サンフランシスコ平和条約を簡単にわかりやすく解説【内容と時代背景をバッチリ抑える!】

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サンフランシスコ平和条約
もぐたろう
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今回は、1951年に結ばれたサンフランシスコ平和条約について、わかりやすく丁寧に解説していくね!

この記事を読んでわかること
  • サンフランシスコ平和条約ってなに?
  • サンフランシスコ平和条約はなぜ結ばれたの?
  • 「単独講和」と「全面講和」ってなに?
  • サンフランシスコ平和条約はどんな内容だったの?
  • サンフランシスコ平和条約が結ばれた結果、日本はどうなったの?
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サンフランシスコ平和条約とは

歴史とは常に決断と選択の連続です。

そして、その選択の結果が国家の運命を大きく左右します。

日本にとって、その大きな決断と選択の1つで、その後の日本の歴史に大きな影響を与えることになったのが1951年に結ばれたサンフランシスコ平和条約でした。

サンフランシスコ平和条約は、連合国を構成する国々と日本との間に結ばれた条約。

1951年9月、アメリカのサンフランシスコで結ばれました。

※条約の正式名称は「日本国との平和条約」ですが、日本では条約が結ばれた場所にちなんでサンフランシスコ平和条約と呼ばれています。

サンフランシスコ平和条約によって、GHQ占領下に置かれていた日本は独立国家として主権を回復することが認められ、国際社会へと復帰することができるようになりました。

もぐたろう
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今の日本が独立国家として成立しているのは、サンフランシスコ平和条約があったからです。まさに日本の運命を大きく変えた条約と言えます。

現代日本の成り立ちや外交政策を知る上で、サンフランシスコ平和条約は絶対に知っておきたい条約ですので、この記事を読んで、バッチリ理解しておきましょう!

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サンフランシスコ平和条約が結ばれた時代背景

サンフランシスコ平和条約が結ばれた時代背景を理解する上で重要なキーワードは2つ。

GHQによる日本占領」と「冷戦」です。それぞれ解説していきます。

GHQによる日本占領

GHQの組織図

1945年8月、広島・長崎への原爆投下、そしてソ連対日参戦によって、日本はポツダム宣言を受け入れて連合軍に降伏しました。・・・つまり、日本は太平洋戦争に敗れたのです。

敗戦した日本はGHQの占領下に置かれ、日本の民主化・非軍事化に向けた改革(五大改革)が進められました。

もぐたろう
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連合国は、日本を再び戦争を起こさない国に改革し、アジア太平洋地域を安定化させたい・・・と考えていたんだ。

GHQは、日本の占領期間を明確にしていませんでした。

・・・が、1949年には五大改革がおおむね完了して、日本の民主化・非軍事化に目処がつくと、連合国たち(主にアメリカ)の間で『そろそろ日本と講和条約を結んで、日本を独立させてもいいんじゃね?』という議論が活発になっていきました。

冷戦

この議論の中で、連合国の一員であるアメリカとソ連の意見が真っ向から対立します

GHQの日本占領政策は、アメリカ主導で行われていました。なぜなら、太平洋戦争はそのほとんどが日本VSアメリカの戦争であり、日本に勝利できたのはアメリカのおかげだったからです。

なので、日本独立に向けた議論もアメリカの意向が色濃く反映されたものでした。

・・・このアメリカ主導のやり方にNO!を突きつけたのがソ連です。

当時、アメリカとソ連は冷戦中だったため、アメリカにとって有利な条件で講和条約が結ばれてしまうことをソ連は嫌ったのです。

冷戦とは

冷戦とは、第二次世界大戦の後に起きたアメリカVSソ連の戦いのこと。

アメリカとソ連が直接戦火を交えることがなかったので、冷たい戦争・・・略して冷戦と呼ばれるようになりました。

冷戦の影響は東アジアにも及びました。

1949年、中国国民党VS中国共産党の内紛状態が続いていた中国で、中国共産党が勝利し中国を統一。新たに中華人民共和国を建国し、ソ連に接近するようになりました。

中華人民共和国の建国宣言をする毛沢東
中華人民共和国の建国宣言をする中国共産党トップの毛沢東もうたくとう

さらに1950年、朝鮮半島をめぐってソ連派の北朝鮮VSアメリカ派の韓国による朝鮮戦争が勃発。

こうして東アジア一帯が冷戦の波に飲み込まれていきました。

もぐたろう
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日本も冷戦と無関係でいられるわけがなく、日本独立をめぐってソ連とアメリカが外交の場で激しく争いを続けていたってわけだね。

結局、連合国メンバーの意見を一致させることは不可能とみたアメリカは、連合国すベてと日本が講和を結ぶ全面講和を諦め、

ソ連を無視してアメリカに賛同する国々だけが日本と講和を結ぶ単独講和へと方針を切り替えることにしました。

アメリカ
アメリカ

このままでは東アジア一体がソ連の影響下に飲み込まれてしまう・・・。

日本には一刻も早く独立してもらい、アメリカの味方としてソ連に対抗しうる国になってもらわなければな!

