今回は、鎌倉時代に登場する悪党(あくとう)について紹介します。
悪党は、鎌倉時代滅亡の大きな大きな原動力となった存在で鎌倉時代を語る上では絶対に外せない存在!!あの有名な楠木正成(くすのきまさしげ)も悪党の出身だと言われています。
しかし、「悪党ってどんな存在だったのか?」と問われるとどうもうまく答えられない。というのも、悪党は庶民から富裕層、そして御家人まで多くの人を巻き込んだ大きな時代のうねりの中で登場した複雑な存在だからです。
今回はそんな悪党についてわかりやすく、かつ、詳しく紹介していきたいと思います!
悪党の始まり
悪党とはザックリと言ってしまえば、「幕府や朝廷の支配の外で生きていたアウトロー的な存在」です。
教科書なんかでは鎌倉時代の言葉として「悪党」が登場しますが、実は平安時代から悪党という概念は存在していました。
当初の悪党は、「荘園を非合法的に侵略する者」を指していました。これはちょっとわかりにくいので例え話で補足しておく。
例えば、A荘園とB荘園があって、A荘園の領主が領土欲しさにB荘園に不法侵入したとします。
すると、B荘園の領主から見れば侵略行為をしてくるA荘園の領主は「悪党」なわけです。でも、A荘園の領主に全く関係のないC荘園から見れば、A荘園は悪党でもなんでもないただの荘園領主。
・・・何が言いたいかというと、誰が悪党で誰が悪党でないのかは、それぞれの立場によって違ってくるということです。
だから、「誰がどう見てもこいつは悪党だ!!」って奴は存在せず、各々の領主が、「自分の所領を脅かす侵略者」だと思った奴らを悪党と呼んでいたんです。
悪党と地頭
ところで、荘園領主の立場に立ってみると、悪党より何より最も邪魔だったのは鎌倉幕府が各地に置いた地頭の存在です。
「じゃあ、地頭も悪党なの?」と思うかもしれませんが、これは悪党とは言いません。何故なら、地頭の荘園への侵略は幕府の権力を背景に「合法的」に行われたからです。
地頭の荘園支配は、「荘園領主の代わりに徴税や土地の管理を手伝ってあげるよ!(と見せかけて、土地の実効支配権を全部奪うことも・・・)」という建前の元で行われましたが、これは悪党ではないんです。
これだけが理由ではないかもしれませんが、そんな理由もあって悪党が盛んに現れたのは畿内が中心で、東国では多くは登場しません。東国では地頭の力が強かったので、幕府の支配外の第3勢力ができる余裕はありませんでした。
悪党を放置する鎌倉幕府
ここまでの話をまとめておくと、悪党とはつまりは「自分の所領を脅かす侵略者」ですが、鎌倉幕府ははじめの頃はこれをスルーしていました。
鎌倉幕府には確かに所領トラブルについて裁判を行う機能はあったし、御成敗式目という立派な法典もあった。
しかし、幕府が関与するのはあくまで幕府が任命権を持つ地頭や守護に関係するトラブルに限ります。地頭の関与しない領主同士のトラブルは朝廷が管轄すべき仕事だったのです。
一方の朝廷は、幕府に政治の実権を奪われ政務能力が著しく低下していました。だから、トラブルで頭を悩ませる荘園領主の中には、鎌倉幕府へ直接直訴するケースもあったようです。
荘園領主にとって幕府は、うざったい地頭を送ってくる嫌な存在ですが、背に腹は変えられなかったのでしょう。広大な所領を持っていて地頭の設置を押し返していた東大寺ですらそんな有様でした。
それでも幕府のスタンスは変わらず、東大寺を「いやー、それ俺関係ないから、そっちで勝手にやってくれ。そんなに文句言うなら地頭置いてくれてもいいんだよ^^」と突っぱねた・・・なんて記録も残っています。
・・・と、ここまでが鎌倉時代初期の話。
ところが、時代が少し進んで1250年頃になると、幕府はなぜか悪党を無視できなくなり、悪党鎮圧令を発令するようになります。
幕府が悪党を無視できなくなった理由は、悪党が裏で地頭や守護と協力して侵略や略奪行為を行なっていることがわかってきたから。
幕府が任命権を持つ地頭や守護も関与しているとなると、いよいよ悪党を無視できなくなってしまったわけ。
こうなると「なぜ悪党と地頭・守護は関係をもつようになったのか?」と疑問に思いますよね。
この理由は大きく2つあると考えられていて、それが・・・
だと言われています。大事なキーワードは「貨幣経済」です!
