中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【改新の詔】2/2

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乙巳の変により邪魔者蘇我氏を排除した中臣鎌足と中大兄皇子。

孝徳天皇主導の下、聖徳太子の時代から続く唐(聖徳太子時代は隋)に負けない新しい国づくりがいよいよ本格的に始まります。

今回の話、難しいですしかなりマニアックです。省略しようとも思いましたが、大化の改新の目玉となる施策なので、書くことにしました。

それでも気になる!という方はどうかお付き合い願います。

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政治改革の方針を発表!改新の詔

大化の改新に当たり、まず4つの大きい方針が示されました。

  1. 従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘を廃止する。

  2. 初めて京師を定め、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬の制度を設置し、駅鈴・契を作成し、国郡の境界を設定することとする。

  3. 初めて戸籍・計帳・班田収授法を策定することとする。

  4. 旧来の税制・労役を廃止して、新たな租税制度(田の調)を策定することとする。

この4つを目標に政治改革を進めていくわけです。今でいうマニフェストのようなものです(当時は民主主義じゃないので若干違いますが・・・)

4つの方針はすべて、天皇を中心とした国づくりを目指すもので主に地方行政改革の実施を目標としています。

※改新の詔は、奈良時代初期に後付けで作られたというのが有力です。なぜなら、当時は第2条中の「国司」「群司」という言葉はなかったからです。しかし、これに類する何らかの改革はあったと考えられています。

これらの施策は、唐の影響を大きく受けたものです。1つ1つ解説していきます。

当時の日本の統治機構を知ろう

まずは、当時の日本の統治機構について説明しなければなりません。

今でいう日本ー都道府県ー市区町村のような関係です。

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日本の統治機構は上図のような構図となっていました。これだけ見ても意味不明ですが、説明していきますので大丈夫です!

国造(くにのみやつこ)は県知事

まずは、国造について。国造は今でいう県知事的なポジションだと思ってください。

国造の読みは、「くにのみやつこ」これは国の奴(やっこ)に丁寧語の御(み)を付けた言葉です。要は、国造は国の下位に位置し、国に従う存在であるということ。この辺が県知事とは違うのですが、わかりやすいので県知事のイメージでいいのかなぁと思います。

国造は、地元の有力豪族が担うことが多かったようです。これは、国造の下にいる伴造らをまとめるには地元の有力者が一番適任だったからです。

伴造(とものみやつこ)は市町村

伴造は、国造の命を受け、民衆(部、名代・子代)をまとめる役割を担っています。また、朝廷へ渡す貢物(特産品や人、農作物など)を徴収する任務も持っていました。

屯倉(みやけ)は国からの派遣官僚

屯倉は、天皇からの命を国造に伝える伝令役であり、国造が勝手なことをしないよう監視する監視役でもあります。屯倉の人々は、朝廷のあった畿内から地方へ派遣されてきた官僚です。

部(べ)、名代・子代は民衆

部や名代・子代は貢物の単位を構成する民衆の集団を言います。名代・子代は、天皇家への貢物を行う集団のことを言います。

例えば、上の図で見ていくと、

A部からの貢者は△×氏へ、

名代・子代の貢物は天皇家の××皇子へ

といった感じです。

天皇が抱えていた統治機構の深刻な問題

上で説明した日本の統治機構。ここに日本が抱える深刻な問題が潜んでいました。

有力氏族による一大勢力

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この図の左上の「△×氏」と「○□氏」、ここが大きな問題でした。これらの氏には強大な権力を誇った蘇我氏も含まれます。

この構図では、「天皇→屯倉→国造→伴造→A部・B部」ルートで一応は天皇が民衆を統治している仕組みとなっていますが、実際は、「△×氏→伴造→A部」ルートのほうが強かったのです。

そもそも天皇ルートは、古墳時代から続く有力豪族の連合体として成立していた日本が、中国等の影響を受けて、天皇中心の国づくりをするために後付けで作られたものでした。

この統治機構の本来の起源は、有力豪族が構成していた巨大集落なのです。

これが、天皇を中心とした国づくりを目指す日本にとって大きな障壁となっていました。そして、このような統治機構が残り続ける限り、再び蘇我氏のような強大な権力を持ち、天皇を脅かすような氏族が誕生しかねません。

この統治機構にメスを入れるには、蘇我氏の没落した乙巳の変の後は絶好のタイミングだったのです。

統治の及ばない地方の有力一族

上で説明した有力氏族ような問題が、地方でもありました。

雄略天皇の頃から続けられた地方の征服。

古今東西、侵略戦争を行い勝者となった場合、その土地をどう統治していくのかという問題があります。これは日本に限った話ではありません。

日本の古墳~飛鳥時代の場合、征服地に住む人々の反発が強いため、征服地の統治は戦争で負けた豪族に任せる仕組みをとっていました。

反発が強かったのは、八百万の神を信仰する日本の国民性も影響しています。地域ごと地域ごとに神様がいるため、住む土地の神を信仰する人々にとって外部の人間がいきなり入り込み、無礼な振る舞いをすることは許されないことだったのです。

もちろん、豪族に任せっきりでは統治はできません。そこで屯倉を置くことにしました。地方の統治自体は、負かした豪族を国造とすることで行い、その監視を屯倉で行います。

天皇は、地方を統治するにあたり、地方豪族の権力に頼らざるを得ない状況に立たされていたのです。

地方行政にメスを入れる!評(こおり)の設置

これらの問題を解決するため、乙巳の変の後、天皇になった孝徳天皇や中大兄皇子らは、国造や伴造を廃止することにしました。

その代わり、今まで国造らが統治していた地域を強い豪族勢力が形成されにくいよう分割・再編し新しい組織を作りました。

再編成された新たな行政単位のことを評(こおり)と言います。

これにより、地方豪族の力は抑えられることとなり、天皇統治がスムーズに行われるようになります。

評を設置されて困るのが地方の有力豪族。強い反発の声があったのだろうと推測できますが、評の設置はまずまず順調に進んだようです。

評の設置は、改新の詔の第1条・第2条の方針に該当するものです。

氏族にメスを入れる!部(べ)の廃止

評の設置に合わせて、部も廃止されました。部は有力氏族のいわゆる財源に当たります。

部はすべて評に統合する代わりに氏族へは国から人や物を支給から安心してね!というわけです。

財源を奪われる氏族は、これに猛反対。結局、これまでどおり氏族たちは部を持ち、人々を従えても良いけど、その人数などに制限を設けるという妥協案が採られることとなりました。

ちなみに、改新の詔の3と4が実現するのはまだまだ先の話になります。乙巳の変の後、日本は確実に新しい国づくりを進めていきました。

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