今回は、聖武天皇が741年に出した国分寺建立の詔についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
国分寺建立の詔が出された理由
国分寺建立の詔とは、簡単に言ってしまうと「全国に国分寺を建てるからよろしくなっ!」っていう聖武天皇の宣言のことです。
なぜ、聖武天皇はいきなり「お寺建てようぜ!」なんて言い始めたのでしょうか。
その理由は、
仏教の力で国を守るため!
です。
いやいやww
お寺を建てただけで国を守れるわけないっしょww
と思う人もいるかもしれません。
しかし、聖武天皇の治世は厄災のオンパレード。
天皇がいくら頑張っても地震や飢饉を止めることはできません。
天皇と言っても私の力は天の力には及ばぬのだ・・・
こうして苦悶した末に出した結論が、「仏教の力を利用する」という発想だったのです。仏教の力で国を守るという思想は、鎮護国家と呼ばれています。
下に聖武天皇の苦悩の歴史を年表で整理しておきます。
なぜ国分寺建立が国を守ることにつながるの?
聖武天皇が国分寺を建立しようとしたのは、金光明経と呼ばれるお経に書かれている教えを実行しようとしたからです。
金光明経には次のようなことが書かれていました。
このお経の内容を理解し、さらにお経を供養しその教えの普及に努める国王がいるなら、四天王が常に国王を守り、災害を防ぎ病を治し、願うところは叶え、心を常に歓喜させようぞ
・・・!!
金光明経を供養するために各地に寺院を建てて、そのお寺でお経を読むことで金光明経の教えを日本全国に広める。さすれば、日本を厄災から守れるはずだ!
(補足)聖武天皇の妻である藤原光明子の意向もあったと言われています。
こうして、聖武天皇は金光明経を供養するお寺として各地に国分寺を建てることを決めたのです。
国分寺・国分尼寺の建立はどうやって進められた?
国分寺・国分尼寺は、「各国に1つずつ設置する」というルールが決められ、その建立は各国の国司の手に委ねられることになりました。
これは現代風に言えば、国が47都道府県の知事たちに、「立派なお寺を2つ造れ!!」と言っているようなイメージですね。
朝廷は金銭面でのフォローはしましたが、それだけでは寺院建立の費用を賄うことができず、国司やそこに住む農民たちに大きな負担がのしかかることになりました。
なので、当初は全然建設が進みませんでした。
いやいや無理っしょww
ただでさえみんな貧しい生活をしているのに、寺院建立のために労役を課して増税するなんて絶対無理!
のらりくらりと先延ばしにしたろww
また生活が苦しくなる。もう限界だよ・・・!
さらに、優秀な技術者は平城京に集まっており、地方では人手が不足。おまけに凶作や疫病によって人々は日々の生活で精一杯です。
そんな人々に寺院を建造するモチベーションなどあるはずがありません。
そこで、朝廷は何度も地方の国司・郡司のお尻を叩き「国分寺・国分尼寺の建立を成し遂げてくれたら、国司・郡司たちを子孫の代まで手厚く保護するよ!」となどと褒美をチラつかせることで、747年ころ、ようやく各地の国分寺・国分尼寺の建設が本格的に始まるようになりました。
国分寺建立の詔が発表された2年後には、大仏造立の詔も発表され、国分寺・国分尼寺と同時並行で大仏の造立も進められたわけなので、民衆への負担は相当なものとなりました。
国分寺・国分尼寺のその後
民衆に大きな負担を強いながらも、長い時間を要して各地で国分寺・国分尼寺が建てられました。
・・・が、財源も人手もない地方で、寺院を運営することは不可能。平安時代になると国分寺・国分尼寺は次第に廃れて、廃墟になったり別な寺院になったりしました。
廃れたとはいえ、今でも跡地がわかっていて史跡になっている国分寺跡地もあります。
国分寺・国分尼寺は国府(各国の中心地。今で言う県庁所在地)にあることが多かったので、「国分寺の跡地が発見された=奈良時代にはその辺が地方の中心地だった」ということになり、国分寺・国分尼寺の史跡は地方の歴史を知る上でとても貴重な史跡の1つとなっています。
国分寺市にある武蔵国の国分寺跡地なんかは有名です。
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