

今回は江戸時代の改革者、松平定信について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!寛政の改革でどんなことをしたのか、なぜ失脚したのか、白河での名君ぶりまで一気に見ていこう!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
松平定信といえば、「賄賂まみれの田沼意次を倒して、ゆるんだ世の中を立て直したマジメな政治家」というイメージがあるかもしれません。
ですが実は、定信の改革はあまりにも厳しすぎて、当時の人々から「田沼の時代のほうがマシだった」と言われるほど嫌われてしまったのです。
その一方で、白河藩では大飢饉から一人の餓死者も出さなかった名君でもありました。
清廉潔白なはずの定信が、なぜ庶民から「水が清すぎて魚も住めない」と皮肉られたのでしょうか。生い立ちから寛政の改革の中身まで、順番に見ていきましょう。
松平定信とはどんな人物?
- 生没年:1759〜1829年。白河藩主・江戸幕府の老中首座
- 8代将軍・徳川吉宗の孫として生まれ、白河松平家の養子となった
- 1787〜1793年に寛政の改革(三大改革の1つ)を主導した
松平定信は、1759年に生まれた江戸時代後期の大名・老中です。
父は田安宗武。この宗武は、あの「享保の改革」で有名な8代将軍・徳川吉宗の子どもでした。
つまり定信は、吉宗の孫にあたる超エリートだったのです。


「田安宗武」って、田沼意次と名前が似てるけど別人だよね…?

まったくの別人だよ!「田安」は定信の生まれた家の名前で、田沼意次とは関係ないんだ。むしろ定信は、のちにこの田沼意次をライバル視することになるんだよ。
吉宗の孫・将軍候補から白河藩主へ
定信が生まれた田安家は、将軍を出すことができる特別な家柄「御三卿」のひとつでした。
※御三卿:田安家・一橋家・清水家の3家。将軍に跡継ぎがいないとき、ここから将軍を出す決まりだったよ。
頭が良く、優秀だった定信は、次の将軍候補のひとりとして名前があがっていました。
ところが、ここで彼の運命が大きく変わります。
当時、絶大な権力をにぎっていた老中・田沼意次らの意向もあり、定信は1774年、白河松平家へ養子に出されることになりました。
養子に出された者は、将軍になる資格を失います。つまり定信は、将軍へのルートから外されてしまったということです。
定信は後年、みずから書いた回想録『宇下人言』に、養子に出された当時の心境をしるしています。「(将軍の位が)思いが及ばないではなかった」という言葉は、15歳で将軍への道を閉ざされた若き定信の、深い挫折感をそのまま伝えています。
この経験が、のちに田沼意次への強い対抗心と、「自分こそが政治を立て直す」という使命感につながっていったとも言われています。

将軍になれたかもしれないのに、ライバルの田沼意次に外されたなんて…定信さんは悔しかったでしょうね。

田沼め…賄賂にまみれた政治で世を乱しおって。わしがいつか、この腐った幕府を立て直してみせる。
白河藩主として天明の大飢饉に立ち向かう
白河藩主となった定信を、すぐに大きな試練が襲います。
それが、1782年ごろから数年にわたって日本中を苦しめた天明の大飢饉でした。
冷害や浅間山の大噴火が重なって起きた、江戸時代最大級の飢饉のことです。とくに東北地方の被害が大きく、全国で多くの餓死者が出たと言われています。

白河藩のある東北地方は、もっとも被害の大きかった地域です。周りの藩では、多くの餓死者が出てしまいました。
ところが定信は、いち早く他の地域から米を買い集め、領民に食料を配るなどの対策を素早く行いました。
その結果、白河藩からは餓死者を一人も出さなかったと伝えられています。

白河の民に一人も餓えさせたくなかった。それだけです。

大飢饉の中で領民を守りきった、っていう実績はホンモノなんだ。この働きが評価されて、定信は「優秀な政治家」として一気に名をあげることになるんだよ!
白河藩での評判が高まる一方で、幕府の中心にいた田沼意次は、飢饉への対応のまずさなどから批判を浴び、ついに失脚します。
こうして、幕府を立て直すリーダーとして白羽の矢が立ったのが、松平定信だったのです。
老中首座就任と寛政の改革(1787〜1793年)
1787年、定信は老中首座(老中のトップ)に就任します。
※老中:将軍を直接支えた、幕府の最高職。今でいう内閣の大臣たちのトップ、ってイメージに近いよ。
定信は、祖父・吉宗の「享保の改革」を理想としながら、ゆるんだ幕府の財政と風紀を引きしめる改革に乗り出しました。
これが、江戸の三大改革のひとつ寛政の改革(1787〜1793年)です。

