

今回は鎌倉時代の「悪党」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
実は、鎌倉幕府を倒した英雄・楠木正成も、幕府からは「悪党」と呼ばれていた人物でした。「悪党」と聞くと、つい現代の「悪人の集まり」を思い浮かべてしまいますよね。
ところが、この「悪党」の「悪」の字は、現代の「悪い人」とは全く意味が違います。むしろ悪党とは、鎌倉時代の社会の大きな変化が生み出した、時代の最先端を行く人々でした。この記事では、悪党とは何か、なぜ増えたのか、その正体を一つずつほどいていきます。
悪党とは?〔簡単に3行でまとめると〕
- ①定義:鎌倉時代中期〜後期に登場した、幕府の支配秩序に従わない武士・農民の集団
- ②特徴:「悪」は「道徳的悪」ではなく「秩序の外の者」を意味し、貨幣経済の発達と御家人の没落を背景に増加した
- ③代表人物:楠木正成・赤松則村・名和長年。後醍醐天皇に味方し鎌倉幕府滅亡に貢献した
簡単に言うと、悪党とは、鎌倉時代の中期から後期にかけて各地に現れた、幕府や荘園領主の支配に従わない人々の集団のことです。
彼らは荘園に勝手に入り込んで年貢を奪ったり、領主の命令を無視して武力で土地を支配したりしました。武士もいれば農民もおり、身分はバラバラ。共通していたのは「既存の秩序に縛られない」という行動パターンだけでした。
つまり悪党は、特定の身分や役職を指す言葉ではありません。「幕府の枠組みの外で動く者」をまとめて呼んだ、いわばレッテルのような言葉だったのです。

悪党って本当に悪い人たちだったの?なんか「悪」ってついてるだけで犯罪者みたいに聞こえる…

そこがポイントなんだ!「悪党」の「悪」は、現代の「悪い人」とは全然違う意味なんだよ。「悪党=悪人」って思いこんでると、楠木正成が悪党だった理由がわからなくなっちゃう。詳しくは次の章で解説するね!
悪党の語源〔「悪」の字の本当の意味〕
中世の日本語で「悪」は、必ずしも「道徳的に悪い」という意味ではありませんでした。「並はずれて強い」「秩序や常識の枠を超えた」というニュアンスで使われることが多かったのです。たとえば源義平は強さをたたえられて「悪源太」と呼ばれました。
「悪党」という言葉を正しく理解するには、まず「悪」の字の意味から見ていく必要があります。
現代の私たちは「悪」と聞くと、すぐに「道徳的に悪い」「犯罪者」といったイメージを持ちます。しかし中世の日本語における「悪」は、もっと幅広い意味を持っていました。
その代表的な意味が「並はずれて強い」「勇猛である」というものです。平安時代末期の武将・源義平は、その荒々しい強さから悪源太と呼ばれました。また、平家物語に登場する勇猛な武士・藤原景清は悪七兵衛景清と呼ばれています。これらの「悪」は、悪口どころか、むしろ強さをたたえる言葉でした。
そして悪党の「悪」は、もう一つの意味を含んでいました。それが「秩序の外にいる者」「既存の枠組みに従わない者」という意味です。幕府や荘園領主から見れば、自分たちの命令を聞かず、勝手に行動する人々は厄介きわまりない存在。そうした「手に負えない者たち」をまとめて「悪党」と呼んだのです。