上の2点についてそれぞれ紹介していきます。
悪党と貨幣経済
鎌倉時代の日本は宋と活発な交易が行われていました。日本と宋の交易は日宋貿易と呼ばれ、その本格的な始まりは平清盛の時代までさかのぼります。
日本が宋に輸出していたのは、金や真珠など高価な物が多かったため、大量の宋銭が日本に流入しました。この宋と日本との活発な交易活動は、宋を潰したい元軍が日本を標的にした理由の1つとも言われるほどです。
そして、宋との交易の拠点であった西日本では次第に貨幣を使った物の売買が広まっていったのです。
お金っていうのは、とにかく便利でした。というのも、お金さえ持っていればそれをいろんな物と交換できるからです。当たり前にお金を使っている私たちにはピンときませんが、当時としてはとても革命的な出来事だったのです。
例えば、物々交換だと米を持っているウサギさんが、クマさんの魚を買おうと思っても、こんなケースが想定されます。
クマさん!その魚を私の米と交換しましょ
ハァ〜!?俺は今パンが食いたい気分なんだ。無理無理!
・・・(´・ω・`)
でも、お金があれば絶対にこんなこと起こりませんよね。
クマさん!その魚をお金と交換しましょ
OK。200円ね!(この200円で後でパン屋でパン買おう)
やった!人生初の魚を食べれる!これでwin-winだね!
これはちょっと茶番すぎますけど、実際にこんな感じだったのだろうと思います。
宋銭は爆発的に普及して、税を金で納めるケースまであったようです。お金が普及すると、荘園の中では市場が開かれ、農民たちはお金で売買をするようになりました。
すると、これまで生活と納税のために稲作しなければならなかった人たちが、次第に稲作から解放されて、その地域あった特産物を作り始めます。なぜ特産物かというと、そっちの方がお金になるからです。税も稲も金でなんとかなるなら、自分で稲を育てる必要もないわけです。
農民たちが自力でお金を手に入れるようになると、次第にこれまで農民を抑圧し続けていた領主に対する反発も強くなっていきました。
こんな感じで、これまで領主に虐げられていた庶民が、貨幣経済の波での中で稲作以外の選択肢を得て自立し始めると、既得権益層に強く反発するようになり、これが悪党を生んだ要因の1つになります。
そして、貨幣経済で力を手に入れたのは農民だけではありません。数字に強い人たちは、高利貸しをして大儲けするようになります。この「数字に強い人」がどんな人だったかというと、これまで大規模な荘園を経営してきた経営者が多かったようです。
大規模な荘園を持つ代表的な組織は東大寺や興福寺です。これらの寺院は、僧であるにも高利貸しを始める輩まで現れたのです。
高利貸しをするには、高い利子で金を借りてくれるカモが必要になってきますが、そのとっておきのカモこそが御家人たちだったのです!
悪党と無足御家人
宋銭の普及によって、西日本を中心に人々の生活が変化する中、御家人は経済的に非常に苦しい立場に立たされることになります。
まず最初に致命的だったのは、当時の父から子への遺産(所領)相続が、分割相続で行われたことです。父がいくら広大な所領を持っていても子供が5人いれば、子供が持てる所領は5分の1になってしまいます。
そして5分の1を相続した子にさらに5人の子供が生まれれば、その所領は25分の1の大きさに・・・(絶望)。
こんな感じで、子孫が繁栄すればするほど子供が貧しくなるというカオスな状態に陥ったのです。
これに加えて、幕府が恩賞として与えられる土地は有限です。承久の乱の頃までは良かったんです。西国を中心に承久の乱で亡くなったり敗者となった人の土地があったから。
しかし、元寇の頃になると、人口が増えたり戦いで功績を挙げた者が増えても、その人たちに与えられる土地が無くなっていきます。
要は御家人の貧困化が進んでいったわけです。
そして、土地をあてにできなくなった貧しい御家人たちが頼ろうとしたのが金でした。貧困に陥った御家人たちは、
などなど、ありとあらゆる方法でお金を手に入れようとします。
しかし、この①〜③の方法。全てに大きな問題がありました。そして、悪党に大きく関わるのは②と③。
*①は「永仁の徳政令」に関係がありますが、別の記事で紹介する予定です。
御家人「借金まみれになったから悪党になったおww」
生活に困った御家人たちは、金貸し業者の絶好のカモでした。
そこの御家人くんさぁー、お金に困ってるんでしょ?でも安心して!土地を担保にしてくれれば今すぐお金貸してあげますよ^^。さぁ、今すぐここにサインを!(ただし、法外な高金利)
こんな感じで御家人は高利子の借金を抱え、返済してもしても借金が減らない借金地獄に陥った御家人も増えていきました。
そして、借金で首が回らなくなって万策尽きた御家人が選んだ道が悪党でした。他人の土地を襲うことを生業に選んだのです。
御家人「悪党と組んだ方がお得だわww」
自ら悪党になる御家人が増える一方、悪党と協力する御家人も現れます。
金を持った悪党が御家人を賄賂で釣って、文句を言わせないようにしたのです。
さらに、上述のとおり悪党には没落した御家人たちの姿も数多くありました。そこには顔見知りの悪党もいたはずで、御家人たちがその悪党を匿うようなケースもあったそうです。
事ここに至って、鎌倉幕府は悪党の存在を無視できなり、悪党鎮圧令を発令したわけです。うーん、複雑!
