対外危機と鎖国の動揺
ラクスマン来航から黒船来航直前まで。外国船が相次いで現れ、幕府は異国船打払令で対抗するが、次第に鎖国体制が揺らいでいく61年間。
ロシア使節ラクスマンが根室に来航し、日本との通商を要求。幕府は長崎への入港を許可する信牌を与えて交渉を先送りにしますが、これが北方からの外圧の始まりとなります。
ラクスマンが持ち帰った信牌を携えたロシア使節レザノフが長崎に来航しますが、幕府は半年以上待たせたあげく通商を拒否。怒ったレザノフは帰国後に択捉島などを攻撃させました。
イギリス軍艦フェートン号が長崎港に無断侵入し、オランダ商館員を人質にして食料・薪水を要求。幕府の鎖国体制の脆弱さが露わになった事件で、長崎奉行は責任をとって切腹しました。
ロシア海軍中佐ゴローニンが択捉島で日本側に捕縛された事件。2年以上抑留されましたが、高田屋嘉兵衛のロシア側への拿捕と引き換えに釈放され、日露両国の緊張は一時的に和らぎました。
外国船の来航が相次ぐなか、幕府は「理由を問わず外国船を撃退せよ」という強硬姿勢の異国船打払令(無二念打払令)を発令。しかしこの強硬策が後のモリソン号事件での批判を招きます。
日本人漂流民を送り届けようとしたアメリカ商船モリソン号を、幕府は打払令に基づき砲撃して追い返します。これを批判した渡辺崋山・高野長英らが翌年の蛮社の獄で処罰されました。
モリソン号事件での幕府の対応を批判した蘭学者グループ「尚歯会」が弾圧された事件。渡辺崋山は蟄居を命じられ後に自刃、高野長英は獄中で重傷を負いながらも脱獄しました。
アヘン戦争でイギリスが清を破ったとの情報が伝わると、幕府は強硬策の限界を悟り、異国船打払令を撤回。外国船に薪・水・食料を与えて帰帆させる薪水給与令に切り替えました。
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の黒船を率いて浦賀に来航し、開国と通商を要求。幕府は翌年の日米和親条約締結を余儀なくされ、260年余り続いた鎖国体制が終わりを迎えます。
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