今でいうなら「アウトロー」とか「はみだし者」ってイメージに近いよ!悪人っていうより、支配体制の外にいる人たち、ってこと。だから「悪党」と呼んだのは幕府や領主の側で、彼ら自身が名乗ったわけじゃないんだ。
悪党の始まりと地頭〔鎌倉時代中期〕
悪党という言葉が史料にさかんに登場するようになるのは、鎌倉時代の中期、13世紀の後半ごろからです。その背景には、荘園をめぐる激しい対立がありました。
鎌倉幕府は、全国の荘園や公領に地頭を置きました。地頭とは、年貢の取り立てや土地の管理、治安維持などを担当する役職です。多くは幕府に仕える御家人が任命されました。
ところが、この地頭たちが次第に荘園領主の権利を侵し始めます。年貢をきちんと納めなかったり、土地を勝手に自分のものにしようとしたり——。荘園領主(貴族や寺社)にとって、地頭は「契約を守らない厄介者」になっていきました。
こうして荘園領主と地頭・武士の対立が各地で激しくなる中で、領主の命令に従わず、武力で荘園を侵略する者たちが「悪党」と呼ばれるようになったのです。悪党の登場は、荘園制度のほころびと深く結びついていました。

地頭と悪党ってどう違うんですか?どちらも荘園を荒らしていたんじゃないかしら?

いいところに気づいたね!地頭は幕府から正式に任命された「公務員」みたいなもの。悪党は、その枠組みから外れて勝手に動く人たちなんだ。おもしろいのは、悪さをした地頭が荘園領主から「あいつは悪党だ!」と訴えられることもあったってこと。つまり悪党かどうかは、立場によって決まる相対的なものだったんだよ。
悪党が増えた3つの背景・経緯〔鎌倉時代後半〕
では、なぜ鎌倉時代の後半になって悪党がこれほど急増したのでしょうか。その背景には、社会の大きな変化が3つ重なっていました。一つずつ見ていきましょう。
■①貨幣経済の浸透と農民の自立
1つ目の背景は、貨幣経済の広がりです。鎌倉時代の後半になると、中国(宋)から大量の銅銭が輸入され、各地で売買にお金が使われるようになりました。市(定期市)が開かれ、農産物や手工業品が活発に取引されます。
すると農民の中にも、作物を売って財産をたくわえる者が出てきます。経済力をつけた農民は、もはや荘園領主のいいなりではありません。「年貢を払うより、自分たちでなんとかしよう」と考え、領主への不服従や抵抗が起きやすくなっていったのです。
こうして力をつけた農民や在地の有力者が、領主の支配に従わず悪党と呼ばれるようになっていきました。悪党の増加は、農村社会が豊かに、そして自立的になっていったことの裏返しでもあったのです。

