学校では教えてくれない行基の話-東大寺大仏造立へ-【聖武天皇】4/4

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前回は、日本初の怨霊となった藤原広嗣の話をしました。

聖武天皇は、長屋王の変、天然痘の流行、そして藤原広嗣の乱と続く世の乱れに辟易してしまい、まるで逃げるかのように仏教の世界にのめり込んでいきます。

そして遂に743年、聖武天皇は大仏造立を決意します。

今回の主役は、行基(ぎょうき)という僧侶さん。行基は大仏造立の実働部隊のリーダーであり、大仏造立の立役者です。

行基の活躍は、なぜか教科書には載ってません(名前は載ってるけど)。もっと載っててもいいのに・・・。

行基についてもっと多くの人に知ってもらいたい!!ということで今回は、行基の話です。

行基って誰?という方は、ぜひご一読していただけると嬉しいです。

行基のことを知ると奈良時代の闇の一面を垣間見ることができます。

大仏造立の詔から見える聖武天皇の闇

743年、聖武天皇は大仏造立の決定に際し、かの有名な大仏造立の詔を出しますが、その中で聖武天皇はこんなことを言っています。

世の中の富はすべて私のものであり、世の勢いというものもすべて私の手中にある。そして、そのすべての富と権勢をもって大仏を造立したいと思う。

なんという傲慢でしょうか。

さらに、こんなことも言っています。

仏の教えを会得し、皆が幸せになるため、毎日3回造立途上の大仏を拝み、仏さまへの感謝の気持ちを忘れないでほしい。そして大仏の造立について皆で協力しようではないか。大仏造立には自発的な助けが必要であるから、国司は民に助力を強制してはならぬ。

ただでさえ重い税で苦しむ民たちです。ボランティア精神で大仏造立を手伝うような余力などありません。

結局、大仏造立の経費ねん出のため、増税がなされました。平城京では、負担に耐えれなくなった民たちが浮浪者となり、餓死する者も後を絶ちません。言ってることとやってることが全然違います(怒

聖武天皇が良かれと思い行ったことですが、大仏造立は民を苦しめるだけでした。

仏教にのめり込むあまり、現実が一切見えなくなった聖武天皇。政教分離の大切さが改めてわかるのが聖武天皇の時代だと思います。

人手が足りない!行基の登場

もちろん、そんな悲惨な状況ですから、大仏造立には人手が足りませんでした。

そこで、聖武天皇は行基に着目します。

大仏造立の詔を発表してからわずか4日後、行基の下に「大仏造立にご尽力お願いできませんでしょうか・・・?」と勧誘が来ました。行基がそれだけ頼りにされる存在だったことがわかりますね。

ところで、そこまで頼りにされる行基とは一体どんな人物なのでしょうか?

弾圧される行基、国家統制された仏教

行基は、僧として民衆に密着した仏教の布教を行っていました

行基には溢れるような強い人望があり、行基は民衆から崇拝され、行基に従う者も増えていきます。そうするうちに、次第に行基は集団行動を行うようになり。布教だけではなく、慈善事業にも力を入れていきます。

民衆から見た行基は、布教に加えて生活を助けてくれるまさに聖人だったのです。

そんな行基ですが、なぜか国から「民に妖言し、扇動しようとしている!」と弾圧されてしまいます。

めちゃいいことしてるのになぜ!?

そこには、「仏教が国を護ってくれる!」という鎮護国家の思想に基づき制定されたとある法律がありました。

僧尼令(そうにりょう)

国は、淫らな振る舞いをする僧などを排除し、国を守るのに相応しい正しい教えを身に着けた僧のみを正式な僧として認めようと考えました。

そこで生まれたのが、僧尼令です。

僧侶は、本来、ある特定の宗教集団からの承認を得て初めてなれるものでしたが、僧尼令により、国が認めなければ僧侶になったら駄目!ということになりました。

行基は国から正式な僧侶と認められませんでした。にもかかわらず僧として活動していたため、「民衆を扇動する不当な輩だ!」と弾圧されてしまうのです。

行基のように国から許可されずに僧侶となったものを私度僧(しどそう)と言います。

でも、思いませんか?

僧のお手本ともいえる存在の行基。正式な僧侶と認めればいいじゃないですか。

それが、できなかったんです。理由はです。

奇麗ごとをいくら言っても所詮世の中金である

当時、僧侶の身分を得た者は、重い税の負担を免除されました。ということは、行基を正式な僧侶と認めるということは、国の収入減を意味します。

行基だけなら正式な僧侶として認められたかもしれません。しかし、行基は自分を慕ってくれる人々を私度僧として多数引き連れています

行基を僧として認めるということは、引き連れている多数の人々をも認めなければならないということ。

そのため、国としては、行基を僧として認めることは到底できるものではありませんでした。仏教によってまさに民を救っている行基が認められないとは、所詮世の中は金なんですね・・・。

しかし!!行基は、民衆からの圧倒的な支持の下、弾圧に屈することは決してありませんでした。自分の信念を曲げずに仏教の布教と生活を豊かにするための慈善事業を続けていきます。

その人気は、行基が各地に赴くと民衆が争って集まるので街に人がいなくなってしまうほどだったと言われています。凄すぎる・・・。

戦わずして勝った行基

行基は、支持者を増やし続け、慈善事業を拡大していきます。慈善事業は主にインフラ整備が中心であり、橋の建設などのほか、国が税収を増やすため積極的に推奨していた田畑の開発にも多大な貢献をしていました。

こうして行基は、国としても無視できないほど大きな存在となり、遂に、国は行基を認めない理由はないとし、正式に僧侶として認めることとなります。

正式な僧侶と認められたのち、行基は大仏造立を依頼されるほど国からも信頼される存在となっていきます。

戦わずして勝つとはまさにこのこと。なんか、清々しいですね!!

逆に国はいくらなんでも自分勝手すぎる!!

大仏の完成と行基の逝去

そんな行基の協力も得て、大仏造立は着々と進められていきます。大仏は752年に完成します。743年から数えて9年間の長期に渡る事業でした。

いつも多量の民衆を従える行基は、造立の依頼を受けると凄まじいスピードで仕事をこなしたと言われています。

しかし、行基は完成した大仏を見ることなく逝去しました。749年です。

行基は、国から菩薩の諡号(しごう。死後の贈り名)を与えられ「行基菩薩」と言われており、「文殊菩薩の化身である!」と後世語り継がれています。

現在も行基の生家であるとされている家原寺には行基の像が建てられています。

Gyoki(bronze_statue)

大仏造立の話でしたが、ほとんど行基の話になってしまいました(汗

ちょうど、奈良の大仏が造立されている頃、日本史に名を残すことになるとある僧が唐から来日してきました。鑑真(がんじん)です。

ところで、鑑真はいったい何をしてここまで有名になったのでしょうか?次回は、鑑真の話!

次:誰でもわかる鑑真来日の感動物語【なぜ日本に戒律を伝えたのか】
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コメント

  1. […] (参照元:大人になってから学びたい日本の歴史:大仏建立の裏話が興味深いです) […]