今回は、1937年に中国で起きた第二次国共合作という出来事について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
第二次国共合作とは
第二次国共合作とは、1937年、犬猿の仲だった中国国民党と中国共産党が協力関係を結んだ出来事のことを言います。
「合作」というのは、中国語で「協力関係」という意味。
つまり、国共合作とは、中国『国』民党と中国『共』産党が『合作』した(協力した)という意味になります!
第二次国共合作までのおさらい
まず大前提として知っておきたいのは、国民政府と共産党は、基本的に犬猿の仲だということです。
国民政府は、孫文の意思を受け継いで民主的な政治を目指していた一方、
共産党はその名前のとおり共産主義社会を目指していました。
両者は、相反する政治理念を持っていたため、まさに水と油のような関係だったのです。
しかし、犬猿の仲にも関わらず、両者は1924年・1937年と2回にわたって協力関係を結んでいます。
なぜ、犬猿の仲だった両者がわざわざ協力関係を結んだのか?
その理由は、両者が協力せざるを得ないほどの強敵が出現したからです。
その強敵とは、第一次国共合作の時(1924年)は軍閥政権。
そして第二次国共合作(1937年)の時の強敵は日本でした。
なるほど!
中国で国共合作が起こるときっていうのは、強敵がいて国民政府・共産党が協力せざるを得ない状況に追い詰められた時ってわけだね。
でもさ、日本はなぜ国民政府・共産党から共通の敵と見なされてしまったの?
それは、1930年代に入ると日本が中国への侵略行為を強めていったからなんだ。
念のため、第二次国共合作が起こるまでの流れを時系列で整理してみたから確認しておこう!
- 1924年
軍閥政権を倒すため、国民政府と共産党が手を結ぶ
- 1927年第一次国共合作が解消
犬猿の仲だった両者の関係は、長くは続きませんでした。
- 1928年国民政府、単独で軍閥政権を倒す(北伐)
共通の敵(軍閥政権)がいなくなると、国民政府と共産党は争いを再開して、中国は内紛状態に陥る。
- 1931年満州事変が起こる。
内紛による混乱に乗じて、日本が満州を軍事制圧!
- 1932年日本、満州国を建国する。
日本は満州を中国から分離させることに成功する。
- 1935年ころ日本、華北分離工作を開始
日本は、満州に続いて満州に隣接する華北地方を中国から分離させることを企む。
- 1936年
国民政府と共産党が停戦する。
- 1937年7月
日本軍と中国軍が盧溝橋という場所で軍事衝突する。
- 1937年8月
盧溝橋事件は上海に飛び火して、上海で本格的な戦闘が起こる
- 1937年9月第二次国共合作
強敵である日本に対抗するため、国民政府と共産党は再びタッグを組む
西安事件【国民政府と共産党が停戦する】
ずーっと内紛を続けていた国民政府と共産党でしたが、1930年代に入って日本が中国への侵略を強めていくと、国民政府の中には『俺たちが倒すべき本当の敵は、共産党じゃなくて日本なのではないか?』と考える者が現れるようになります。
・・・が、それでも国民政府は日本との本格的な交戦は避けて、共産党を殲滅することを優先しました。
中国の内紛は、国民政府に有利な展開が続き、1934年には共産党の拠点であった瑞金が陥落。共産党はソ連に近い延安という場所を目指して、大遠征を行いました。(長征)
国民政府が共産党の殲滅に王手をかける中、不利な立場に立たされていた共産党は、国民政府の攻撃を逸らすため、『今は内紛をやめ、民族が一致団結して侵略を強める日本と戦うべきだ!』と訴えていました。
日本へのスタンスが大きく異なる両者でしたが、1935年頃から日本が華北分離工作をスタートすると、1936年、大きな事件が起こります。
それが西安事件です。
国民政府の重要人物だった張学良が『俺たちの本当の敵は共産党じゃなくて日本だったんだ!』と考えて、国民政府トップの蒋介石を捕らえ、共産党に身柄を渡してしまったのです・・・。
事件の起きた場所が、西安という場所だったから西安事件と呼ばれているよ。
西安事件の結果、蒋介石は釈放されたものの、国民政府はこれまでの態度を一変し、共産党が要求する内紛停止を受け入れました。
ただし、国民政府は停戦こそ受け入れたものの、共産党の言う『民族が一致団結して日本に抵抗しようぜ!』という話には否定的でした。
ところが、1937年8月に起きた第二次上海事変によって日本軍VS中国軍の本格的な戦闘が始まると、国民政府も遂に覚悟を決めて、日本と戦うことを決意します。
第二次国共合作、成立
日本と戦う覚悟を決めた国民政府ですが、日本はアジア最強の国。闇雲に戦っても勝利をするのは困難です。
そこで国民政府は、ソ連から支援を得ることを考えます。
ソ連は社会主義国家なので、国民政府の政治理念とは相反する存在なんだけど、日本に勝つため、背に腹は変えられない状況だったんだ。
そして、ソ連の支援を求めた国民政府は、ライバルだった共産党とも急接近します。
ソ連と中国共産党は、共産主義の国際組織であるコミンテルンを通じて繋がっていました。
つまり、国民政府がソ連からの支援を得るには、中国共産党との協力体制を構築することが必要だったのです。
急接近した国民政府と共産党は1937年9月、日本に対抗するため共闘することを宣言。こうして2回目の国共合作(第二次国共合作)が成立しました。
第二次国共合作が中国・日本に与えた影響
第二次国共合作によって中国は、ソ連からの支援を得ることに成功し、さらには国として一致団結して日本と戦うことができるようになりました。
盧溝橋事件が起きた当時、日本は盧溝橋事件のことを『局地的な小競り合いなんだからすぐに終わるだろ』ぐらいにしか考えていませんでした。
ところが、第二次上海事変で戦線が拡大し、第二次国共合作で中国が一致団結したことで、日本の目論見は大きく外れることになります。
中国の抵抗が激しくなると、なし崩し的に日本も攻勢を強め、日中戦争は当初の予想に反して総力戦の様相を呈するようになりました。
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