滝口寺の新田義貞の首塚を訪れてみた【観光前に知っておきたい新田義貞と勾当内侍のお話】

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【新田義貞の首塚】

滝口寺にある新田義貞の首塚を訪れたので、首塚に関係するウンチク話なんかを話してみます。

 

 

滝口寺はマイナーなお寺で観光客も少ない隠れ観光スポットですが、嵯峨野らしい森の静けさを感じられる森林浴にはもってこいの場所です。京都観光は、人の多さに辟易(へきえき)することもあると思いますが、そんな時はここを訪れるときっと癒されるはず。

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新田義貞の悲しき最期

新田義貞の首塚の話ということで、新田義貞の最期について見ていきます。

 

 

新田義貞が亡くなったのは、1338年7月。北陸地方で起こった藤島の戦いという戦いで戦死しました。

 

 

当時がどんな時代だったかというと、政治の主導権を巡って後醍醐天皇と足利尊氏が激しく対立していた時代でした。そして、日本各地で後醍醐天皇派と足利尊氏派に分かれて戦いが起こっていました。新田義貞が戦死した藤島の戦いもその1つ。新田義貞は後醍醐天皇派として戦いに参加しています。

 

 

この後醍醐天皇と足利尊氏の戦いは1336年5年に起こった湊川(みなとがわ)の戦いで、足利尊氏が勝利したことで、両者の雌雄は決しました。ちなみに、湊川の戦いで後醍醐天皇側の総大将だったのが新田義貞です。

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湊川の戦いの後、後醍醐天皇は尊氏の猛攻により京に居られなくなり、比叡山に避難。新田義貞も比叡山の麓にある坂本に移り、京に侵入した足利尊氏と戦います。

 

 

・・・しかし、湊川の戦いでの足利尊氏の勝利を見て、多くの人が足利尊氏派に回ったため、もはや後醍醐天皇に勝ち目はなし。

 

 

そこで、後醍醐天皇は密かに足利尊氏と和平交渉を進めることにしました。(交渉カードとして三種の神器が使われた!)この和平交渉は成功し、1336年11月、両者は和睦することになります。

 

 

さて、これは見方を変えると新田義貞への裏切り行為とも言えます。というのも、こんな構図が成り立つからです。

足利尊氏「この戦いで悪いやつは誰だ。」

 

後醍醐天皇「うーん、私のような気もするけど、尊氏と和睦したしもう時効だよね。というわけで、悪いのは実際に戦ったのは新田義貞でいいんじゃない。」

 

足利尊氏「おk。じゃあ諸悪の根源は新田義貞な。」

 

上のやり取りはイメージですが、こんな感じで戦いの責任を全て押し付けられそうになったわけです。で、これをわかっている新田義貞は後醍醐天皇に猛抗議。3000の兵で天皇を囲んだというから尋常じゃありません。

 

後醍醐天皇「私が悪かった。だからそんな怒るなよー。お詫びじゃないけど、私はこれを機に譲位して、息子に天皇位を譲る。そしてその息子を義貞に預ける。その代わり、天皇となった息子を連れて北陸に向かい、再起の準備をして欲しい。」

 

 

後醍醐天皇はこう言って新田義貞をなだめ、新田義貞もこれに了承し、北陸へ向かいました。

 

 

しかし!!1336年12月、後醍醐天皇は足利尊氏との和睦も新田義貞との約束も破って、吉野の地で「私こそが正統な天皇である」と宣言します。無茶苦茶ですよねwwでも、これが後醍醐天皇という男なのです。ちなみに後醍醐天皇のいる吉野は、「南朝」と呼ばれこの宣言により南北朝時代が始まります。

 

 

 

さて、新田義貞は後醍醐天皇に裏切られ形です(諸説あります)。これまでの戦いで多くの郎等を失い、天皇のために忠義を尽くしてきたことを考えるとなんとも酷い仕打ちです。

 

 

この一件の後、新田義貞がどのようなモチベーションで戦っていたのかはわかりませんが、とにかく、北陸地方を自らの基盤にしようと足利尊氏派と戦闘を続け、その途中で命を落としたのです。

 

馬から落ちたところに一本の矢が義貞の眉間を貫き、最期を悟った義貞は自害しました。

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足利尊氏「新田義貞の首は晒し首な」

首は京に送られ、「コイツ(新田義貞)は朝廷に逆らった最大の敵!!」として晒し首にされました。足利尊氏は、新田義貞のことを良く思っていなかったし、新田義貞を戦犯にしたかったので、このような仕打ちをしたわけです。

 

 

これで足利尊氏は「悪者の新田義貞を倒すためにしょうがなく後醍醐天皇と戦っただけアピール」ができるし、後醍醐天皇も「俺は知らない。全てあいつ(新田義貞)がやったこと」と責任転嫁ができるわけです。こうしておけば、尊氏らは民衆から悪者を倒したヒーローと思われるようになり、後の政治が行いやすくなります。

 

 

・・・これじゃあ、亡くなった新田義貞はあまりにも救われません(´;ω;`)ブワッ

 

 

京には新田義貞にお世話になった人もたくさんいて、晒し首を見て多くの人が涙しました。

 

その中に、一段と悲嘆に暮れている女性の姿がありました。それが新田義貞の奥さんである勾当内侍(こうとうのないし)という女性です。

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新田義貞の妻、勾当内侍(こうとうのないし)

勾当内侍

【勾当内侍】

 

ところで勾当内侍という名前、変な名前だと思いませんか?

