍役があった事例には、承久の乱や元寇(文永の役・弘安の役)があります。
京都大番役(これがメインの仕事!)
天皇や上皇の御所を警備する仕事。3つの奉公の中でも、メインとなる仕事です。
東国からはるばる京都までやってきて、6ヶ月間、御所の護衛・警備に当たります。
京都大番役は御家人の負担がとても重く、鎌倉時代中盤になると期間が3ヶ月に短縮されました。
鎌倉番役
鎌倉幕府を警備する仕事。京都大番役の鎌倉バージョン。
封建制度の始まる
今回紹介した御恩と奉公のように、土地を通じて人々が主従関係を結ぶ仕組みのことを歴史用語で封建制度と言います。
封建制度と御恩・奉公は、「御恩と奉公」=「封建制度の一種類」という関係にあります。世界には、御恩と奉公とは違う方法で封建制度を採用していた国や地域も多くあります。
御恩と奉公をベースにした鎌倉幕府の成立によって、日本でも封建制度が始まり、封建制度は江戸時代までの長い間続くことになります。
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