今回は、6代目の室町幕府将軍「足利義教」についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
足利義教「僧侶として生きるはずだったのに・・・」
1394年、足利義教は、三代目将軍の足利義満の息子として生まれます。
兄の足利義持が次期将軍候補だったため、足利義教は幼くして仏門に入ります。
義教が仏門に入ったのは、義教を俗世から離すことで、将軍位をめぐる争いの芽を最初から摘んでしまうためです。
争いを起こさぬよう息子を仏門に入れさせることは、室町時代以前からよく行われていることでした。
足利義教は、青蓮院というお寺に預けられ、1408年には青蓮院の代表者(門跡)となり、1419年には天台宗のトップ(座主)になります。
こうして、着実に仏道を極めようとしていた矢先、1428年に、突如として「お願い足利義教!突然だけど将軍になって!!!」というお願いを受けることになります。
その頃、室町幕府では深刻な問題が起こっていました・・・。
くじ引き将軍、誕生
兄の足利義持は、1394年に父である足利義満の後を受け継ぎ4代将軍となりました。
その義持も1423年には将軍位を息子の足利義量に譲りました。ところが、1425年、5代将軍の義量が19歳の若さで急死。
若い義量には子供がおらず、将軍の後継者が空席になると、元将軍の足利義持が応急処置的に、幕政をまとめることになります。
しかし、その義持も1428年1月病に倒れ、危篤状態に陥ります。義持の側近だった満済は、義持に後継者を急ぎ指名するよう求めます。
義持どの。今後の室町幕府のため、どうかすぐに後継者を指名してください。
悪いが、私は後継者を指名する気はない。
私はもう助からない。近いうちに亡くなるだろう。
私の後継者は、みなで話し合って決めてくれ。
有力守護たちはみんな、自分に都合の良い人物を将軍にしたがっている。
私が誰かを指名すれば、それに不満を持つ勢力が必ずいる。そうすれば、幕府内に争いが起こるのは必須。
だから、次の将軍は有力守護たちが納得のいく形で決めるのがベストなんだよ・・・。
義持の心中を察した満済は、三管領をはじめとする有力守護たちを集めて次のような提案をします。
次の将軍候補は4人いる。4人とも義持の兄弟でみんな出家済みだ。
そこで提案がある。みんなが納得する方法ということで、次の将軍を公平にくじ引きで決めようと思うのだがどうだろうか。
当時、くじ引きの結果は神の意志だと考えられていました。だから、くじ引きの結果は、どんな不満があろうとも受け入れるしかないのです。
その意味で、平和的に将軍を決める方法として、くじ引きは実に良い方法でした。
有力守護たちも事情を察したのでしょう。この提案は受け入れられ、1428年1月17日、石清水八幡宮で室町幕府の命運をかけたくじ引きが行われます。
くじ引きの結果がでましたぞ。
結果は・・・、足利義教どの!!
その翌日(18日)、結果を見届けて安心したのか足利義持は帰らぬ人となりました・・・。
僧侶として生きるつもりだった足利義教は、一度は将軍になることを辞退しますが、幕府主要メンバーの強い要請によって、義教は将軍になることを引き受けます。
俗世を捨てた僧侶が将軍になることは異例の事態だったので、色々と準備をした上で、1429年に正式に将軍となりました。
正長の土一揆
当時、将軍が代替わりすると人々は新しい庶民に優しい政治を期待する風習がありました。
借金地獄で生きるのが辛いよぉ・・・。
でも、将軍様が変われば明るい未来が待ってる。きっと借金も帳消しにしてくれるはずさ!!