 

実は、本名じゃありません。内侍(ないし)は天皇に使える女性の役職で、勾当(こうとう)はニックネームです。この2つを合わせて勾当内侍と言います。平安時代の紫式部の名前と同じ考え方です!なので、本名は不明ということになります。

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当時、勾当内侍は後醍醐天皇に仕えていました。勾当内侍は絶世の美女であり、新田義貞はその姿を見て一目惚れ。天皇に使える女性を妻とするのは恐れ多いと悩んでいると、それを察した後醍醐天皇が「新田義貞は良く活躍してくれてるし、別に結婚してもいいよ」と言ってくれて、2人は結ばれます。勾当内侍も新田義貞のことを気にしていたので相思相愛でした。

 

 

太平記では勾当内侍の美貌を際立たせるため、「美人の奥さんと離れたくないと新田義貞が戦地に赴くのをためらっているせいで、敵に余裕を与え戦いに負けてしまった」なんて話も残っています。この話が事実かはわかりませんが(おそらく作り話)、新田義貞と勾当内侍がラブラブだったことは間違いないでしょう。

 

 

勾当内侍は新田義貞が戦死したことを事前に知っていましたが、いざ目の前に旦那の首が晒されているのをみると言葉を失います。そして「現世はもうオワコン」と言わんばかりに出家し尼になりました。

 

 

愛する旦那が亡くなったショックもありますが、勾当内侍は生涯「朝敵の妻」というレッテルを貼られ続けることになります。つまり、「新しい恋を探すわ!」とかそんな次元じゃないほど、自らの人生の終わりを感じたのでした。

 

 

出家した勾当内侍は往生院という嵯峨野にある尼寺で新田義貞の菩提を弔いながら、ひっそりとその生涯を終えたと言われています。

 

 

そして、その往生院があったのが今の滝口寺のあたりだと言われているんです。やっと新田義貞と滝口寺が繋がりました!

 

 

勾当内侍は密かに新田義貞の首を盗み、嵯峨の地にお墓を建てたとも言われています。これが滝口寺に新田義貞の首塚がある理由です。首塚には勾当内侍の深い悲しみと、新田義貞の無念とが込められているような気がします。

 

 

滝口寺から溢れる哀愁漂う静けさは、この悲しみのストーリーをより際立たせ、訪れる人の心を強く打ちつけます。

 

 

新田義貞の首塚の左右には、義貞の仲間の名前が刻まれた灯篭?らしきものが並びます。新田一族だったり、船田氏という新田義貞の秘書官だったり。(畠山と船津という名はよくわからない)

 

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現世を捨てた人々

嵯峨野の地には、勾当内侍のように現世を捨てた人の名残が数多く存在します。

 

 

例えば、滝口寺の横にある祇王寺(ぎおうじ)。平安時代末期、平清盛の寵愛を受けていた祇王(ぎおう)と言う踊り子の女性がいました。平清盛は祇王よりも若くて美しい女性を見つけると祇王を捨ててしまい、それに絶望した祇王が出家して過ごしたお寺が祇王寺です。

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もう1つ、滝口寺に向かう途中に見つけたこれ。西行(さいぎょう)と言う男が使った井戸の跡だと言われています。

西行は平安時代末期、武士として活躍しました人物です。しかし、わずか23歳で突如として出家。世を捨て、各地を放浪しながら多くの和歌を残して一生を終えました。旅人なのでずっとは住んでなかったでしょうけど、この嵯峨野の地に住んでいたこともあったそうです。

 

 

そして、そもそもこの滝口寺自体も悲しい歴史を持ちます。平安時代末期、平家の部下だった斎藤時頼(さいとうときより)と言う武士がいました。斎藤はとある女性に恋をしますが、お父さんに「平家に仕える身でありながら、女にうつつを抜かすとは何事だ!」と叱られます。

 

 

斎藤時頼は、女性との恋と平家への忠誠を天秤にかけることができず、「それならいっそ全てを捨てて俗世を離れよう」と言って出家して、滝口入道と名乗りました。なぜいきなり「滝口」が登場したのかと言うと、斎藤時頼が滝口の武士だったからです。滝口の武士は、天皇の住居を守る警備隊。以下の記事で紹介しています。

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こうして滝口入道が住んでいた場所が滝口寺になったのでした。そして出家の後、さらに悲しい恋愛エピソードがあるのですがここでは文字数の関係で触れません(涙。

 

 

最後、少し余談を書いちゃいましたが、新田義貞と滝口寺にまつわるウンチク話でした。

 

 

それにしても、嵯峨野の自然あふれる静けさには、世捨て人を魅了する何かがあったのでしょうか。もし気になるようでしたら、ぜひ滝口寺や祇王寺を訪れてみましょう!

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この記事を書いた人
もぐたろう

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