今回は、明治時代に起こった自由民権運動についてわかりやすく解説していきます。
最初に、自由民権運動について簡単な概要を載せておきます。
この記事では、自由民権運動について以下の点を中心にわかりやすく解説を進めていきます。
なぜ自由民権運動は起こったのか?
自由民権運動は「民意を政治に反映させるため」に起こった運動。逆に言うと、自由民権運動が起こったのは、「明治政府の政治に民意が反映されていなかったから」とも言えます。
当時の明治政府は、イギリスら列強国に対抗すべく富国強兵を目指していました。最新技術を導入するため高報酬で外国人を雇い、多くの工場を建設。さらに徴兵令によって軍隊を整備し、最新兵器の生産にも力を入れています。
そして、これらには多額のお金が必要でした。しかし、出来立てホヤホヤの明治政府にそんな大金はありません。そこで、明治政府はお金を持っている事業家や会社と結びつきます。
特に有名なのは三井家と岩崎弥太郎が創設した郵便汽船三菱会社。
三井家は明治政府を資金面から強くサポートする代わりに、大蔵省とズブズブの関係となり多方面から優遇を受け、郵便汽船三菱会社は海運業を独占して巨万の富を得る代わりに、戦時中には軍艦を手配しました。
三井・三菱を筆頭に政府と結びついた事業家・会社のことを政商と言います。
さらに、明治政府が1873年に実施した地租改正による重税で多くの小規模農家が没落し、生活する術を失うと、三井・三菱といった政商が没落者を労働力として受け入れ、過酷な労働を強いることもありました。そして、重税の一部は三井・三菱ら政商の懐に入ります。
このような金持ちとお役人だけが優遇される政治のあり方に多くの人々が不満を持ち、1875年前後には多くの反乱(一揆)が起こっています。
自由民権運動の始まり【民撰議院設立の建白書】
民衆だけでなく、政府の要職にも同じことを考えている人物がいました。それが板垣退助です。
多くの反乱が起こるのは、政府に民衆の意見を反映させる仕組みがないからである。
ヨーロッパの国々にあるような選ばれた民衆による議院(議会または国会とも言う)を創設して、民意を反映できる仕組みを作る。そうすれば政治はよくなり、民衆の不満は消え、暴動も起こらなくなるだろう。
当時の日本では、ヨーロッパから入ってきた天賦人権の思想と呼ばれる考え方が流行っていました。
「人間には健康・自由に生きる権利があり、その権利はたとえ政府であっても妨げることはできない」という考え方です。
・・・にもかかわらず、明治政府はそれを妨げている。これは「国民のために国があるのに、今の日本の政治には一部の人々の意見しか反映されていない(民意が反映されていない)からだ・・・!」だとして、天賦人権の思想は自由民権運動の大きな後押しとなりました。
1873年(明治6年)、板垣退助は明治六年の政変で政界から失脚。政府から離れた板垣退助は、本格的な自由民権運動を始めます。
1874年1月、板垣退助は同じ志を持つ人々を集めて愛国公党を結成。そして愛国公党から民撰議院設立の建白書を政府へ提出しました。ちなみに、愛国公党は日本で初めての政治組織(政党)です。
自由民権運動と明治政府の駆け引き
民撰議院設立の建白書の内容は、新聞や雑誌で広く民衆に広がります。そして、政府に不満を持っている多くの人々がこれに賛同し、自由民権運動はいよいよ本格化することになります。
民撰議院設立の建白書を提出した愛国公党は、メンバーだった江藤新平が脱退して佐賀の乱を起こしたのを始めとして、メンバーがバラバラとなったことですぐに自然消滅。板垣退助は地元の高知に戻って、同年(1874年)新たに立志社という組織を立ち上げます。トップには片岡健吉という人物が就任します。
1875年1月、明治政府のボスだった大久保利通は、政府の方針に反対している木戸孝允・板垣退助と大阪で会合(大阪会議)を開きます。
木戸孝允は、1874年の台湾出兵に反対して明治政府から離脱していた。そして、板垣退助と同じく議院創設に賛成だった。
1874年には江藤新平が佐賀の乱を起こし、それ以外にも各地で一揆が続いている。おまけに、民撰議院設立の建白書をきっかけに各地で自由民権運動まで起こり、世の情勢は不安定となっている。
そこで、政府に反対する木戸孝允・板垣退助の動きを封じるための秘策こそが、この大阪会議であった・・・!
