摂関政治とは?わかりやすく簡単に解説【藤原道長が全盛期を築いた仕組み】

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もぐたろう
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今回は、平安時代の「摂関政治」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!藤原氏がどうやって権力を握ったのか、仕組みから終わった理由まで一気に見ていこう。

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📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・共通テスト対応

この記事を読んでわかること
  • 摂関政治とは何か・何時代の話かがわかる
  • 摂関政治の仕組み(外祖父戦略・摂政と関白の違い)がわかる
  • 全盛期を築いた人物(藤原道長・藤原頼通)の功績がわかる
  • 摂関政治が終わった理由と院政への移行がわかる

「摂関政治」と聞くと、藤原氏が天皇を裏で操った悪い政治というイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。

しかし、実は摂関政治の全盛期を築いた藤原道長ふじわらのみちながは、関白に一度もなっていません

道長が手にした権力は、「関白」という肩書きではなく、天皇の外祖父がいそふ(母方のおじいちゃん)という血縁関係から生まれたものだったのです。

この記事では、そんな摂関政治の仕組みから全盛期、そして終わった理由まで、わかりやすく解説していきます。

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摂関政治とは?(平安時代・3行でわかる)

3行でわかる摂関政治
  • 平安時代中期〜後期(10〜11世紀)に、藤原氏が天皇の外祖父となり政治を主導した体制
  • 天皇が幼いとき→摂政、天皇が成人したあと→関白として国政を取り仕切った
  • 全盛期は藤原道長・頼通父子。11世紀後半に院政が始まり終わりを迎えた

摂関政治せっかんせいじとは、平安時代の10世紀後半〜11世紀にかけて行われた政治のしくみです。

藤原氏が天皇の母方の祖父(外祖父)となることで、摂政せっしょう関白かんぱくという役職に就き、天皇に代わって政治を動かしました。

もぐたろう
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ちなみに「摂政政治」と検索する人もいるけど、正しくは「摂関政治」だよ。摂政と関白をまとめて「摂関」と呼んでいるんだ。

摂関政治が行われたのは平安時代です。具体的には、9世紀後半(858年)に藤原良房が初めて摂政になったころから始まり、11世紀後半(1086年)に院政が始まるまでの約200年間を指します。

■摂政と関白の違い

摂政と関白って何が違うの?どっちもえらい役職でしょ?

もぐたろう
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いい質問だね!簡単にいうと、摂政は天皇が子どもや女性のときに代わりに政治をする役職で、関白は天皇が大人になったあとも政治をサポートする役職だよ。

つまり、摂政は天皇が幼少のため自分で政治を行えないときに、天皇に代わって政務を行います。今でいえば「代理社長」のようなイメージです。

一方、関白は天皇が成人したあとも天皇を補佐し、重要な政策について事前に確認・助言する役職です。今でいえば「最高顧問」に近い存在でしょう。

じゃあ、天皇が子どもだったり女性だったりするときに代わりに政治をするのが摂政ってこと?

もぐたろう
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そのとおり!天皇が幼いときや女性天皇のときに代わりに政治を行う役職が「摂政」なんだ。そして、藤原氏はこの摂政のポジションを独占することで、大きな権力を握ったんだよ。

摂関政治の仕組み――外祖父になることが権力の鍵

摂関政治の最大のポイントは、「外祖父になる」ことです。

外祖父がいそふとは、天皇の母方のおじいちゃんのことです。藤原氏は自分の娘を天皇のきさきにすることで、生まれた皇子の外祖父となり、摂政や関白のポジションを手に入れました。

もぐたろう
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つまり、藤原氏は「天皇のおじいちゃん」になることで政治を動かしていたんだ。血のつながりが最強の武器だったんだね。

■藤原氏が権力を握った3ステップ

藤原氏がどのようにして権力を握ったのか、3つのステップで整理してみましょう。

ステップ①:娘を天皇の后(きさき)にする

まず、藤原氏は自分の娘を天皇に嫁がせます。天皇の正妻(中宮ちゅうぐう)のポジションを藤原家の娘が押さえることが、全ての出発点でした。

ステップ②:生まれた皇子を次の天皇にする

天皇と藤原家の娘の間に皇子が生まれたら、その皇子を次の天皇に即位させます。こうすることで、藤原氏は新天皇の「母方のおじいちゃん=外祖父」になれるのです。

ステップ③:天皇の外祖父として摂政・関白に就任する

新天皇がまだ幼ければ、外祖父である藤原氏が「摂政」として天皇の代わりに政治を行います。天皇が成長しても、「関白」として政治を補佐し続けました。

こうして藤原氏は、娘を嫁がせる→外祖父になる→摂政・関白に就任するというサイクルを繰り返し、何世代にもわたって権力を握り続けたのです。

摂関政治の仕組みフロー図

でも、藤原道長って摂関政治で一番偉い人なのに、関白にはなってないんでしょ?どうして?