お金が広まると、人は「言われた通りにする」より「自分で判断して動く」ようになるんだよね。これって今の感覚でもよくわかるよね!経済の自由は、人の自由にもつながっていくんだ。
■②御家人の没落(分割相続・元寇の恩賞なし)
2つ目の背景は、御家人の貧困化です。御家人とは、鎌倉幕府の将軍と主従関係を結んだ武士のこと。彼らは「御恩と奉公」——将軍から土地を保障してもらう代わりに、戦いで命をかけて働く——という関係で結ばれていました。
ところが、この御家人たちが次第に貧しくなっていきます。原因の一つが分割相続でした。当時は親の財産を子どもたちで分け合うのが普通で、相続のたびに一人あたりの土地はどんどん小さくなっていきました。世代を重ねるうちに、御家人の所領は細切れになってしまったのです。
さらに追い打ちをかけたのが元寇です。文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)で、御家人たちは多大な負担を背負って戦いました。しかし、元寇は外敵を撃退しただけの「防衛戦」。新たに獲得した土地がないため、幕府は十分な恩賞を御家人に与えられませんでした。
命をかけて戦ったのに、見返りはほとんどなし。幕府への不満をつのらせ、貧しさに追いつめられた御家人の中には、生き残るために荘園を侵略する側にまわる者も現れました。彼らもまた「悪党」と呼ばれていったのです。
■③無足御家人が悪党へ合流
3つ目の背景は、土地を失った武士たちの存在です。分割相続や生活苦のために所領を売り払い、ついには領地を持たなくなった御家人を無足御家人と呼びます。「無足」とは「足場(=土地)がない」という意味です。
土地を失った武士は、幕府の「御恩と奉公」の関係からも事実上はじき出されてしまいます。生活の基盤を失った彼らが向かった先の一つが、悪党でした。武芸の心得を持つ無足御家人は、悪党にとって頼もしい戦力となったのです。
こうして悪党は、力をつけた農民・没落した御家人・土地を失った無足御家人といった、さまざまな立場の人々が混ざり合う集団になっていきました。悪党は農民だけの集まりでも、武士だけの集まりでもない——複合的な存在だったのです。
📌 補足:「ばさら」文化との接続 既存の権威や秩序を無視する悪党の気風は、のちの「ばさら」文化にも通じています。ばさらとは、南北朝時代に流行した、身分や礼儀を無視した派手で奔放な振る舞いのこと。佐々木道誉などが代表的な「ばさら大名」として知られます。悪党とばさらは、どちらも「古い秩序がゆらいだ時代」が生んだ気風だったといえます。
悪党の外見と特徴〔異類異形〕
悪党には、もう一つ大きな特徴がありました。それが、その独特な外見です。
当時の記録には、悪党の姿が「異類異形」と書き残されています。異類異形とは「ふつうの人間とはちがう、異様な姿」という意味。それほど彼らの格好は当時の人々の目に奇異に映ったのです。
具体的には、柿色(茶色がかった赤)の帷子を着て、顔を布で覆い隠し、ふつうの武士とはちがう異様な甲冑を身につけていたと伝えられます。正規の武士のような端正なよそおいではなく、わざと目立つ、人をぎょっとさせる格好をしていたのです。
これは単なる悪趣味ではありません。「自分たちは幕府や領主のルールには縛られない」——その意思表示として、あえて秩序からはみ出した姿を選んでいたと考えられています。外見そのものが、悪党の生き方を映し出していたのです。

今でいうと、あえて派手な恰好で目立つストリートのグループみたいな感じかな。「俺たちは普通とは違う」って外見でアピールしていたんだよ。覆面をしていたのは、顔を隠して身元をわからなくする実用的な意味もあったみたいだね。
悪党と非御家人の違いは?〔武士・農民との関係〕
悪党を理解するうえでまぎらわしいのが、「非御家人」との違いです。
非御家人とは、武士でありながら鎌倉幕府の御家人ではない人々のこと。将軍と主従関係を結んでいないので、幕府の支配下にはありません。しかし、だからといって彼らが秩序を乱す存在だったわけではありません。多くの非御家人は、荘園領主や朝廷のもとで、おだやかにその土地で暮らしていました。
一方の悪党は、御家人か非御家人かという「身分」では区別できません。悪党を悪党たらしめたのは、荘園を侵略したり年貢を奪ったり、領主の命令を実力で踏みにじったりする「行動」のほうでした。御家人が悪党になることもあれば、非御家人が悪党になることもあったのです。
つまり「御家人/非御家人」は幕府との関係を示す身分の区分であり、「悪党」は秩序に従うかどうかという行動の区分。物差しがそもそも違う、というのが大切なポイントです。

悪党は武士なの?農民なの?授業でも「どっちとも言えない」って感じで習ったんだけど…

「どっちとも言えない」で正解なんだ!悪党は武士も農民も混ざった集団だったからね。大事なのは、悪党は「身分」じゃなくて「行動パターン」で定義されるってこと。テストで聞かれたら「秩序に従わない者の総称」と答えれば大丈夫だよ。
有名な悪党たち〔楠木正成・赤松則村・名和長年〕
では、実際に悪党として知られた人物を見ていきましょう。ここで紹介する3人は、いずれも鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇の新政権を支えた立役者たちです。
■楠木正成(くすのきまさしげ)

