今回は、1914年に起こった汚職事件「シーメンス事件」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
シーメンス事件とは
シーメンス事件とは、日本海軍がドイツのシーメンスという会社から賄賂を受け取って、兵器を不正にシーメンスから購入した汚職事件です。
ちなみに、シーメンスという会社は今も存在します。
参考URLシーメンスHP(日本語版)
行政機関が何か物を購入する際、多くの場合、「入札」という方法が用いられます。
入札は、行政機関が特定の企業等と癒着しないよう、公平・公正に商品やサービスを購入するための仕組みです。
通常、行政機関は入札前に情報収集を行います。
海軍の一部の人たちは、シーメンスにこの事前情報をリークしました。これは不正行為であり、「海軍の予算」「入札参加企業」「他社の参考見積価格」などの情報があれば、シーメンスが入札で他社に負けることはほとんどありません。
入札で有利になれば、シーメンスとしては売上UPにつながりますし、入札に関わった海軍担当者も賄賂をもらえて、Win-Win・・・というわけですね。
極秘に行わていた不正行為ですが、意外なところからこの事実が明るみになることになります・・・。
シーメンス事件はなぜバレた?
きっかけは、シーメンスのとある社員がこの不正行為を金儲けに利用したことです。
社員の名は、カール・リヒテル。
リヒテルは、この不正の事実を盗み出し、1913年10月、シーメンスの東京支店を脅します。
リヒテル「不正の事実をバラされたくなかったら、俺に金をよこせ!」
しかし、この脅しは失敗。逆に、この恫喝行為そのものが犯罪であるとして、リヒテルはドイツで捕らえられ裁判にかけられました。
裁判の結果は有罪。そして、公表された裁判の結果の中に、汚職事件に関わった日本海軍の名前が載っていたのです。
えっ!?そんなところからバレるの!?
想定外からの汚職発覚に、海軍関係者は衝撃を受けました。
1914年1 月、日本にドイツでの裁判結果が伝わり、いよいよ海軍の汚職事件が日本でも公のものとなります。
山本権兵衛内閣
当時、内閣総理大臣だったのは、海軍出身だった山本権兵衛という人物。
そのため、海軍の汚職事件に対する批判は、内閣全体にまで波及し、1月に開かれた帝国で、内閣は痛烈に批判を受けることになります。
そもそも、海軍の山本権兵衛が総理大臣に抜擢された理由は、「陸軍と癒着している桂太郎内閣をぶっ倒すため」でした。
1912年、桂太郎は、陸軍を利用して政敵の西園寺公望から内閣総理大臣の座を奪いました。このほか、桂太郎には賄賂や癒着の黒い噂が絶えなかったことに加え、1910年には大逆事件で社会主義者を弾圧しています。
このような権力にものを言わせた桂太郎の政治に、日露戦争後の不況も重なって国民の不満が爆発。1913年には、議事堂を民衆が取り囲む暴動が起こり、桂太郎は辞職に追い込まれます。(大正政変)
山本内閣が誕生するまでの詳細は、以下の記事をご覧ください。
そして、このような国民の声を受けて立ち上がったのが山本権兵衛内閣でした。この状況で山本権兵衛に求められたのは、クリーンな政治を目指すことです。
その山本権兵衛の出身地(海軍)から汚職事件が発覚したのですから、期待を裏切られた国民は大激怒し、山本内閣の解散を強く望むようになります。
山本、お前も黒かよ!俺たちの期待を裏切りやがって・・・。もう、内閣総理大臣なんか辞めちまえ!!