三大改革は「享保(吉宗)→寛政(定信)→天保(水野忠邦)」の順番だよ。寛政の改革の中でも特に重要な4つの政策を、これから順番に見ていこう!
■ ①棄捐令—旗本・御家人の借金帳消し
政策①:棄捐令
棄捐令とは、生活に苦しむ旗本・御家人(幕府の家臣)が、商人(札差)から借りていた借金を帳消しにした命令です(1789年)。
※札差:旗本・御家人が給料としてもらう米を、お金に換える仕事をしていた商人のこと。お金を貸す金融業もやっていたんだ。
借金まみれの家臣たちを救うための政策でしたが、これには大きな副作用がありました。

借金が帳消しにされた札差は大損だよね。だから「もう武士には金を貸さないぞ」となって、かえって家臣たちがお金を借りられなくなっちゃったんだ…。
■ ②囲米—大名に備蓄米を命じる
政策②:囲米
囲米とは、各地の大名や旗本に対して、1万石につき50石(200分の1)の米を、ふだんから城下に貯蔵させた制度です。
これは、天明の大飢饉のような非常事態に備えるためのものでした。
白河藩で飢饉を乗り切った定信ならではの、実体験にもとづいた政策だったと言えます。
■ ③人足寄場—江戸の無宿者対策
政策③:人足寄場
人足寄場とは、江戸の無宿人(住む家のない人々)を集めて、仕事の技術を教えた施設のことです。
江戸の石川島に設けられ、彼らに大工仕事などの職業訓練をほどこしました。

ただ取り締まるんじゃなくて、手に職をつけさせて自立を助ける…今でいう就労支援みたいで、けっこう先進的ですね。

そうなんだ!人足寄場は、寛政の改革の中でも評判のいい政策のひとつなんだよ。
■ ④寛政異学の禁—朱子学のみを正統とした
政策④:寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)
寛政異学の禁とは、幕府の学校である昌平坂学問所で、朱子学以外の学問を教えることを禁止した政策です。
※朱子学:身分の上下や秩序を重んじる儒学の一派。「主君を敬い、秩序を守るべし」という考え方が、幕府の支配にとって都合がよかったんだ。
定信は、世の中の秩序を引きしめるためには、まず人々の考え方をひとつにそろえる必要があると考えました。
そこで、幕府にとって都合のよい朱子学を「正しい学問」と定め、それ以外の学問を取り締まったのです。


4つの政策、どれがテストで一番重要なの?

4つとも大事だけど、まずは「棄捐令・囲米・人足寄場・寛政異学の禁」の4つを名前と内容のセットで覚えるのが鉄則だよ!全部、定信=寛政の改革とひもづけて覚えてね。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:4政策は「棄捐令=借金、囲米=米、人足寄場=仕事、異学の禁=学問」と、対象(お金・食料・職・思想)でセット暗記しよう。三大改革は「人物と年号」の組み合わせを問う問題が頻出。吉宗=享保、定信=寛政、水野忠邦=天保を混同しないこと。

田沼意次の政治と寛政の改革って、どう違うの?

田沼は商業を活発にして経済で稼ごうとした「ゆるめ」の政治、定信は農業を重視して質素・倹約を徹底した「引きしめ」の政治、ってイメージだよ。この対比はテストで超頻出だから覚えておこう!
「白河の清きに魚もすみかねて」—なぜ民に嫌われたのか?
真面目で清廉な定信の改革。ですが、その厳しさは庶民の暮らしを直撃しました。
定信は、ぜいたくを禁じる倹約令を出し、人々の生活を細かく取り締まりました。
派手な服装やはやっていた洒落本(風俗を描いた小説)などの出版も、次々と禁止されます。
あまりに厳しい締めつけに、庶民の不満はどんどん高まっていきました。
そんな世相を皮肉って、当時こんな狂歌が流行しました。
「白河の 清きに魚も すみかねて もとの濁りの 田沼こひしき」
これは、「白河(=定信)の政治はあまりに清らかすぎて、魚(=庶民)も住めないほどだ。それなら、濁っていた田沼(意次)の時代のほうがまだ恋しい」という意味です。
とくに大きな打撃を受けたのが、出版の世界でした。
出版を取りしきっていた版元の蔦屋重三郎は、出版統制に違反したとして財産の半分を没収される重い処罰を受けます。
同じく、当時の人気作家・山東京伝は、洒落本を出版したとして手鎖(てぐさり)50日の刑罰を受けました。手鎖とは、文字通り両手に鎖をつけて行動を制限する刑のこと。筆を握ることも日常の家事もままならない過酷な処罰で、当時の文化人・知識人に大きな衝撃を与えました。

大河ドラマ「べらぼう」でも定信が蔦屋を弾圧してたけど、実際はどこまで本当なの?