幕府に「悪党」と呼ばれた俺だがな、後醍醐天皇の命に従って戦っただけのこと。正義がどこにあるかは、立場によって変わるものよ。
楠木正成は、河内国(現在の大阪府南東部)を本拠とした悪党出身の武将です。鎌倉幕府を倒そうとした後醍醐天皇の挙兵に応じ、倒幕の中心人物の一人となりました。
正成の名を歴史に刻んだのが、千早城や赤坂城での戦いです。圧倒的な大軍で攻め寄せる幕府軍に対し、正成は山城に立てこもり、奇策を駆使してねばり強く戦い抜きました。少数の兵で大軍を翻弄したその戦いぶりは、幕府軍を各地の戦線に釘づけにし、倒幕運動を勢いづけました。
正成の活躍は、鎌倉幕府滅亡の大きな後押しとなりました。詳しい生涯や戦術については楠木正成の記事でくわしく解説しています。
■赤松則村(あかまつのりむら)
赤松則村は、播磨国(現在の兵庫県南西部)を地盤とした武将で、出家後の名「円心」でも知られます。則村もまた、幕府の支配秩序の外で力をたくわえた悪党的な存在でした。
後醍醐天皇の倒幕運動が本格化すると、則村はこれに加わって挙兵します。京都へ進軍し、幕府の出先機関である六波羅探題を攻め落とす戦いで大きな働きをしました。六波羅探題の陥落は、鎌倉幕府の崩壊を決定づける重大な出来事でした。
■名和長年(なわながとし)
名和長年は、伯耆国(現在の鳥取県中西部)を本拠とした武士です。海運や商業にもかかわって財力をたくわえていたとされ、土地に縛られない悪党らしい性格をもった人物でした。
長年の名を高めたのが、隠岐に流されていた後醍醐天皇を助け出したことです。隠岐を脱出した天皇を伯耆国の船上山に迎え入れ、追撃してくる幕府軍を撃退しました。この働きによって、長年は後醍醐天皇の信任を得て、新政権の有力者の一人となりました。

3人に共通するのは「後醍醐天皇側についた」こと。幕府から見れば悪党だけど、倒幕側から見れば英雄なんだよ。まさに「歴史は勝者が書く」ってやつだね。同じ人物でも、立場が変われば呼び名も評価もガラッと変わるんだ。
悪党によって鎌倉幕府が滅んだのはなぜ?
各地で活動を広げた悪党は、やがて歴史を大きく動かす力になっていきます。鎌倉幕府の滅亡です。とはいえ、悪党だけで幕府を倒したわけではありません。きっかけをつくったのは、一人の天皇でした。
その人物が後醍醐天皇です。後醍醐天皇は、武士に実権をうばわれた朝廷の力を取りもどそうと、幕府を倒すことを決意します。しかし、天皇のもとには戦う兵がほとんどいませんでした。
そこで頼りになったのが、各地の悪党たちでした。悪党はもともと幕府の支配秩序に不満をかかえ、領主や幕府に従わずに戦ってきた人々です。「幕府を倒す」という後醍醐天皇の呼びかけは、悪党にとって、自分たちの不満をぶつける格好の大義名分となりました。
1331年、後醍醐天皇は倒幕の兵をあげます(元弘の乱)。この呼びかけに楠木正成・赤松則村・名和長年といった悪党たちが次々と応じ、各地で幕府軍と戦いました。とくに楠木正成の千早城での粘り強い籠城戦は、幕府の大軍を畿内に長く釘づけにし、倒幕運動を大きく勢いづけました。
幕府軍が各地の悪党に手をやくなか、形勢は一気に倒幕側へかたむきます。1333年、足利尊氏が幕府の出先機関である六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉に攻め込んで幕府を滅亡へと追い込みました。約150年続いた鎌倉幕府は、こうして終わりを迎えたのです。