もぐたろう
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実は道長は、摂政にはなったけど関白にはならなかったんだ。理由は、3人の天皇の外祖父という立場が強すぎて、関白という肩書きがなくても十分な権力を持っていたから。「内覧」という、天皇に届く文書をすべて事前チェックする権限だけで政治を動かせたんだよ。

摂関政治はいつ・何時代?――始まりから確立まで

摂関政治は平安時代の政治体制です。平安時代は794年〜1185年ごろまでの約400年間を指しますが、摂関政治はそのうちの9世紀後半〜11世紀後半(858年〜1086年ごろ)にかけて行われました。

では、摂関政治はどのようにして始まったのでしょうか。そのきっかけとなった2人の人物を見ていきましょう。

■藤原良房:初めての人臣摂政(858年)

摂関政治の始まりは、藤原良房ふじわらのよしふさにさかのぼります。

良房は、自分の娘を文徳天皇もんとくてんのうに嫁がせ、生まれた皇子が9歳で即位して清和天皇せいわてんのうとなると、858年に臣下として初めて摂政に就任しました。

もぐたろう
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それまで摂政といえば、皇族(天皇の親族)がなるものだったんだ。藤原良房は皇族以外で初めて摂政になった人物として超重要だよ!テストにもよく出るからしっかり覚えておこう。

さらに良房は、866年に起きた応天門の変おうてんもんのへんで政敵の伴善男とものよしおを失脚させ、藤原氏の地位をさらに盤石なものにしました。

■藤原基経:初めての関白(887年)

良房の養子である藤原基経ふじわらのもとつねは、887年宇多天皇うだてんのうのもとで初めての関白に就任しました。

基経は阿衡の紛議あこうのふんぎと呼ばれる事件で天皇との駆け引きに勝利し、関白の権威を確立します。これにより、天皇が成人しても藤原氏が政治に関与し続ける仕組みが完成しました。

良房が初の摂政、基経が初の関白なんだね。2人セットで覚えればいいのかな?

もぐたろう
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そうそう!「良房=初の人臣摂政(858年)」「基経=初の関白(887年)」をセットで覚えるのがコツだよ。この2人が摂関政治の土台を作ったんだ。

■他氏排斥で独走体制を確立

藤原氏は、ライバルとなる他の有力貴族を次々と排斥していきました。

代表的な事件が、901年昌泰の変しょうたいのへんです。藤原時平ふじわらのときひらの策略により、菅原道真大宰府だざいふに左遷されました。

このほかにも、承和の変じょうわのへん(842年)や安和の変あんなのへん(969年)など、藤原氏は政敵を次々と退けていきます。こうした他氏排斥によって、藤原北家の独走体制が確立されたのです。

摂関政治の全盛期を築いた人物――藤原道長と頼通

摂関政治の全盛期を築いた人物は、藤原道長ふじわらのみちながと、その子の藤原頼通ふじわらのよりみちです。

特に道長は、4人の娘を天皇の后にするという前代未聞の外祖父戦略で、圧倒的な権力を手にしました。

■藤原道長の外祖父戦略

道長(966〜1028年)は、長女の彰子しょうし一条天皇いちじょうてんのうに、次女の妍子けんし三条天皇さんじょうてんのうに、三女の威子いし後一条天皇ごいちじょうてんのうにそれぞれ嫁がせました。

これにより道長は、後一条天皇ごいちじょうてんのう後朱雀天皇ごすざくてんのう後冷泉天皇ごれいぜいてんのう3代にわたって天皇の外祖父の立場を得ました。摂政や太政大臣だいじょうだいじんを歴任し、朝廷の政治を完全に掌握したのです。

■「この世をば」の和歌と権力絶頂

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」

この有名な和歌は、1018年に三女の威子が後一条天皇ごいちじょうてんのう中宮ちゅうぐうになった祝いの宴で、道長が詠んだものです。

「この世をば〜」の歌ってどういう意味?

