今回は、743年に聖武天皇が出した大仏造立の詔についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
大仏造立の詔が出された理由
大仏造立の詔は、簡単に言ってしまうと「大仏造ろうぜ!」って話なのですが、なぜ聖武天皇は大仏を造立しようと思ったのでしょうか?
その答えは「政治が全く上手くいかなくなり、仏教に頼るしかなくなってしまったから」でした。
というわけで、聖武天皇の挫折の歴史と仏教にハマる過程を時系列で整理しておきます。
約10年の間で、エリート部下の死・大地震・疫病・部下の反乱と国は大きく乱れました。聖武天皇は、これを「私には徳が足りないせいだ」と自分を責め、自らの無力さを悟りました。
740年に藤原広嗣の乱が起こった頃、聖武天皇は災が多過ぎる平城京からの遷都を決意します。(この頃から、聖武天皇は何かに吹っ切れたかのように大胆な行動をするようになります)
それと同時に、自らの無力さを悟ると「仏教によって国を守る」という仏教の教えを深く信じるようになりました。(もともと聖武天皇は仏教の教えを大切にしていました)
大仏造立の詔の内容
自分の力に失望していた聖武天皇ですが、それとは裏腹に大仏造立の詔は自信に満ち溢れた輝かしい内容となっています。
仏教を深く信仰することで自信を取り戻したのでしょうかね・・・。
大仏造立の詔はこんな内容でした。
とても強気な内容です。自信のない人が「天下の富や権勢をもつ者は私である」なんて言えませんよね。
ただ、実際の大仏の造立作業は聖武天皇が言うほどスムーズには進まず、作業は難航することになります・・・
大仏造立の救世主、行基
大仏造立で大きな問題になったのは、人手不足です。
大仏は皆の自発的な気持ちによって造りたいから、役人は強制的に働かせてはならぬ・・・!
と豪語したものの、庶民たちは日々の生活だけでもいっぱいいっぱい。大仏造立どころではなかったのです・・・。
自発的に手伝ってほしいなら、まずは、重たすぎる税金をなんとかしてくれませんかねぇ・・・。
この時、大仏造立の救世主として登場したのが行基と呼ばれる僧侶でした。
行基は、各地を渡り歩き布教活動やボランティア活動を続けていた僧侶。その人望は凄まじく、「行基が村に来たら、みんなが行基のところへ集まるせいで村に誰も人がいなくなってしまった・・・!」なんて逸話が残っているほど。
聖武天皇が行基に大仏造立に参加するよう懇願すると、行基はこれに応じました。
行基「聖武天皇の仏教に対する熱い想い。私は大変心を打たれました。ぜひ協力させてください」
行基が大仏造立に参加するということは、行基を慕う多くの民衆たちもこれに参加すると言うこと。
うぉぉぉぉぉ!!!
行基様のためなら、手伝ってやるぜぇぇぇぇぇ!!!
行基には人望に加えて、各地のボランティア活動で橋や小屋などを建設したノウハウもあり、人手不足で滞っていた大仏造立は超スピードで進むことになります。(まさに大仏の救世主・・・!!)
大仏は752年にひとまず完成して、大仏開眼供養会と呼ばれる儀式が行われました。
・・・が、最大の功労者であった行基は既に亡くなっており、その完成を見ることはありませんでした。
行基よ、本当にありがとう。
もしそなたが生きていれば、大仏開眼供養会の主役はあなたであったのに・・・。
紛らわしい国分寺建立の詔と大仏造立の詔
最後に少しだけおまけ話を。
743年の大仏造立の詔と似た出来事に、741年の国分寺建立の詔があります。
国分寺建立の詔は、すでに紹介していますが「各地に金光明経を納める寺院を建てようぜ!」という宣言です。
そして、各地に建立する国分寺の総本山だったのが今も奈良市にある東大寺でした。
その国分寺の総本山(東大寺)に「総本山にふさわしい超でっかい仏像作ろうぜ!」って宣言したのが大仏造立の詔です。(最初は紫香楽宮に大仏を造立予定でしたが、後に東大寺に改められました。)
まとめると大仏造立の詔と国分寺建立の詔の関係はこんな感じです。
国分寺建立の詔(741年)によって建てられた国分寺の総本山に、総本山にふさわしい巨大な大仏を造立したのが大仏造立の詔(743年)
合わせて聖武天皇の生涯について書いた以下の記事も合わせて読んでみると、面白いと思います。
コメント
[…] (参照元:大人になってから学びたい日本の歴史:大仏建立の裏話が興味深いです) […]
大変興味深い内容でした。冬休みの宿題の参考にさせていただきます。
あと、最後の行の内容ですが「聖武天皇の障害」ではなく「聖武天皇の生涯」だと思います。