悪党だけで幕府を倒したというより、後醍醐天皇の倒幕運動に悪党が乗っかった形なんですね。

その通り!ポイントは「後醍醐天皇の権威」と「悪党の機動力」が組み合わさったこと。悪党はもともと幕府への不満をかかえていたから、「幕府を倒す」っていう大義名分とピタッとかみ合ったんだよ。どちらか片方だけじゃ、幕府はそう簡単には倒れなかったはずなんだ。
悪党の終焉〔室町時代に消えた理由〕
鎌倉幕府を倒す原動力となった悪党。ところが、その悪党は室町時代に入るとしだいに姿を消していきます。なぜ、あれほど活発だった悪党が消えてしまったのでしょうか。
カギをにぎるのが、守護大名の成長です。鎌倉幕府が滅んだあとの南北朝の動乱のなかで、各地の守護は軍事力をたくわえ、自分の任された国を一円に支配する大名へと成長していきました。彼らが守護大名です。
守護大名が国内をしっかり支配するようになると、悪党が活動できる「すきま」がなくなっていきます。悪党はそもそも、幕府や領主の支配が行きとどかない場所で力をふるう存在でした。地域を一手ににぎる強い権力者があらわれれば、好き勝手に動く余地は失われていきます。
その結果、悪党にのこされた道は二つでした。守護大名の家臣として組織に取りこまれるか、それとも力を失って消えていくか。1392年に南北朝が統一され、室町幕府の支配が安定していくなかで、独立した存在としての悪党はしだいに見られなくなっていったのです。
📌 補足:南北朝動乱と悪党 南北朝時代(1336〜1392年)は、北朝と南朝の二つの朝廷が対立し、全国で戦乱が続いた時代です。この動乱のなかでは、戦力をもとめる勢力が悪党を味方に引き入れることもあり、悪党はなお活動の場をもっていました。しかし南北朝が統一され、守護大名による地域支配が固まると、その活動の場そのものが失われていったのです。

悪党は「秩序のすきま」で生きる存在だったから、強い支配者があらわれると居場所がなくなっちゃうんだ。鎌倉幕府を倒した力が、次の時代の強い権力に飲みこまれていく——なんだか歴史の皮肉を感じるよね。
土地 vs お金:鎌倉幕府滅亡の本質
最後に、悪党という存在を通して「鎌倉幕府はなぜ滅んだのか」をもう一段深く考えてみましょう。キーワードは、土地とお金です。
鎌倉幕府を支えていたのは、「御恩と奉公」という仕組みでした。将軍が御家人に土地を与え(御恩)、御家人はそのお返しに命をかけて戦う(奉公)。この関係の土台にあるのは、あくまで「土地」です。鎌倉幕府は、土地を分け与えることで成り立つ、土地本位の政権だったのです。
ところが、この仕組みには弱点がありました。新しく分け与える土地がなくなれば、御恩が成り立たなくなってしまうのです。元寇では外敵を撃退しただけで新たな土地は手に入らず、幕府は御家人に十分な恩賞を与えられませんでした。さらに分割相続によって御家人の土地は世代ごとに細っていきます。土地という「報酬の元手」が、しだいに底をついていったのです。
その一方で、社会では貨幣経済が広がっていました。お金は土地とちがって、いくらでも動き、たくわえることができます。土地に縛られない新しい経済の力が、土地本位の古い仕組みをじわじわと揺さぶっていったのです。悪党は、まさにこの新しい時代の波に乗って登場した人々でした。土地に縛られず、実力とお金で道を切りひらこうとする——悪党は、変わりゆく時代の象徴だったのです。

鎌倉幕府の崩壊って、ただの政治争いじゃないんだよ。「土地で人を動かす時代」から「お金が力をもつ時代」へ——経済そのものが大きく変わったんだ。悪党は、その変化を体現した存在。だから悪党を知ると、鎌倉時代の終わりがぐっと立体的に見えてくるんだよ!
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「悪党が増えた理由」は〈貨幣・分割相続・元寇〉の3ワードでセット暗記。論述で問われたら、この3つを軸に書けば対応できます。有名な悪党3人は出身国(河内・播磨・伯耆)とペアで覚えるのがコツ。混同注意は「悪党=悪人」ではない点。記述では必ず「秩序の外の者」というニュアンスを入れましょう。

覚えることが多いなあ…。テストで一番出やすいのって、結局どこなの?