・・・しかし実際のところ、将軍が変わったぐらいで借金帳消しになどするわけがありません。この思想と現実のギャップに庶民たちは大激怒しました。
民たちが団結(一揆)して権力者に抵抗することは以前からありましたが、1428年、足利義教が将軍になることが決定したタイミングで、前代未聞の大一揆が発生しました。これを正長の土一揆と言います。
京の金貸し屋(土倉)はことごとく襲われ、建物が焼け落ちると、その隙をねらった火事場泥棒・強盗も現れ、京の情勢はカオスと化しました。
おまけに、一揆は京のみならず畿内一帯を巻き込んだこれまでにない特大規模の大暴動になってしまいます。
これから私が将軍になろうと言うのに、これでは私の面目が丸潰れだぞ・・・。
結局、幕府は徳政令(借金帳消し令)を出すことを最後まで拒みます。将軍のメンツにかけて、これだけは絶対に譲歩できませんでした。
しかし、これでは一揆を起こした人たちは納得いきません。そこで、人々は土倉に押し寄せ、幕府でなく土倉に強引に借金帳消しの約束をさせてしまいます。このように土倉が一揆の圧力に屈し、私的に借金帳消し(徳政)をすることを私徳政と言います。
1429年、次は播磨国で守護の赤松満祐に不満を持つ民衆が暴動を起こしました。(播磨の土一揆)
正長の土一揆で人々は私徳政を勝ち取っているし、俺たちも暴動を起こせば赤松満祐を追い出せるかも!?
赤松満祐は家臣を失脚させることで土一揆を鎮めましたが、度重なる大規模一揆に、将軍も有力守護たちもこれを強く恐れるようになりました。
民衆の力、おそるべし・・・。
足利義教の「万人恐怖」の政治
有力守護たちが将軍の言うことを聞かなかったり、各地で大規模一揆が起こるのは、要するに「あの将軍なら別に言うこと聞かなくてよくね?」と将軍が舐められているわけだ。
私は人々に舐められないよう、厳しい態度で政治に臨むぞ。
もともと僧侶として自らを律していた義教は、自分と同じ水準を相手にも求めました。義教本人の性格もあいまって、足利義教の厳しい態度は想像を絶するものであり、人々は義教の政治を「万人恐怖」と呼び、恐れました。
そこのお前。今、儀式の最中なのに笑っただろ。
罰として領地没収な!
闘鶏の見物客で、私の通りたい道が通れないな。
私の邪魔をするものはどんなものであっても絶対に許さん。
闘鶏なんて野蛮なものがあるからいけないのだ。ニワトリを全部、京の外に追放しろ。
そこの使いの女。
お前は酒の注ぎ方が下手くそだな。気分を害した。
責任をとって、使いの仕事をやめて出家しろ。
元僧侶の私に、法華経を勧めるとはお前何様のつもりだ?
このアツアツの鍋の中身をお前の頭にぶかっけてやるから、二度と私の前で馬鹿な真似はするなよ。
このように、気分を害する行為や些細な失敗を決して許さず、容赦のない処罰を下すことから、人々は足利義教を強く恐れました。
このような万人恐怖の政治は、
・将軍の権力と権威を失墜させない
・元僧侶という義教の経歴と、その性格
によるところが大きいです。「暴君として振る舞いたかった」とかそんな気持ちはなかったものと思います。
しかし、足利義教はやりすぎました。恐怖で人を従わせようとすればするほど、これに対抗しようとする反対が生まれます。
後述しますが、足利義教は自らの万人恐怖の政治で、足下をすくわれることになります・・・。
足利持氏「僧侶風情が将軍になるとは生意気な」
正長の徳政一揆や播磨の土一揆に見られるように、義教の力はまだまだ不安定なものでした。
この状況を打破するため、足利義教は万人恐怖の政治をはじめますが、足元の統治もおぼつかない義教の様子を見て、「やはり、自分こそが将軍にふさわしい」と考えた人物がいます。
それが鎌倉公方だった足利持氏という人物でした。
足利持氏は、くじ引きが行われた頃から、自分が将軍に選ばれないことに強い不満を持っていました。
足利持氏「確かに俺は足利義持の直系ではない。でも、足利氏の血筋であり、関東を支配する覇者だ。僧侶4人からくじ引きで将軍を決めるよりも、俺が将軍になるのが普通では?」
そして、足利義教が将軍に選ばれると、これに不満を持つ足利持氏は京への出兵計画まで企てます。この出兵計画は、鎌倉府のNo2である関東管領の上杉憲実がなんとか制止しますが、関東は不穏な空気に包まれました。
その後もしばらく、足利持氏が不穏な動きを続けていると1438年、足利義教はついに暴走する鎌倉公方(足利持氏)を討つことを決意します。
私に逆らい、不穏な動きを続ける足利持氏は絶対に許さない・・・!!