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単独講和と全面講和

1950年、日本とアメリカの間で、講和条約の内容についての外交交渉がスタートします。

交渉そのものは比較的スムーズに進んだものの、日本国内では全面講和を望む意見も多く、世論が2つに分かれました。

全面講和を望んでいたのは、主に知識人たちとソ連に思想が近い日本社会党・日本共産党でした。

知識人の中には、「日本と戦ったすべての国と講和条約を結ばなければ、日本に完全な平和は訪れない」と全面講和を支持する者が多くいました。全面講和派の有名な人物として、当時東大の総長だった南原繁なんばらしげるがいます。

全面講和を主張した東大総長の南原繁
政府に異論を唱えた南原繁

確かに理想は全面講和だったかもしれません。・・・しかし、現実に目を向ければ冷戦下でソ連とアメリカの意見が一致することは不可能な状況でした。

一方の日本社会党・日本共産党は、ソ連の意見が全く反映されないやり方(単独講和)に反対し、全面講和を支持しました。

・・・が、日本社会党の中には「まぁ世界情勢的に、単独講和だったとしても受け入れるしかないんじゃね?」という意見もあり、サンフランシスコ平和条約が結ばれた1ヶ月後の1951年10月、日本社会党は意見の違いから2つに分裂してしまいました。

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サンフランシスコ平和条約の内容

1951年9月、ついにサンフランシスコに日本と連合国の国々の代表たちが集まり、講和に向けた話し合いが行われました。

※講和:争っていた国同士がお互いに終戦したことを認めて仲直りし、平和を確認すること。

そして、1951年9月8日、次のような内容で連合国48カ国と日本の間で講和条約が結ばれました。この講和条約のことを、サンフランシスコ平和条約と言います。

サンフランシスコ平和条約の内容
  • 1.日本は、独立国として主権を回復する。
  • 2.日本の交戦国に対する賠償金は、日本の苦しい経済事情を考慮して基本的になしでOKにするよ。
  • その代わりとして・・・、
  • 3.日本は賠償責任として、交戦国に対してお金以外のさまざまな援助(役務供与)を行うこと。賠償の具体的な内容は、日本と交戦国が個別に協議して決めること。
  • 4.日本は極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決結果を受け入れ、他国に対して損害賠償を求めないこと。
  • 5.日本は、朝鮮・台湾・南樺太・千島列島などの領土を放棄すること。
  • 6.小笠原諸島、南西諸島(沖縄周辺の島々)はアメリカの信託統治とする。
  • 7.日本にいる連合軍は撤退する。ただし、日本と連合国の一員が個別に協定を結べば、日本国内に外国が軍を置いてもOK!
もぐたろう
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要約すると『日本の主権回復を認めて賠償金を免除してあげるけど、その代わり日本の領土を厳しく制限するから条件を受け入れてね!』というのがサンフランシスコ平和条約の内容です。

大事なところをピックアップして解説していきます。

賠償の話

日本の賠償責任は、賠償金を免除されたことで負担が大幅に軽減されることとなり、日本にとっては破格とも言える条件でした。

なぜこんな日本に有利な条件になったかというと、「日本をいち早くソ連・中国に対抗できる国に成長させて冷戦を有利に進めたい!」というアメリカの思惑があったからです。

アメリカは、重い賠償責任を課すことで日本が経済発展できず、ソ連に飲み込まれてしまうことを恐れたのです。

しかも、サンフランシスコ平和条約では「日本の交戦国への賠償は役務供与で行い、その内容は個別に協議して決める」とありますが、実際には日本に対して賠償を求める国は多くありませんでした。

これも、多くの国が「冷戦を有利に進めるため、日本への負担は極力減らそう!」と考えたからです。

もぐたろう
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良いか悪いかは別として、日本は冷戦のおかげで、破格の賠償条件を受けることができたんだ。

賠償負担が軽かったことは、戦後の日本が凄まじいスピードで復興できた一因にもなったよ。

戦場となった東南アジアの国々

賠償負担が軽くなったとはいえ、決して賠償をしなかったわけではありません。

特に主戦場になった東南アジアのフィリピン・インドネシア・ビルマ・南ベトナムに対しては、日本は後に個別に協定を結び、賠償責任を負うことになりました。

領土の話

賠償責任と違って、領土問題は厳しい処分が行われました。

日本は、すべての植民地(朝鮮・台湾)を失い

北方では南樺太と千島列島を失い、

南方では日本が独立を果たした後も、小笠原諸島と沖縄周辺の島々(南西諸島)は引き続きアメリカの占領下に置かれることになりました。

サンフランシスコ平和条約に定められた日本の領土領域
もぐたろう
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地図を見てみると、サンフランシスコ平和条約で決められた日本の領土は、今の日本の領土の原型になっていることがわかるね!

外国軍隊の駐屯・駐留

サンフランシスコ平和条約によって主権を回復できたという点は、日本にとって良い話です。

・・・が、その一方で、主権を回復したがゆえに日本は大きな問題に直面することになります。

その問題というのが

連合軍が日本から兵を引き上げた後、どうやって日本を外敵から守るのか?