板垣退助は大阪会議で「国会開設にむけて準備を進める」という回答を大久保から引き出すことに成功し、3月には参議に就任します。こうして政府と板垣退助は歩み寄ったかのように見えました。
1875年4月、大阪会議の結果として漸次立憲政体樹立の詔(天皇からの宣言・命令)が出されました。
そして、立憲政体樹立の準備として以下の3つの機関が創設されました。
どれも希望に満ち溢れた組織ですが、形だけで板垣退助の要望は実現されませんでした。もちろん、国会開設の話もウヤムヤのままです。
板垣退助は大阪会議の後の1875年2月、全国に広がった自由民権運動を束ねるため、大阪に愛国社という組織を作っています。
政府との交渉も上手く進み愛国社を立ち上げた後の4月、板垣退助の意見が骨抜きにされた漸次立憲政体樹立の詔が発表されます。
愛国社はこれに反対運動を起こしたいところですが、愛国社の中心的人物である板垣退助が政府の要職に就任していたので、これに強く反対することができません。(これこそが大久保利通が大阪会議を開いた目的だった・・・!)
うまい話には必ず罠があるのだよ。
これこそが、大阪会議の真の目的。板垣は私の謀略にまんまとハマったのだ・・・!
1875年6月、明治政府は追い討ちをかけるように讒謗律と新聞紙条例を制定して、自由民権運動に賛同する新聞社などを強く弾圧するようになります。
【讒謗律】
名誉毀損に対する罰則を定めた命令。
「自由民権運動で政治家を批判」=「名誉毀損」の理論で運動を弾圧できる。
【新聞紙条例】
新聞に載せる内容を制限する命令。自由民権運動に賛同する内容は基本的に禁止とされた。
大久保にはめられた板垣退助は10月に政府から離脱。一方の愛国社は、1877年に起こった西南戦争に関与した者がいたことで、政府に目をつけられ解散状態に。
西南戦争の真っ最中である1877年6月、高知の立志社は立志社建白と呼ばれる意見書を政府に提出しますが受け取りを拒否され、「立志社から西南戦争に加担した者がいる!」として立志社のトップである片岡健吉らが逮捕される事態まで起こっています。
こうして愛国社・立志社ともに活動不能となり、自由民権運動は一時下火となりました。
【朗報】自由民権運動、勝利する
西南戦争が終わった後、自由民権運動は不死鳥の如く息を吹き返します。
西南戦争の戦費負担のため、明治政府が次々と増税政策を実施すると民衆の不満が爆発。西南戦争で薩摩が敗北したことで、「力では政府に対抗できない」とみんなわかっているので、民衆の不満は全て自由民権運動に吸収されることになります。
1878年に愛国社が復活して集会を開きます。すると、それまで西日本の士族が中心だったメンバーの中に、農家の人々や東日本の人々など、多くの人が集まるようになります。中には地方の有力者まで参加していました。
1880年3月、勢いに乗る愛国社は組織の名前を国会期成同盟へと改め、新しい組織として生まれ変わります。もちろん国会開設を今まで以上に強く政府に要求するためです。
国会期成同盟は大量の著名を集め、政府に対して国会開設を要求するも、立志社建白に続いてまたしても政府は受け取りを拒否。
1880年4月、明治政府は国会期成同盟が結成されるとすぐに、集会条例を制定してその動きを制限しました。
【集会条例】
政治に関する集会や結社を禁止する命令。自由民権運動のために民衆が団結するのを防ごうとした。
劣勢に立たされる自由民権運動ですが1881年、転機が訪れます。自由民権派の新聞社が、北海道の利権をめぐる汚職事件(北海道開拓使官有物払い下げ事件)を暴いたのです。
これに人々はブチギレ。自由民権運動は一気に勢いを取り戻します。しかも、この北海道の利権をめぐって、政府内でも伊藤博文と大隈重信が対立していました。
「政府に不利な事件を新聞社にリークしたのは、政治的に不利に立たされていた大隈重信なのでは?」
なんて噂も広まり、統一を欠いた明治政府は自由民権運動を抑えることができません。
自由民権運動を抑えたいが、内紛続く政府にこれに対抗する手段はない。
・・・ならば、いっそ政府側から国会を開設することを公式に断言してしまおう。そうすれば批判は収まり、政府が主導権を握ったまま国会開設の準備を進めることができよう。
あと、混乱の原因になった大隈重信はクビな。
こうして1881年10月、国会開設の勅諭が出されました。
国会開設に向けて・・・
大久保に騙されて以来影の薄かった板垣退助は、国会開設の勅諭と同じ1881年10月、自由党を設立します。目的は大きく2つ。
国会開設が確定すると、政府をクビになった大隈重信も動き始め、1882年にはイギリス流の国会を目指して立憲改進党を設立。
勢いに乗る自由党ですが、1884年に内部分裂によって解散してしまうことになります。