蔦屋重三郎が出版統制で財産没収の処罰を受けたのは史実だよ。定信の出版規制が、当時の文化人たちにとって大きな逆風だったのは間違いないんだ。べらぼうでは、その時代の空気がドラマチックに描かれているね。
こうして、厳しすぎる改革は人々の支持を失っていきます。
そして1793年、定信はわずか6年で老中を退くことになりました。その失脚のくわしい経緯は、次の章で見ていきましょう。
将軍家斉との対立と失脚(1793年)

あれだけ完璧に改革を進めた定信だけど、最後はあっけなく失脚しちゃうんだ。きっかけは将軍家斉との「ある対立」だったんだよ。
松平定信の改革は、たしかに財政を立て直しました。しかし、その厳しすぎる姿勢は、いつしか将軍やまわりの人々から煙たがられるようになっていきます。
そして1793年、定信は尊号一件という事件をきっかけに、わずか6年で改革の舞台から去ることになりました。
■尊号一件—天皇との対立

「尊号一件」って、テストで名前は見たことあるけど…どんな事件なの?

カンタンに言うと「天皇が、天皇になっていないお父さんに上皇の称号をあげたい」と言い出して、定信が「前例がないからダメ!」と突っぱねた事件だよ。これが大もめにもめたんだ。
当時の天皇は光格天皇。光格天皇は、天皇の位についていない実父閑院宮典仁親王に、太上天皇(上皇)の尊号を贈りたいと考えました。
しかし定信は「天皇になっていない人に上皇の称号を贈るのは前例がない」として、これに強く反対します。最終的に朝廷の要求は退けられ、尊号は実現しませんでした。
この尊号一件は、幕府と朝廷の関係がギクシャクするきっかけにもなりました。後の幕末、天皇の権威が高まっていく流れの「遠い伏線」とも言われています。
■将軍家斉との対立
実は将軍徳川家斉も、同じ時期に「自分の実父に大御所の称号を贈りたい」と望んでいました。定信は、これにも前例を理由に難色を示します。
真面目で堅物な定信のやり方は、ぜいたくを好む家斉にとって、しだいに「うるさい目の上のたんこぶ」になっていったのです。

ある逸話では、定信のあまりの頑固さに激高した将軍家斉が、思わず刀に手をかけようとした、とも伝えられています。それでも定信はひるまず、正論を主張し続けたとされます。
あくまで後世に伝わる逸話の一つですが、相手が将軍であっても自分の信念を曲げない、定信の剛胆さを物語るエピソードとして語り継がれています。
■6年間の改革、ここに終わる
朝廷とも将軍とも対立を深めた定信は、ついに後ろ盾を失います。そして1793年(寛政5年)、老中首座を辞任。わずか6年で寛政の改革は幕を閉じました。

わしは、ただ正しいと信じる道を進んだだけだ。財政も立て直した。だが…正しさだけでは、人の心はついてこぬものなのかもしれぬな。
白河に戻って「楽翁」に—文化人としての晩年

失脚した定信だけど、実はここからの晩年がすごく魅力的なんだ。「堅物の政治家」とはまた違う、文化人としての顔を見せてくれるんだよ。
老中を辞めた定信は、自分の藩である白河藩(現在の福島県)の政治に専念します。そして自らを楽翁と号し、学問・文化の世界で多くの業績を残しました。
■日本最古の公園「南湖公園」
定信の代表的な事業が、1801年に造った南湖公園です。これは日本最古の公園とも言われています。
南湖公園のすごいところは、その理念にあります。定信は士民共楽—つまり「武士も庶民も、身分の区別なく、みんなで一緒に楽しめる場所」をめざしてこの公園を造りました。
身分のへだてなく、武士も庶民も一緒に楽しむ、という考え方のことです。身分制度がきびしい江戸時代に、このような開かれた公園を造ったのは、とても先進的なことでした。
■文化財を守った「集古十種」
定信は、古い文化財が失われていくことを心配していました。そこで全国の古器物(古い道具・美術品)や古文書を調査させ、1800年(寛政12年)から集古十種として刊行しました。
これは、絵や拓本で文化財の姿を記録した、いわば江戸時代の「文化財カタログ」です。現在まで失われた文化財の姿を伝える、貴重な資料となっています。