「この世は自分のための世だと思う。満月のように、足りないものは何もない」という意味です。3人の娘が天皇の后になり、権力の頂点に立った道長の自信と満足感がにじみ出ています。

この歌は、道長自身の日記『御堂関白記みどうかんぱくき』には記録されておらず、藤原実資の日記『小右記しょうゆうき』に残されています。宴の席で道長が即興で詠み、その場にいた実資が書き留めたとされています。

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「この世をば〜」の和歌はテストの超頻出問題だよ!「誰が詠んだか」「何年か」「きっかけは何か」の3点セットで覚えておこう。答えは「藤原道長・1018年・威子の中宮冊立」だね。

■藤原頼通と宇治平等院鳳凰堂

道長の子である藤原頼通ふじわらのよりみち(992〜1074年)は、父の後を継いで約50年間にわたって摂政・関白を務めました。

頼通の最大の功績の一つが、1053年に京都の宇治に建立した平等院鳳凰堂びょうどういんほうおうどうです。

平等院鳳凰堂は、当時流行していた浄土信仰じょうどしんこうを反映した建築で、極楽浄土をこの世に再現しようとしたものです。現在の10円玉の裏面にもその姿が描かれています。

10円玉のあのお寺が平等院鳳凰堂なの?知らなかった!

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そうなんだ!テストでは「平等院鳳凰堂=藤原頼通が建立・1053年」という組み合わせで出るから覚えておいてね。

摂関政治が終わった理由――院政へと移行した背景

摂関政治が終わった最大の理由は、藤原頼通に天皇の后にできる娘がいなかったことです。

外祖父になることが権力の源泉だった摂関政治にとって、入内させる娘がいないことは致命的でした。ここでは、摂関政治が終わりを迎えるまでの流れを見ていきましょう。

■頼通に娘がいなかった致命的な問題

問題:頼通には天皇に嫁がせる娘がいなかった――外祖父になれなければ摂関政治は成り立たない

父・道長は4人の娘を天皇に嫁がせましたが、頼通にはそれができませんでした。頼通の娘・寛子かんし後冷泉天皇ごれいぜいてんのうに入内しましたが、皇子に恵まれなかったのです。

外祖父になれないということは、次の天皇とのつながりが切れるということです。摂関政治の根幹である「血のつながりによる権力維持」が、ここで途切れてしまいました。

ただ、これは頼通個人だけの問題ではありませんでした。摂関政治そのものが、もとから「」に大きく依存する構造的な弱さを抱えていたのです。

でも、それって頼通がたまたま運悪かっただけじゃないの?道長はうまくいったわけだし…。

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実は、それこそが摂関政治の根本的な弱点だったんだ!外祖父戦略が成功するには、

娘が産まれること

その娘が天皇に入内できること

皇子(男の子)が産まれること

その皇子が天皇の位に就くこと

という4つの関門をすべてクリアしなきゃいけない。これって、どれだけ権力があっても「運」に大きく左右されるんだ。道長が4人の娘を全員うまく入内させ、皇子まで産ませられたのは、政治力だけじゃなく、強運にも恵まれていたから。いわば、この制度は「運が続く限りは機能するが、運が尽きた瞬間に崩れる」という構造的な欠陥を抱えていたんだよ。

院政と摂関政治って何が違うの?どっちも天皇を補佐してるんじゃないの?

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いい質問だね!大きな違いは「誰が政治を動かすか」だよ。摂関政治は藤原氏(天皇の臣下)が摂政・関白として政治を主導する。一方、院政は天皇の父である上皇・法皇が「院」で政務を行う。つまり、臣下が主導するか、天皇家自身が主導するかという点がまったく違うんだ。

■後三条天皇の登場と院政の始まり(1086年)

転換点:後三条天皇の登場――藤原氏と外戚関係のない天皇が即位し、親政を開始

1068年、藤原氏と外戚関係を持たない後三条天皇ごさんじょうてんのうが即位しました。後三条天皇は藤原氏に頼らず自ら政治を行い、延久の荘園整理令えんきゅうのしょうえんせいりれいを発布するなど、強力な改革を進めます。

そして後三条天皇の子である白河天皇しらかわてんのうは、1086年に天皇の位を息子に譲ったあと、上皇じょうこうとして政治を行う院政を開始しました。

これにより、摂関政治は実質的に終わりを迎えます。以降、政治の実権は藤原氏の摂政・関白ではなく、天皇家自身(上皇・法皇)の手に戻ったのです。

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まとめると、摂関政治が終わった理由は大きく3つ。①外祖父戦略が「娘が産まれる→入内→皇子誕生→即位」という運頼みの構造だったこと、②頼通の代でその運が尽き外祖父になれなかったこと、③藤原氏と血縁のない後三条天皇が即位して親政を始めたこと。道長の全盛期は制度と運が噛み合った奇跡的な時代で、その運が続かなかった時点で、摂関政治の限界が一気に表れたんだ。

