今回は、戦後のGHQによる日本の占領政策について、わかりやすく丁寧に解説していくね。
GHQとは
GHQとは、連合国が敗戦した日本を占領するために立ち上げられた組織です。
正式名称を連合国軍最高司令官総司令部。
日本では、総司令部の英語表記『General Headquarters』のG・H・Qの3文字を採って、GHQと呼んでいます。
※連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers )の4文字を採ってSCAPと呼ばれることもあります。
1945年8月、日本はポツダム宣言の条件を受け入れ、連合軍に対して降伏。
日本は、太平洋戦争に敗北しました。
GHQの目的
日本が受け入れたポツダム宣言には、日本に対していくつもの条件を課されており、その条件の1つが
日本は連合軍の占領下に置かれる。
というもの。
そして、占領下に置いた日本を統治するための組織がGHQでした。
GHQに与えられたミッションは大きく2つ。
日本を非軍事化させること
日本を民主化させること
でした。
GHQは、日本の非軍事化・民主化によって、日本を再び戦争を起こさない国に変えてしまおうと目論んだのです。
GHQの日本占領の目的は、別の言い方をすれば『ポツダム宣言に掲げられた日本に対する条件・制約を実現させること』と言うこともできるよ。
というのも、日本の非軍事化と民主化もポツダム宣言に掲げられていた条件の1つだったし、GHQの政策はポツダム宣言をベースとしていたんだ。
GHQによる日本統治の仕組み
GHQによる日本統治には大きく2つのポイントがありました。
そのポイントというのが、「間接統治」と「アメリカによる統治」です。
どちらもGHQによる日本統治を理解する上で重要な部分になります。
それぞれ、詳しく紹介しておくね!
ポイント1:間接統治
GHQによる日本統治は、間接統治という仕組みで行われました。
間接統治っていうのは、GHQが直接日本を統治するのではなく、
GHQが日本政府にさまざまな命令・指示を送って、国の統治自体は日本政府に任せる方法のことを言います。
図解するとこんな感じです。
GHQはポツダム勅令と呼ばれる命令を出すことで、日本政府に対してさまざまな命令・指示を出しました。
※ポツダム勅令は、当時の憲法(大日本帝国憲法)を超越するものであり、もし日本政府がポツダム勅令の命令に逆らうようなことがあれば、GHQには直接日本の政治に介入する権限まで与えられていました。
ポイント2:アメリカによる統治
もう1つのポイントは、「日本は連合軍の占領下に置かれた。」と言いながら、実際に日本の占領政策について決定権を持っていたのはアメリカだけだったという点です。
太平洋戦争は、日本VS連合軍による戦争でしたが、その戦いのほとんどが日本VSアメリカによるタイマン勝負でした。
そこで、日本との戦いに一番貢献したアメリカが日本統治に関して主導権を持つようになったのです。
GHQの組織図
日本政府に直接命令を下すのはGHQでしたが、そのGHQが政策を決定するため、GHQの背後にはいくつかの組織が設立されていました。
GHQによる日本統治の仕組みは図解するとこんな感じになります。
新しく登場した「極東委員会」と「対日理事会」について、それぞれ詳しく紹介して起きます。どちらもGHQに関連してよく出題されるワードです!
極東委員会
日本の占領政策を決める最高意思決定機関。
1945年12月に設置され、11カ国(後に13カ国)で構成されていました。
日本の占領政策は極東委員会によって決まり、それを実行するのがアメリカ&GHQでした。
極東委員会の決定は、参加国による多数決・話し合いによって決まりました。
・・・が、アメリカにだけは特権が与えられていて、
緊急時には極東委員会の決定を待つことなく、アメリカの独断で決定を下してOK
というルールが設けられていました。
※極東委員会の決定を待たずにアメリカが決定を下せる特権のことを「中間指令権」と言います。
極東委員会は形式上は最高の意思決定機関だったけど、アメリカが中間司令権を持っているせいで、実際はほとんどの政策がアメリカの意向によって決まりました。
対日理事会
アメリカ・イギリス・ソ連・中国の4カ国で構成されるGHQの諮問機関。
対日理事会は、あくまで意見を出す場であり、何かを決める権限は持っておらず、さらにGHQが対日理事会に意見を聞かずに政策を決めてしまうこともあったので、対日理事会の影響はごく一部に限られました。
GHQによる占領政策
繰り返しになりますが、GHQのミッションは日本の非軍事化と民主化です。
それぞれの具体的な政策をまとめておきます。
治安維持法・特別高等警察の廃止
政府に逆らうものを問答無用で弾圧して、日本の軍国主義の原動力にもなっていた治安維持法・特別高等警察が廃止されました。
特別高等警察は、1910年に起きた大逆事件をきっかけに共産主義者を取り締まるための組織。
治安維持法は、1925年に制定された普通選挙法によって共産主義が広まることを防ぐために作られた法律。
いずれも、もともとは共産主義者を弾圧するための制度でしたが、次第に拡大解釈され、政府に逆らう者にまで対象が広がっていきました。
人権指令
GHQは、治安維持法などによって捕らえられていた共産主義者などの政治犯を即時釈放するよう日本政府に命令しました。
この命令のことを人権指令と言います。
日本の民主化を進めるためにも、思想弾圧によって虐げられていた人々(その多くが共産主義者)を解放する必要があったんだ。
公職追放と東京裁判
解放された人々がいる一方、戦争に関与した人々には重い処分が下されました。
■公職追放
1946年1月、GHQは日本の民主化に相応しくない人物を公職から追放するよう日本政府に命令を出しました。
「民主化に相応しくない人物」には
などが挙げられ、1948年までに約21万人が公職追放の対象となりました。
■東京裁判
1946年5月、日本の戦争犯罪者を裁く国際裁判が行われました。(東京裁判)
被告人は犯罪の重さに応じてA・B・Cの3ランクに分けられ、東京裁判ではそのうち最も罪が重いA級戦犯が裁かれました。
28人がA級戦犯として東京裁判で裁かれ、そのうち7名が死刑となりました。
A級戦犯の中には、元首相だった東條英機・広田弘毅・平沼騏一郎の姿もあったよ。
五大改革
GHQは、日本の民主化を進めるために5つの大改革を日本政府に対して命令しました。
五大改革の内容はここでは説明しきれないので、別の記事でまとめる予定です!
