今回は、北条泰時が新しく作った連署という役職について、わかりやすく丁寧に解説していくよ
連署とは
連署とは、執権を補佐するために置かれた役職のこと。鎌倉幕府の実質的なNo.2のポジションです。
「執権ってなに?」って方は、以下の記事も合わせて読んでみてくださいね↓↓
鎌倉幕府の公式文書は、執権がサイン(署名)をすることで初めて効力を持ちます。それが連署が登場すると、公式文書には、執権と連署、2名のサインが記されるようになりました。
公式文書に、執権と『連』なって『署』名するほどの偉いポジション・・・ということで、この鎌倉幕府No.2の役職のことを連署と呼ぶようになりました。
No.2とはいえ、連署は公式文書にサインをする立場にあったため、補佐する立場とはいえど、当初は執権と同格の権力を持っていました。
※連署が置かれた当時の政治を「両執権制」と言うこともあるほどです。(高校の日本史では習いません)
しかし、世の中には『2人の良将、1人の愚将に及ばず』という名言もあります。トップが2人いると組織がまとまらず、1人の愚将がまとめた組織の方が優れているという意味です。
連署はまさに、2人の良将を鎌倉幕府のトップに立たせる制度。3代目執権の北条泰時は、なぜこのような制度を作り上げたのか。
その点を中心に、連署について解説していきたいと思います。
北条泰時「一人で鎌倉幕府を治めるのは不可能」(断言)
「なぜ連署が設置されたのか?」結論から先に言ってしまうと、北条泰時が自分の力だけで鎌倉幕府を治めるのは絶対に不可能だと考えたからです。
北条泰時って3代目の執権だよね?
権力者なのにめちゃくちゃネガティブ思考だけど大丈夫!?
と思う人もいるかもしれませんが、北条泰時がネガティブな見方(よく言えば慎重な見方)をしたのには、それなりの事情があります。
少し本題からそれますが、北条泰時の3代目の執権に就任したときの話です。
1224年6月、2代目執権の北条義時が急死。鎌倉幕府では、次に執権の座をめぐって争いが起こりました。
次期執権候補は2人、北条義時の息子である北条泰時と北条政村です。
北条泰時のバックには叔母の北条政子が、北条政村のバックには伊賀一族がつき、両者は水面下で陰謀バトルを繰り広げます。
陰謀バトルに勝ったのは北条泰時でした。北条政子が先手を打って伊賀一族の陰謀を見破り、伊賀一族を鎌倉から追放してしまったのです。
北条泰時は、北条政子の実力のおかげで、ライバルを倒し、なんとか3代目執権に就任できたわけです。
しかし、執権就任から一年後の1225年、北条泰時に悲劇が襲います。
1225年7月、後ろ盾として泰時を守ってくれていた北条政子が亡くなってしまったのです。
1225年6月には、北条政子と並ぶ幕府の重鎮中の重鎮、大江広元という人物も亡くなっています。
北条泰時は、執権に就任すると同時に、幕政の運営に欠かせない両腕(北条政子・大江広元)をもがれることになってしまったわけです。
すると、重要人物2人を失い裸同然となってしまった北条泰時は考えます。
鎌倉幕府を表立って取り仕切っていたのは確かに将軍や執権だが、裏で幕政を支えていたのは紛れもなく、叔母(北条政子)と大江広元殿だ。
この2人は、複雑な利害関係を持つ御家人たちを飴と鞭で巧みにまとめ上げ、しかもその功績と手腕は多くの御家人が認めるものであった。だから御家人たちは鎌倉幕府に従ってくれていたのだ。
しかし、この2人はもういない。実力のない私が、この2人の代わりをすれば、多くの御家人たちが不満を持つようになり、鎌倉幕府は荒れに荒れることでだろう。
さらに、北条泰時は考えます。
ならば、いっそのこと執権としての権力など振りかざさないほうがよい。
私は、権力を振りかざして直接御家人をまとめるのではなく、権力を利用して御家人たちが納得するような公平・公正な政治の仕組みを作ることに全力を注ぐことにする。
公平・公正だと多くの御家人が感じるような政治をすれば、力のない私でも執権として幕府を治めることができるはずだ。
叔母や大江広元殿のような実力者がいなくとも統治可能な、新しい鎌倉幕府を目指すだ・・・!!
こうして北条泰時は、
みんなが従うべきルールを定めた御成敗式目(今でいう法律のようなもの)の制定
有力御家人や仕事がデキる人たちが意見を出し合い政策を決める評定衆の設置
など、執権の権力のみに依存しない公正・公平な幕政を目指す政策を打ち出します。
その一環として、御成敗式目の制定・評定衆の設置に加えて、新しく創設されたのが連署という役職でした。
連署の設置
北条泰時は、北条政子・大江広元に代わる補佐役を、叔父の北条時房という人物に任せることにしました。
※泰時と時房には、六波羅探題を共に治めた過去があります。その経験から、北条泰時は、北条時房の人柄や実力に信頼を置いていたのです。
しかし北条泰時は、北条時房を単なる補佐役にはしませんでした。
北条時房に執権と同等の権力を与えて、2人トップ体制によって鎌倉幕府を治めることにしたのです。
なぜわざわざこんなことをしたのかというと、世間に対して北条泰時が独裁者でないことを示して、人々の不満を抑えようとしたためです。
補佐役に叔父(北条時房)を選んだのも、執権の座をめぐる北条一族内の権力争いを未然に防ぐためだった・・・とも言われています。
※伊賀氏が謀反を起こしたことを考えれば、別の者が再び謀反を起こすことは十分考えられることです。
北条泰時の一連の政策からは、北条政子・大江広元の後ろ盾を失った泰時の苦心がうかがえます・・・。
しかし、当初は執権と同等の権力をもらっていた北条時房ですが、政治を続けていくうちに、次第に北条時房は一歩引き、鎌倉幕府No2として北条泰時を支えるようになっていきます。
北条時房としては、北条泰時と協力する姿勢を示してNo2の地位を盤石にするほうが一族にとって利益があると考えたのだと思います。
同じ権力を持つ者が2人いると、必然的に争いが生まれます。北条時房はそれを嫌ったのです。そして、北条泰時も、叔父(時房)のこのような人柄を知っていたからこそ、補佐役に任命したのだと思います。(これは私個人の私見です。)
鎌倉幕府No2となった北条時房のポジションは、後に連署と呼ばれるようになります。
連署まとめ
連署の設置は、立場が不安定だった北条泰時が周囲の不満を抑え込むために行った政策の1つでした。
そして、北条泰時が考案した「連署の設置」「御成敗式目の制定」「評定衆の設置」などの政策は、大成功することになります。
北条泰時の時代は、後に執権政治が最も安定していた時代と言われるようになり、北条泰時の政策は模範として次世代に受け継がれることとなります。
1250年代に入ると得宗専制政治が始まって、執権・連署の影響力は薄れますが、それでもなお、鎌倉幕府の重要なポジションとして、鎌倉幕府が滅亡するまで存続することになるのです。
コメント