こうして、幕府軍は関東へと攻め込み、足利持氏を自害へと追い詰めます。(永享の乱)
さらに1440年、足利持氏を支持していた勢力が持氏の遺児を立てて反旗を翻すと、これも鎮圧し、ようやく関東地方の平定に成功しました。(結城合戦)
恐怖で人々を従わせ、武力によって鎌倉公方の暴走鎮圧にも成功し、義教の政治は順調そうですが、結城合戦の後、幕府内で前代未聞の大事件が起こることになります・・・。
嘉吉の変【足利義教の最期】
1441年6月、結城合戦勝利の祝勝会が、有力守護だった赤松満祐の邸宅で開かれます。
足利義教がそこで催された猿楽能を見ていると、突如として武者が会場に突入し、足利義教に襲いかかります。
祝宴会は赤松満祐のワナだったのです。この足利義教暗殺事件のことを嘉吉の変と言います。
赤松満祐が突如として義教を命を奪ったのにはちゃんと理由があります。
赤松満祐が分家の赤松貞村と家督争いをしていると、これに足利義教が介入。足利義教は赤松貞村に肩入れしました。
将軍が、有力守護の家督争いに介入して、事態を複雑化させ、その一族全体の力を弱めようとするのは、当時の常套手段でした。
3代将軍の足利義満なんかは、自分の権力UPのため、家督争いを巧みに利用していました。
これに赤松満祐がブチ切れたわけです。とはいえ、万人恐怖とまで言われた足利義教に抗議をするのは簡単ではありません。
安易に抗議すれば、赤松氏も結城合戦で滅びた鎌倉公方と同じ道を辿るかもしれないからです。
抗議がダメだとすれば、もう足利義教そのものを消すしかない・・・。赤松満祐はそう考えました。
恐怖政治への不満は、このような過激な反対派を産むことになり、足利義教は自らの政治に足下をすくわれてしまった形です。
足利義教亡き後・・・
血塗られた祝宴の主催者である赤松満祐は、嘉吉の変で足利義教に一矢を報いた後、自分も死ぬつもりでした。
将軍暗殺という大事件を公然と起こしたからには、捕らえられ処刑されるだろう・・・と考えていたからです。
しかし、恐怖政治とはいえ権力を誇った足利義教の死は、多くの人たちに衝撃を与え、京はパニック状態へ。混乱の中、すぐに赤松満祐を討とうとする者も現れず、赤松満祐はラッキーにも自国(播磨国)へ帰国することができました。
公家の日記「看聞日記」には、当時の様子について次のように記しています。
将軍が暗殺された大事件だというのに、義教の後を追って腹を切る人もいなければ、赤松満祐を討とうとする者もいない。諸大名たちも実はグルだったのではないか?
まぁ、足利義教が赤松満祐を攻撃しようとした報復攻撃なわけだから、今回の事件は義教の自業自得であろう。
将軍がこんな犬死をするなど、古来より聞いたことがない。
足利義教は恐怖政治という批判はありながらも、将軍の権力・権威を保つことができていました。実際、永享の乱・結城合戦を通じて関東平定にも成功しています。
しかし、足利義教の死によって将軍の権力・権威は完全に失墜してしまいます。
義教以降の将軍は、権力・権威を保つことができず、将軍が舐められるようになると家臣たちが自分勝手な行動を始め、これが応仁の乱や戦国時代へとつながっていくことになります。
そんな意味では、足利義教の死は室町時代のおおきな転換期となったのでした。
足利義教まとめ【年表付】
- 1394年足利義教、生まれる
- 1408年足利義教、青蓮院に預けられる
義教は仏道の道を歩むことに。
- 1428年足利義教、将軍就任
くじ引きで選ばれたのでくじ引き将軍と呼ばれる。
- 1438年永享の乱
将軍に謀反を起こそうとした鎌倉公方の足利持氏を滅ぼす。
- 1440年結城合戦
足利持氏の残党をやっつける
- 1441年嘉吉の変
結城合戦の祝賀会で、足利義教は赤松満祐によって暗殺される
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