日本国憲法の制定
1945年10月、GHQは、日本政府に対して民主的な憲法を制定するよう命令を下しました。
・・・しかし、日本政府の憲法案は天皇の統治権を認めたものであり、民主化の前提となる国民主権にはなっていませんでした。
そこで1946年2月、GHQは自ら憲法案(マッカーサー草案)を作成。
マッカーサー草案に若干の修正が加えられ、1946年11月、日本国憲法が公布されました。
GHQの方針転換
1948年、GHQはこれまでの民主化方針を大きく転換します。
方針転換の背景には、中国で起きていた内戦で中国共産党が有利に展開を進めていた・・・という事情がありました。
・・・ヤバい。中国とソ連に挟まれている日本なんて、放っておいたらあっという間に共産主義の波に飲み込まれてしまうだろう。
共産主義は、自由主義のアメリカにとっては敵だ。敵に日本を渡すわけにはいかない!!
こうして、アメリカは日本の占領方針を大きく転換しました。
方針転換その1:公職追放の解除とレッドパージ
GHQの命令によって、戦争に関与した多くの人々が公職追放されましたが、その空いたポストに共産主義者が就いてしまうことを恐れたGHQは、公職追放を解除しました。
その代わりとしてGHQは、共産主義思想を持つ者を公職から追放する方針を示します。
方針転換後の一連の共産主義者の公職追放のことをレッド=パージと言います。
方針転換その2:労働運動の規制
GHQは当初、日本に対して労働組合を世間に普及させることを求めました。
・・・が、過去の歴史から労働組合は共産主義者の温床となっていたため、公務員に限って労働組合から労働争議権を剥奪しました。
※労働争議権については、次の記事で詳しく解説しているのであわせてどうぞ!
方針転換その3:経済民主化よりも経済復興!
GHQは当初、財閥によって支配されていた日本経済の民主化を目指してました。
しかし、東アジアが共産主義に飲み込まれ始めると、GHQは経済の民主化よりも日本の経済復興を優先するようになります。
進んでいた財閥の解体は中断され、さらに日本の経済復興・安定化のためドッジ=ラインと呼ばれる新たな経済政策がスタートしました。
GHQによる占領統治の終わり【サンフランシスコ平和条約】
さらにアメリカは、日本を一刻も早く独立させ、中国・ソ連に対抗できる資本主義国家に成長させようと考えるようになります。
1951年、日本とサンフランシスコ平和条約を結び、そして1952年、7年間に及ぶGHQによる占領統治は終焉を迎えました。
日本を早く独立させて、立派な資本主義国家に成長してもらおう!
アメリカの目論見は成功して、その後日本はアメリカに次ぐ世界第2位の経済大国となり、中国・ソ連に対抗しうる大国に成長していきました。
※ただし1990年ころのバブル崩壊から日本経済は停滞し、現在は中国に抜かれて世界第3位となっています(2023年5月時点)
GHQの占領政策まとめ
ここまでの話を整理しておきます。
GHQによる日本統治の仕組み
確認問題
答: 2:極東委員会
答 2「中国が共産主義化すると、GHQは日本の民主化をより一層強化した」
「民主化をより一層強化した」の部分が誤り。
中国が共産主義化して1949年に中華人民共和国が建国されると、GHQは日本の民主化よりも、政治の安定・経済復興を優先するようになりました。
日本では共産主義者を公職や会社から追放するレッドパージが行われ、さらに経済政策も経済の民主化よりも経済復興が重要視されるようになり、新たにドッジ=ラインと呼ばれる経済政策が始まりました。
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