大河ドラマでは厳しい敵役のイメージだったけど…文化財を守ったり、みんなで楽しめる公園を造ったり、意外とあたたかい一面もあったんですね。

そうなんだよ。定信は、もともと学問が大好きな教養人でもあったんだ。政治家としては評価が分かれるけど、文化人としてはまちがいなく一流だったんだよ。1829年、69歳で亡くなるまで、たくさんの著作も残しているんだ。
松平定信についてもっと詳しく知りたい人へ
松平定信や寛政の改革についてさらに深く学びたい方に、おすすめの本を紹介します。テスト前のサッと確認から、しっかり読み込みたい場合まで、難易度別に選びました。

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よくある質問(FAQ)
A. 定信は8代将軍・徳川吉宗の孫で、将軍候補にもなれる血筋でした。しかし、当時の権力者・田沼意次らによって、若いうちに白河松平家へ養子に出されてしまいます。これにより将軍家の継承から外れたため、将軍になることはできませんでした。定信が田沼意次を強く敵視したのも、この経緯が背景にあると言われています。
A. 財政の立て直しには一定の成果がありました。しかし、出版統制や風俗の取り締まり、ぜいたくの禁止などがあまりに厳しすぎたため、庶民や武士から強い反発を受けました。「白河の清きに魚もすみかねて」という狂歌は、その不満をよく表しています。最終的に将軍家斉との対立で定信が失脚し、わずか6年で改革は終わりました。
A. 棄捐令は、1789年に出された、旗本・御家人の借金を帳消し(または軽減)にする命令です。生活に苦しむ武士を救うのが目的でした。しかし、お金を貸していた札差が大損をしたため、その後はお金を貸し渋るようになり、かえって武士が困るという副作用も生まれました。
A. 寛政の改革を皮肉った狂歌です。「白河(=白河藩主の定信)の政治はあまりにキレイすぎて(=清廉・厳格すぎて)、魚(=庶民)も住みづらい。それなら、にごっていた田沼意次の時代のほうがまだマシだった」という意味です。続きは「もとの濁りの田沼こひしき」となります。改革の窮屈さに対する庶民の本音がよく表れています。
A. 松平定信は、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたります。定信は、祖父・吉宗が行った享保の改革を理想として尊敬していました。寛政の改革で倹約や質素を重んじたのも、吉宗の政治を手本にしていたためと言われています。
A. 松平定信が老中首座に就任した1787年から、定信が失脚する1793年までの、およそ6年間です。「いいなや(1787)始まる寛政の改革」のように年号を覚えると便利です。江戸の三大改革(享保・寛政・天保)の二番目にあたります。
A. 松平定信が1801年に白河藩(現在の福島県白河市)に造った公園で、日本最古の公園とも言われています。「士民共楽(武士も庶民もともに楽しむ)」という、身分をこえてみんなが楽しめる場所をめざした理念で知られています。現在も桜や紅葉の名所として親しまれています。
まとめ

「白河の清きに魚もすみかねて」…か。民の不満はわかっておる。しかし、誰かが嫌われ役になってでも、ゆるんだ世を正さねばならなかったのだ。後の世が、どう評価するかは…民にゆだねよう。

以上、松平定信のまとめでした。下の記事で寛政の改革についても詳しく紹介しているから、あわせて読んでみてください!
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1759年田安徳川家(御三卿の一つ)初代当主・宗武の七男として誕生。徳川吉宗の孫
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1774年白河松平家の養子となる(15歳)
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1783年白河藩主となる(24歳)。この頃、天明の大飢饉に対応
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1787年老中首座に就任。寛政の改革を開始
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1789年棄捐令を発令。囲米・人足寄場も整備
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1790年寛政異学の禁を発令(朱子学のみ正統化)
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1791年出版統制・風俗の取り締まりを強化
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1793年将軍家斉との対立で老中を辞任・失脚。寛政の改革が終わる
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1801年南湖公園を開園(日本最古の公園とも言われる)
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1800年集古十種の刊行を開始(寛政12年)
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1829年江戸で死去。69歳
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📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』
Wikipedia日本語版「松平定信」(2026年5月確認)
コトバンク「松平定信」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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