という問題です。

日本は敗戦後、GHQにより軍隊を解体されていたため、敵から身を守る術を持っていなかったのです・・・。

日本とアメリカは、この問題について事前に協議を行い、最終的に「引き続きアメリカ軍が日本に残って日本を守る!」という方針が決まりました。

アメリカ
アメリカ

日本を丸裸のまま放っておいたら、日本はあっという間にソ連・中国に飲み込まれてしまう。そうなったら日本を独立させた意味がなくなってしまう。

・・・しょうがない、しばらくの間、アメリカが日本を守ってやんよ!

日本
日本

確かに今の日本には自国を守る力はない。悔しいがアメリカに頼るほかないだろう・・・。

そんな裏事情があったので、サンフランシスコ条約では、「日本にいる連合軍は撤退する」という条件の後に「ただし、日本と個別に協定を結べば、日本国内に外国の軍を置いてもOK」なんていう例外が加えられることになりました。

サンフランシスコ平和条約が調印されたのと同じ日(1951年9月8日)、日本とアメリカはさっそく協定を結び、日米安全保障条約にちべいあんぜんほしょうじょうやくが結ばれました。

日米安全保障条約に調印する吉田茂
日米安全保障条約に調印する吉田茂の様子

サンフランシスコ平和条約に調印しなかった国々

サンフランシスコには日本を含め52カ国が集まりましたが、その中で社会主義国家であるソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3カ国は、条約への調印を拒否しました。

さらにインド・ビルマは、サンフランシスコに招かれていたにもかかわらず、講和の場に参加することすらしませんでした。

また、中国は日中戦争の主戦場になったにも関わらず、サンフランシスコに招かれず、日本と条約を結ぶことはありませんでした。

※韓国も講和への参加を希望しましたが、戦争当時、韓国は日本の植民地であり日本と敵対関係になかったのでサンフランシスコには呼ばれませんでした。

もぐたろう
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日本は1951年以降、サンフランシスコ平和条約を結ばなかった国々と個別に外交を続け、それぞれの国と賠償や平和に関する協定・条約を結んでいくことになるよ。

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領土問題【竹島と北方領土】

サンフランシスコ平和条約で定められた日本の領土には、1つ大きな問題がありました。

・・・それは、

日本に隣接する韓国・ソ連・中国が、サンフランシスコ平和条約に調印していない

という問題です。

・・・どーゆーことかというと、いくらサンフランシスコ平和条約で日本の領土を定めたとしても、例えばソ連が「俺は条約に調印してないし、そんなの関係ねぇ!ここは俺の領土だ!」って言って、条約で決められた日本領の一部を実効支配し続けることも可能だったということです。

現に、サンフランシスコ平和条約が結ばれた後、大きく3つの地域で領土をめぐるトラブルが起きています。

北方領土ほっぽうりょうど択捉えとろふ島・国後くなしり島・色丹しこたん島・歯舞はぼまい群島):ロシアが実効支配中

日本は、「北方領土は昔から日本固有の領土だから、サンフランシスコ平和条約で放棄することとされていた千島列島に北方領土は含まれない!」と主張していますが、ソ連は日本を無視して北方領土を実効支配し続けています。

竹島たけしま:韓国が実効支配中

サンフランシスコ平和条約で決められた「日本は朝鮮半島を放棄する」という内容には、竹島は含まれておらず、竹島は日本領土となるはずでしたが、今もなお韓国が実効支配を続けています。

尖閣せんかく諸島:中国が自国の領土と主張

尖閣諸島は、現在は名実ともに日本領土となっていますが、中国は「尖閣諸島は中国の領土だ!」と主張しており、領土問題に発展しています。

下地図の赤色が北方領土青色が竹島緑色が尖閣諸島です。

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サンフランシスコ平和条約まとめ

ここまでの話をまとめておきます。

サンフランシスコ平和条約まとめ
  • サンフランシスコ平和条約は、日本を独立させることで冷戦を有利に進めたいというアメリカの思惑で実現した。
  • サンフランシスコ平和条約によって、日本はGHQによる占領から解放され、主権を回復した。
  • サンフランシスコ平和条約は、単独講和だった。
  • サンフランシスコ平和条約で日本の賠償責任と領土が決められた。
  • サンフランシスコ平和条約と同時並行で、日本とアメリカの間で日米安全保障条約が結ばれて、引き続きアメリカ軍が日本に残ることになった。
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この記事を書いた人
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教育系歴史ブロガー。
WEBメディアを通じて教育の世界に一石を投じていきます。

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コメント

  1. キノコレディ より:

    恥ずかしながら私は(学校の授業をほとんど聞かず…)歴史を全く知らなかったのですが、このサイトの記事はとてもわかりやすいし、楽しいです。順に読ませていただきます。

    「単独講和と全面講和」の節に誤字?があるようです。
    >全面講和を望んでいたのは、主に知識人たちとソ連に思想が違い日本社会党・日本共産党でした。
    誤 …ソ連に思想が違い…
    正 …ソ連に思想が近い…

    • もぐたろう もぐたろう より:

      当サイトをご覧いただきありがとうございます。歴史の学びに当サイトを少しでも役立てていただければ幸いです。
      誤字のご指摘ありがとうございます。修正いたしました。