【悲報】悪党によって鎌倉幕府滅亡へ
御家人たちの中に「幕府に忠実に従うよりも、悪党と協力して金貰った方がいいわww」と思う人が増えていくと、幕府の権力・権威は失墜し、鎌倉幕府は滅亡の道を歩む事になります
鎌倉幕府も当然このことはわかっていて、悪党対策に様々な手を打つのですが、まるで効果なし!
1331年、後醍醐天皇が倒幕のために挙兵すると、今まで異端児扱いだった悪党は天皇の名の下に突如として歴史の表舞台に登場し、倒幕運動の大きな大きな原動力となります。そして、この活躍で一躍有名になった悪党が、楠木正成や赤松則村といった人たちなのです。(楠木正成らの活躍はまた別の記事で紹介する予定です!!)
土地と金
最後に土地と金の話を少しだけ。
悪党の傍若無人な振る舞いと、それと取り締まろうとする幕府の動きは、見方を変えると「お金の力で生きる悪党」と「土地の力で生きる幕府」という関係で捉えることも出来ます。
鎌倉幕府は、御恩と奉公つまり「土地を安堵する代わりに、俺の言うことを聞いてくれよな」という関係で初めて成り立つ政治機構です。土地を仲介に、人々を服従させていたわけです。
そして、鎌倉幕府のこの仕組みが成り立ったのは、人々が土地を持たなければ生きていけなかったからです。お金の普及しない時代において、生きる上で最も重要なのは土地。人々にとって土地が最重要である限り、幕府は権力・権威を誇示して、天下を治めることが可能でした。
ところが、宋銭が大量に日本に流れ込んだことで人々の価値観は変わってきます。特に交易が盛んだった畿内周辺はその傾向が著しくて、「土地に頼らず金で生きる」という新しい価値観が生まれました。
新しい価値観を見出した人々の多くは、お金の重要性を理解していた人々や土地を持たない貧しく虐げられていた人たちでした。
当時のお金は、権力者の管理の及ばないもので、暗号通貨的に言えば「非中央集権的」なもの。一方の土地は、幕府が支配する「中央集権的」なものと言えます。
非中央集権(金)VS中央集権(土地)
鎌倉幕府の滅亡は、非中央集権(金)VS中央集権(土地)の戦いに非中央集権が勝利した結果とも言えるのではないかと私は考えています。
土地を介して天下を統治する幕府にとって、お金は時に幕府の存在を脅かす非常に危険なものでした。そして、おそらくこのことを敏感に感じとっていたのが、江戸幕府を開いた徳川家なんじゃないかと思います。士農工商の身分の序列や参勤交代は、あからさまに貨幣経済の力を抑える政策ですからね。
鎌倉時代以降も続く、貨幣経済の大きなうねりの中で大きく台頭した初めての存在が悪党だった・・・と言えるかもしれません。悪党の動きって下克上的な感じがして、社畜な私としてはとても好感が持てますww
それに加えて、鎌倉時代のお金の存在っていうのはビットコインを始めとした暗号通貨に似ていますよね。きっと暗号通貨を触ったことがある人ならこの感覚わかってくれるはず・・・!
そして現代における悪党的存在って言うのは、暗号通貨で裏取引なんかをしている輩なんじゃないかとも思う。
暗号通貨がこれからどう発展していくのかは謎ですが、歴史は繰り返すものです。暗号通貨に興味のある方は当時の経済事情なんかを知ってみるととても参考になるかもしれません。
最後の方は余談になりましたが、悪党のお話でした!
コメント
めちゃくちゃわかりやすいやん
やるやん