自由党が、「政府と接近しようぜ派(穏便派)」と「勢いに乗って政府に対抗しようぜ派(過激派)」の2つの勢力で対立してしまったんです。
このうちの過激派が各地で警察とトラブルを起こすと1884年10月、自由党の幹部らも党を制御しきれなくなり、解散に追い込まれることになります。
- 1882年11~12月福島事件
福島県の大増税にブチギレた人々が政府に抵抗するも鎮圧される。
- 1884年5月群馬事件
貧困に苦しむ農民たちが高崎市に集まる大臣たちを襲撃しようとした事件。未遂に終わるも、関係者の多く処罰される。
- 1884年9月加波山事件
過激派が栃木県庁で爆破テロを実行しようとするが、製造中の爆弾が爆発して失敗。加波山に立てこもり抵抗するが、鎮圧される。
- 1884年10月自由党解散
- 1884年10~11月
貧困に苦しむ農民たちが「困民党」と呼ばれる組織を作って反乱を起こすも、政府に鎮圧される。過激派の抵抗の中でも最も大規模なものとなった。
戦いの場は国会へ
1889年、ついに東アジアで初の憲法となる「大日本帝国憲法」が完成します。
1890年には憲法に基づく日本で初めて(東アジアでも初めて)の国会が開かれます。
結局、大日本帝国憲法では政府が望んだドイツ流の国会方式が採用されました。つまり、国会は開設されたけど国会の持つ権力は大きく制限されていたということ。
自由民権派は1890年に板垣退助が中心となり、次は立憲自由党を立ち上げ、国会に臨むことになります。
この国会開設によって、自由民権運動は役目を終えることになります。しかし、民意反映(民主主義)を目指す戦いが終わったわけではありません。自由民権運動は形を変え、次は「国会での討論」という形で政府と戦い続けることになります。
大正時代になると「大正デモクラシー」と呼ばれる民主主義を目指す運動が活発になりますが、次第に軍部(陸軍・海軍)が政治に介入するようになり、議会は無力化。太平洋戦争が始まると民衆に対して厳しい統制が行われて民主化の動きは力を失いますが、戦争に負けるとアメリカ主導で日本の民主化が進められ、今の日本に至ります。
自由民権運動の年表まとめ
最後に、自由民権運動を年表でまとめておきます。
- 1874年1月板垣退助、愛国公党設立。民撰議院設立の建白書を提出
愛国公党はすぐに解散へ・・・。
- 1874年4月板垣退助、高知で立志社を立ち上げる。
立志社の初代トップは片岡健吉。
- 1875年1月大阪会議
板垣退助が明治政府のボスである大久保利通と会合。国会開設について口約束を得る。(後に約束は破られる)
- 1875年2月板垣退助、愛国社を設立
各地の民権運動組織を束ねる組織として設立。愛国社の設立により、全国が一致団結した自由民権運動が可能に。
- 1875年4月漸次立憲政体樹立の詔
憲法制定に向けた天皇の宣言。国会開設の話がないため、板垣退助は失望する。
- 1875年6月讒謗律と新聞紙条例が制定
- 1877年西南戦争起こる
西南戦争に関与したとして愛国社、立志社は解散に追い込まれる。
立志社は解散前に、国会開設を政府に要求する立志社建白を提出するも政府に無視される。
- 1878年愛国社復活!
- 1880年3月愛国社を国会期成同盟へ変更!
国会開設に向けて政府に大量の著名を集めた意見書を提出するが無視される。
- 1880年4月集会条例が制定
- 1881年夏政府の汚職事件(北海道開拓使官有物払い下げ事件)
自由民権運動がその政府に攻勢をかける。汚職をめぐって内部分裂していた明治政府は自由民権運動に対抗できず、運動を和らげるため国会開設を検討
- 1881年10月国会開設の勅諭
1890年に国会が開設されることが確定。板垣退助は、将来の国会開設に向けて政党の自由党を設立。
同時に政府分裂の原因の一人だった大隈重信が政府から追放される(明治十四年の政変)
- 1884年10月自由党、内部分裂により解散
同じ頃、自由民権運動で最大となる暴動(秩父事件)が起こる。
- 1887年民権派による三大事件建白運動が起こる
政府の外交の失敗を機に民権派の政府批判が強まる。政府は保安条例を出して、民権派と東京から追放。
「三大事件」とは、「地租の減税」「言論・集会の自由」「外交失敗の挽回」と言う3つの要求のこと。
- 1889年大日本帝国憲法、完成!
国会は設けられたが、その権限には強い制限が・・・。
- 1890年日本初の国会が開かれる
自由民権派は立憲自由党を設立し、国会討論に臨む。
以後、民意反映を求める場は自由民権運動から国会へと移っていく。
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