今回は1416年に起こった上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱について紹介します。
上杉禅秀の乱は、関東で起こった久しぶりの大規模反乱です。1467年に全国を巻き込んだ大戦乱「応仁の乱」が始まりますが、実は関東地方では応仁の乱よりも早く、戦乱の時代へ突入していました。
そして、応仁の乱を先取りした関東大戦乱の序章となるのが今回紹介する上杉禅秀の乱になります。マニアックですが、当時の時代を知るには欠かせない事件の1つです。
鎌倉公方と関東管領
話を進める前に、知っておきたい言葉が2つあります。それは
の2つ。
鎌倉公方とは
鎌倉公方は、関東一帯の統治や監視を室町幕府から任された鎌倉府という組織のトップです。
鎌倉時代は、鎌倉に幕府があったのでこんな組織はありませんでした。逆に京を監視する必要があったので六波羅探題が京に置かれます。
しかし、室町幕府は幕府を京都に置いています。だから、鎌倉時代とは逆に関東を統治する組織が別に必要だったのです。
世襲制であり、代々足利家の分家が就任しますが、足利宗家(将軍家)と次第に対立するようになります。分家と宗家の仲が悪いのは世の常です。
関東管領
関東管領は鎌倉公方を補佐する役職です。これも世襲で上杉氏という一族が担当していました。
上杉氏も一族内で関東管領の地位を巡って対立が続いていて、「山内上杉家」と「犬懸上杉家」という2つの家柄で揉めていました。
ちなみに、乱の名前になっている上杉禅秀は犬懸上杉家の人間です。
足利持氏「上杉禅秀はウザいから関東管領クビな」
関東管領の任命権は、鎌倉公方が持っています。つまり、山内VS犬懸の大事なポイントは「いかに鎌倉公方と密接な関係になれるか」にありました。
ところが、関東管領だった上杉禅秀は、鎌倉公方である足利持氏(あしかがもちうじ)が若かったため、持氏に対して多くの意見を言うようになりました。しかし、持氏が成長するとそれが目障りとなり、上杉禅秀を関東管領から解任してしまいます。これが1415年の話。乱が起こる一年前です。
話がこれだけなら良かったんですが、足利持氏は関東管領の後任に山内上杉家の上杉憲基(うえすぎのりもと)を抜擢しました。
これに上杉禅秀はブチギレ。
「ライバルの山内上杉家を関東管領にするとか、喧嘩売ってるの?わかったよ。売られた喧嘩は買ってやるよ。」(イメージです)
こうして起こった鎌倉公方の足利持氏と関東管領を解任された上杉禅秀との戦いが上杉禅秀の乱となります。
上杉禅秀の逆襲
上杉禅秀は足利持氏・上杉憲基ペアを失墜させるため、壮大なクーデター計画を考えます。
このクーデターを成功させるため、上杉禅秀は2人の重要人物と接近します。それが足利義嗣(あしかがよしつぐ)と足利満隆(あしかがみつたか)です。
足利義嗣は、四代目将軍の足利義持の弟。容姿端麗・才気煥発で、父の足利義満(三代目将軍)にも寵愛されていたのに将軍になれず、義持に対して強い不満を抱いていました。
そんな足利義嗣ですが、上杉禅秀が関東管領をクビになったニュースを知るとこんなことを思います。
足利義嗣「関東の騒乱は、俺が将軍になる野望にも利用できるのでは?上杉禅秀と組んで、まずは関東を支配し、その勢いで京に攻め込んでやろう」
早速、上杉禅秀の元へ使者を送ると、上杉禅秀もこれを承諾します。
そして次に、上杉禅秀が向かったのは足利満隆という人物のところでした。足利満隆は、鎌倉公方である足利持氏の叔父に当たります。満隆は、若い持氏を補佐する立場にありましたが、持氏が成長するにつれて冷遇されるようになります。
足利満隆は「俺も上杉禅秀みたいにウザがられて、失脚させられるのでは?」と強い不安を持っており、上杉禅秀からの誘いを受けて、クーデターに協力することにしました。
このほか、関東の情勢は非常に複雑で、当初から足利持氏に不満を持っている一族もおり、クーデター計画は非常に大規模なものとなります。