一番は「悪党が増えた3つの背景」と「楠木正成が悪党出身だった」の2点だよ!記述問題は〈貨幣・分割相続・元寇〉の3点セットを軸に書けばバッチリ。あとは「悪」の意味を勘違いしないこと。ここを押さえれば、悪党の問題はもう怖くないよ!
鎌倉時代の理解を深めるおすすめ本

悪党のことをもっと詳しく知りたい人に、おすすめの本を紹介するよ!
よくある質問(FAQ)
悪党とは、鎌倉時代の中期から後期にかけて登場した、幕府や荘園領主の支配秩序に従わない人々の総称です。「悪」は現代の「悪い人」という意味ではなく、「秩序の外にいる者」「慣例を超えた者」を指します。武士も農民も含む複合的な集団でした。
大きく3つの背景があります。①貨幣経済が浸透し、経済力をつけた農民が領主に従わなくなったこと。②分割相続や元寇の恩賞不足によって御家人が没落したこと。③土地を失った無足御家人が悪党に合流したことです。社会の大きな変化が重なって悪党が急増しました。
御家人や非御家人は「幕府との関係」を示す身分の区分です。一方の悪党は「秩序に従うかどうか」という行動の区分で、物差しがそもそも違います。御家人が悪党になることもあれば、農民が悪党になることもありました。悪党は身分ではなく行動で定義される存在です。
楠木正成は河内国を本拠とし、幕府の支配秩序の外で実力をたくわえた人物だったためです。幕府の側から見れば、秩序に従わない楠木正成は「悪党」でした。しかし後醍醐天皇の倒幕運動に味方した側から見れば、彼は倒幕の英雄です。立場によって呼び名が変わる、典型的な例といえます。
室町時代に入り、各地で守護大名の地域支配が固まっていくなかで、悪党はしだいに姿を消しました。1392年の南北朝統一以降、守護大名の支配が安定すると、悪党は守護大名の家臣として組織に取りこまれるか、力を失って消えていきました。
悪党だけで幕府を倒したわけではありません。倒幕のきっかけをつくったのは後醍醐天皇で、悪党はその呼びかけに応じて各地で戦いました。「後醍醐天皇の権威」と「悪党の機動力」が組み合わさったことが、1333年の鎌倉幕府滅亡につながったといえます。
まとめ
- 1185年守護・地頭の設置(地頭による荘園侵略問題の始まり)
- 1232年御成敗式目の制定(地頭の権限が定められる)
- 1274年文永の役(元寇の始まり・恩賞問題の発端)
- 1281年弘安の役(再びの元寇・御家人の負担と不満が増大)
- 1297年永仁の徳政令(御家人の困窮を救おうとするも効果は限定的)
- 1300年代初め各地で悪党の活動が活発化(鎌倉時代後半)
- 1331年元弘の乱(後醍醐天皇が倒幕の兵をあげ、悪党が合流)
- 1333年鎌倉幕府滅亡(楠木正成・赤松則村ら悪党が後醍醐天皇に合力)
- 1392年南北朝統一・室町時代へ(悪党は守護大名の傘下に吸収され終焉)

以上、鎌倉時代の「悪党」のまとめでした!「悪党」という名前のイメージとは裏腹に、彼らは時代の変化が生んだ存在だったんだね。鎌倉幕府の滅亡や南北朝の動乱に興味がわいた人は、下の記事もあわせて読んでみてください!
📅 最終確認:2026年5月
📖 本記事は山川出版社『詳説日本史』に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。
Wikipedia日本語版「悪党 (中世)」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「楠木正成」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「元弘の乱」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「赤松則村」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「名和長年」「船上山の戦い」(2026年5月確認)
コトバンク「悪党」「悪源太」「悪七兵衛景清」(デジタル大辞泉・日本大百科全書、2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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