テストに出る!摂関政治の重要ポイント

ここでは、定期テストや入試で問われやすいポイントをまとめました。

テストに出やすいポイント
  • 初の人臣摂政藤原良房ふじわらのよしふさ(858年・清和天皇の外祖父)
  • 初の関白藤原基経ふじわらのもとつね(887年・宇多天皇の時代)
  • 摂関政治の最盛期藤原道長ふじわらのみちなが藤原頼通ふじわらのよりみち父子(11世紀前半)
  • 道長の名歌「この世をば〜」=1018年・三女の威子が後一条天皇の中宮になった夜宴で詠む
  • 摂関政治が終わったきっかけ=頼通に入内させる娘がなく、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇ごさんじょうてんのうが即位
  • 院政の開始白河上皇しらかわじょうこう(1086年)→摂関政治は実質的に終焉

覚え方のコツ
摂関政治の流れは「良房→基経→道長→頼通→後三条→院政」の順番で押さえよう。「良房が摂政をはじめ、基経が関白をはじめ、道長が頂点を極め、頼通で行き詰まり、後三条天皇で終わった」と物語風に覚えると忘れにくいよ。

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特に「摂政と関白の違い」は記述問題でよく出るよ!「摂政=天皇が幼いときに政務を代行」「関白=成人天皇の政務を補佐」という違いをしっかり押さえておこう。

摂関政治をもっと深く学ぶ――おすすめ書籍

① 平安時代の政治をしっかり学びたい中高生・大学生なら|「摂関政治」の第一人者による決定版入門書

摂関政治〈シリーズ 日本古代史 6〉

古瀬奈津子 著|岩波書店(岩波新書)

よくある質問

摂関政治とは、平安時代の中期〜後期(10〜11世紀)に、藤原氏が天皇の外祖父(母方の祖父)となり、摂政や関白として政治の実権を握った体制のことです。娘を天皇に嫁がせて外祖父の立場を得ることで、朝廷の権力を独占しました。

摂政は、天皇が幼少や女性の場合に天皇に代わって政務を行う役職です。一方、関白は成人した天皇の政務を補佐し、天皇に奏上される文書を事前に確認する役職です。どちらも藤原氏が独占しましたが、天皇の年齢や状況によって使い分けられました。

一般的には、858年に藤原良房が清和天皇の外祖父として初の人臣摂政に就任したことが始まりとされています。その後、887年に藤原基経が初の関白となり、「摂政」と「関白」の両方がそろったことで摂関政治の仕組みが確立されました。

藤原頼通に天皇に嫁がせる娘がおらず、外祖父になれなかったことが最大の原因です。その結果、藤原氏と外戚関係のない後三条天皇が即位して親政を行い、さらに白河上皇が1086年に院政を開始したことで、摂関政治は実質的に終わりました。

藤原道長は摂関政治の全盛期を築いた人物です。4人の娘を天皇に嫁がせて3代の天皇の外祖父となり、摂政・太政大臣を歴任して朝廷を掌握しました。1018年には「この世をば わが世とぞ思ふ」と詠み、権力の絶頂を誇りました。

摂関政治は平安時代の政治体制です。具体的には10世紀後半〜11世紀後半(900年代後半〜1000年代後半)にかけて行われました。858年の藤原良房の摂政就任から、1086年の白河上皇による院政開始までがおおよその期間です。

まとめ:摂関政治をひとことで

摂関政治の年表
  • 858年
    藤原良房が初の人臣摂政に就任(清和天皇)
  • 866年
    応天門の変で良房が権力を固める
  • 887年
    藤原基経が初の関白に就任(宇多天皇)
  • 901年
    昌泰の変で菅原道真が大宰府に左遷
  • 969年
    安和の変で藤原北家の一強体制が確立
  • 1016年
    藤原道長が後一条天皇の摂政に就任(権力の絶頂)
  • 1053年
    藤原頼通が宇治平等院鳳凰堂を建立
  • 1086年
    白河上皇が院政を開始、摂関政治は実質的に終焉

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以上、摂関政治のまとめでした!藤原氏がどうやって権力を握り、なぜ衰退したのか、流れをつかめたかな?下の記事で藤原道長や院政についてもあわせて読んでみてね!

📅 最終確認:2026年3月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)

参考文献

Wikipedia日本語版「摂関政治」「藤原道長」「藤原良房」「藤原頼通」「院政」(2026年3月確認)
コトバンク「摂関政治」「関白」「摂政」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)平安時代の政治(第3章)
Historist(山川オンライン辞典)「摂関政治」「藤原道長」「藤原良房」

記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。

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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
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