上杉禅秀の乱
1416年10月2日の夜(上杉禅秀がクビなってから約一年後)、ついに計画が決行されます。
まずは、鎌倉にある足利持氏邸を襲撃します。この時、足利持氏は「上杉禅秀は病気で寝込んでいる」という嘘情報を摑まされていたり、その日はたまたま武将たちが少ない日だったりと、めちゃくちゃ考えられた襲撃です。虚をついた襲撃により、持氏邸はすぐに陥落します。
次は上杉憲基邸ですが、ここは警備が固められていたため、若干の日数を要し、10月6日に陥落。
しかし、足利持氏、上杉憲基ともに逃げることには成功し、持氏は箱根、憲基は越後へ逃亡します。
総大将を打ち損ねはしたものの、上杉禅秀は鎌倉公方を追放し関東を支配下に納めました。お見事です。
迷う室町幕府
10月13日、京都に乱の報告が届きます。室町幕府内で、どう対処すべきか会議が開かれますが、なかなか結論が出ません。
鎌倉府は幕府の出先機関なので、そのトップの鎌倉公方を救うのが当然な気もしますが、事態は想像以上に複雑でした。というのも、室町幕府と鎌倉府の仲が微妙だったんです
足利持氏は、前々から幕府から独立するような動きをしており、幕府としては、持氏を助けるのにもためらいがあったわけです。
しかし、1416年10月末、話は大きく動きます。
足利義嗣が上杉禅秀と組んで、倒幕運動を目指していたことがバレてしまいます。
上杉禅秀の乱は、関東で起こった乱なので幕府としては少しぐらいは「対岸の火事」という気持ちがあったはずでしたが、足利義嗣が将軍位を狙っているという話によって、室町幕府も完全に当事者になってしまいます。
これを機に幕府の方針も遂に決まって、足利持氏に味方して義嗣と組んでいる上杉禅秀を潰すことになりました。
上杉禅秀の敗北
室町幕府は足利義嗣を幽閉し、越後の上杉氏(越後上杉家)と駿河の今川氏に上杉禅秀追討命令を出します。
少し補足しておくと、当時、越後上杉家は山内上杉家グループに属していました。だから、上杉憲基は越後へ逃亡したし、犬懸上杉家を倒す大義名分もあったわけです。
1417年1月1日、上杉禅秀軍と幕府軍が世谷原(せやはら)という場所で衝突します。今の横浜市瀬谷区になります。
幕府軍は八王子と武蔵から鎌倉目指して南下し、上杉禅秀は鎌倉から北上しこれを迎え撃ちますが、その場所が世谷原だったのです。
この戦いに上杉禅秀は勝利しますが、その隙を狙って駿河の今川軍が鎌倉へ侵攻してきます。
上杉禅秀は急ぎ鎌倉へ戻りますが、多勢に無勢に加え、裏切り者も現れて敵わず、足利満隆と共に自害してしまいます。
こうして、上杉禅秀の乱は平定されたわけですが、この乱は大戦乱の序章にすぎませんでした。
【悲報】関東地方、一足早く戦乱の時代へ突入
多くの人々を巻き込んだ上杉禅秀の乱は、もはや首謀者がいなくなっただけで簡単に収まるものではありませんでした。
上杉禅秀の残党は関東地方に大量に残っており、これらの人々は自らの生活や利権を守るため頻繁に反乱や暴動を起こします。これらの反乱・暴動は「一揆(いっき)」と呼ばれます。
そして、上杉禅秀の乱平定後、再び鎌倉に戻った鎌倉公方の足利持氏は、これら一揆の討伐に乗り出しますが、ドサクサに紛れて幕府と関係の深い小栗氏や宇都宮氏という一族にも戦争を仕掛け、幕府と徹底抗戦の構えを見せます。幕府側としては、やむを得なかったとはいえ、上杉禅秀の乱で持氏を助けてしまったことが裏目に出てしまったわけです。
こうして、関東には上杉禅秀軍残党、鎌倉公方派、室町幕府派と言ういくつかのグループが形成され、これに各々一族の家督争いが加わり、それぞれの勢力が目まぐるしく移り変わりながら関東地方はカオスと化します。
上杉禅秀の乱の後に続く関東の混迷は長い間続き、1438年に起こる室町幕府VS鎌倉府の戦い永享(えいきょう)の乱へと繋がっていきます。
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