山本権兵衛は内閣総理大臣になるに際して、国民の期待を背負っていた立憲政友会の支援を受けていました。その国民の期待を裏切ったことで、山本権兵衛内閣は支持基盤を喪失。窮地に立たされることになります。
芋づる式に見つかる汚職
この汚職事件をきっかけに、海軍の会計にメスが入ると、シーメンス以外にも次々と汚職が発覚。
最終的に、軍艦の受注にまで汚職が及んでいることがわかります。
受注を受けたイギリスの企業(ヴィッカース)から海軍の担当者が40万円もの大金をもらっていることが判明したのです。
当時の40万円がどれぐらいの大金かというと、「日本の歴史23大正デモクラシー(中公文庫)」という本に次のような記述があります。
当時、うどん・そばのもり・かけは、一杯三銭(0.3円)ぐらいであった。
その頃に40万円とか36万円といえば、今の金額で言えば、かるく4億を突破するであろう。
ちなみに、1976年に発覚した有名なロッキード事件では、内閣総理大臣の田中角栄は5億円の賄賂をもらったとされています。金額だけで比較すれば、シーメンス事件はロッキード事件にも劣らない大汚職事件だったということになります。
シーメンス事件で山本内閣は崩壊へ・・・
2月10日頃には、怒る民衆が議事堂を包囲して、山本内閣の解散を強く要求しました。
小競り合いにより警察が民衆を斬りつける事件が起こったり、政府寄りの新聞社にデモをしようとした民衆が逮捕されたりと、東京の街は騒然としました。
議会では、立憲政友会が衆議院の過半数を占めていたおかげで、衆議院の審議は山本内閣の有利に進みますが、貴族院が山本内閣の予算案を拒絶。
※帝国議会の衆議院と貴族院の仕組みは以下の記事で紹介しています↓
議会(貴族院)と世論の痛烈な批判によって政策を行えなくなった山本権兵衛は、連携していた立憲政友会とも意見のすれ違いがみられるようになり、「これ以上の政権運営は困難」と判断し、内閣を解散してしまいます。
汚職事件が発覚してから山本内閣が解散するまでの一連の出来事のことを、シーメンス事件と言います。
1913年、山本権兵衛は、桂内閣に対する国民の不満を利用して、桂内閣から政権を奪いました。(大正政変)
しかし、このわずか一年後、山本権兵衛は自らが桂太郎にしたのと全く同じ方法で、政権を奪われる結果となってしまいました。
海軍出身者が内閣総理大臣になった途端に、海軍の汚職事件が発覚するとは、不運だったとしかいいようがありません・・・、と言いたいところですが、実はシーメンス事件には陰謀論が存在しています。
シーメンス事件の陰謀論
シーメンス事件には「陸軍のバックにいる山縣有朋が、ドイツと連携して意図的に起こした事件なのでは?」という説があります。
山縣有朋は、大正政変で陸軍と近い桂内閣を倒された報復として、山本内閣を陥れた・・・という理屈です。
一方のドイツはイギリスをライバル視しており、「イギリスと同盟関係(日英同盟)にある日本の海軍が強くなっては困る」と考えていたので、「山本内閣は邪魔!」という点で両者の利害も一致します。
この陰謀説が真実かどうかはわかりませんが、事件が起こったタイミングがあまりも的確すぎるため、あながち荒唐無稽な話もないのかな?と個人的には思っています。
シーメンス事件後の日本の政治
山本内閣の後任選びは、難航します。
当然、海軍関係者はダメ。
海軍と親しい立憲政友会もダメ。
陸軍も大正政変で民衆に嫌われているからダメ。
官僚に近い人物も、大正政変で民衆から嫌われているからダメ。
・・・という感じで、民衆・政党・官僚・陸軍・海軍に複雑な利害関係があったため、誰をどう選んでも、まともに政権運営できそうな人物がいませんでした。
ここで民衆が政局に大きな影響力を持っていることがわかると思います。
これは、大正政変以降、民衆の政治に対する監視の目が強くなり、大きく声をあげるようになったからです。(この民衆の動きは、大正デモクラシーと呼ばれています。)
そこで抜擢されたのが、政界から離れており、過去に内閣総理大臣になった経歴もある大隈重信でした。
と、この難しい局面で最適な人物こそが大隈重信だったのです。
大隈重信の活躍については、以下の2つの記事で紹介しています。
↓隈板内閣について
↓立憲改進党について
こうして、シーメンス事件の後、第二次大隈内閣が生まれることになります。(大隈重信は、2回目の内閣総理大臣就任なので「第二次」です。)
シーメンス事件は大規模な汚職事件だったにも関わらず、海軍への処罰は非常に軽いものに終わります。シーメンス事件で有罪になった海軍軍人は、わずか3名だけでした。
なぜこんなことが起こったかというと、シーメンス事件が起こった1914年は、ちょうどヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した年だったからです。
イギリスと日英同盟を結んでいた日本も、第一次世界大戦と無関係ではいられません。そんな中で、海軍の力を削ぐようなことはできなかったわけですね。
山本権兵衛と当時海軍大臣だった斎藤実も、シーメンス事件の責任を取る形で政界や軍部から距離を置くようになったものの、ドイツも巻き込んだ国際的大汚職事件のわりに、なんとも静かに事件は終焉を迎えました・・・。
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