今回は日本の古代史上最大の乱と言われている壬申の乱について、わかりやすく丁寧に解説していくね。
壬申の乱とは?
壬申の乱は、飛鳥時代の672年に起きた皇位継承をめぐる内乱です。
天智天皇が崩御すると、その後の天皇の座をめぐって
※崩御:天皇が亡くなること
大友皇子(天智天皇の息子)
VS
大海人皇子(天智天皇の弟)
が争い、壬申の乱にまで発展しました。
壬申の乱の勝者となったの大海人皇子でした。大海人皇子は勝利した後、天武天皇として即位。
天武天皇は勝利の後、数々の大改革を断行し、日本の歴史に大きな影響を与えることになります。
壬申の乱が起きた時代背景
話は、天智天皇が即位した668年までさかのぼります。
天智天皇は即位すると、弟の大海人皇子を要職に就かせて、自らの右腕とします。
大海人皇子は、天智天皇が即位する前から実力を振るっており、当時は次期天皇の最有力候補でもありました。
・・・ところが、671年になると事態は大きく動きます。
大海人皇子は突如として要職を外され、その代わりとして大友皇子が重要な役職に任じられたのです。
要するに兄上(天智天皇)は、私を次期天皇候補から除外して、子の大友皇子に皇位を継承することに決めたってことさ。
私のこれまでの努力はなんだったのか・・・。
天智天皇がなぜ心変わりをしたのか、理由ははっきりとはわかっていません。
天智天皇と大海人皇子の間で何かトラブルがあったのか、単にかわいい息子に跡を継がせたかったのか・・・真相は闇の中です。
この天智天皇の心変わりは、大海人皇子の今後のキャリアに大きな影を落とします。
というのも、もともと皇位継承の有力候補だっただけに、大海人皇子は『大海人皇子は皇位を手に入れるため、謀反を起こすのでは?』と朝廷から危険人物視されるようになってしまったのです。
そんな状態では朝廷での栄達も見込めず、さらに、少しでも不穏な動きをしようものなら謀反の嫌疑で命を奪われる可能性だってあります。
671年10月、病に伏していた天智天皇は大海人皇子を呼び出して次のように語りかけます。
私はもう長くないだろうな。
大友皇子はまだ若い。私亡き後は、お前が天皇になれ。
・・・これは罠だ!
なんとも兄上らしい策だな。ここでもし私がイエスと言えば、おそらく皇位簒奪の嫌疑で私の命は奪われるだろう。
そうなれば、大友皇子の即位は安泰というわけだ。
天智天皇は、過去に似たような手法で有間皇子を消し去っているので、大海人皇子が警戒するのも無理のない話だったんだ。
天智天皇の発言を不審に思った大海人皇子は、こう返答します。
兄上、私には天皇になれるような器ではありません。
大友皇子が成長するまでは、皇后(天皇の正妻)を天皇にするのが良いのではないでしょうか。
私は吉野へ出家しようと思っております。
出家して吉野へ行く・・・か。それも良かろう。好きにするが良い。
お前の方から勝手に朝廷を離れてくれるのなら好都合だ。
朝廷を離れるというのなら、弟の命を奪う必要まではあるまい。
・・・実はこれ、大海人皇子の策略でした。
大海人皇子は、朝廷の監視の逃れるためひとまず吉野に逃げ込んで、そこで逆転のチャンスを待つことにしたのです。
大海人皇子の野心を見抜いていた人の中には、こう話すものもいました。
大海人皇子を朝廷の監視の外に置くなんて、虎に翼を付けて野に放つようなものだよ。絶対に危険だって・・・!
672年1月、天智天皇が崩御すると、大友皇子がその後継者として朝廷政治を仕切るようになりました。
※大友皇子は天皇即位して弘文天皇になった・・・とも言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。
天智天皇が崩御してしばらく経つと、なんとも物騒な情報が大海人皇子の耳に入ります。
大友皇子が、美濃・尾張で天智天皇のお墓を作るっていう名目で、危険分子の大海人皇子を倒すために兵を集めているらしいわよ。
後手に回れば勝ち目はない。
チャンスは今だ!今こそ我が挙兵し、実力によって皇位を我が手中に収めるのだ!!
672年6月、大海人皇子はついに挙兵を決断。
こうして日本の古代史上最大の内乱とも言われる壬申の乱が始まりました。
壬申の乱が起きたきっかけ
6月22日、大海人皇子は使者を送り込んで、都(近江宮)と東国をつなぐ不破の道の封鎖を命じました。
先手を打って不破の道を封じてしまえば、朝廷は東国に援軍を求めることができなくなる。
ここを制圧することが大友皇子に勝利するための必須条件だ。
不破は今でいう関ヶ原(岐阜県)に位置していて、古来より日本の東西を結ぶ要所でした。
1600年に起きた天下分け目の戦いが関ヶ原(不破)で起きたのは決して偶然ではなく、ここが東と西を結ぶ重要な場所だったからです。
6月24日、大海人皇子も吉野を出発し、不破を目指します。
大友皇子による監視が厳しかったため、護衛を付けることもできず、妻子も含めてわずか10名程度での危険な旅路だったと言われています。
上の地図を見たらわかるけど、今でいう京都と名古屋の間には山々が連なっていて、簡単に行き来することはできないんだ。
山を越えるには不破・鈴鹿の2つのルートがあって、天武天皇は吉野→鈴鹿と山を越えて不破に入ったと言われています。
6月27日、大海人皇子は無事に不破に到着。
出発時はまともな兵力を持たなかった大海人皇子ですが、道中で味方を増やし、不破に着いたときには数百名の規模にまで膨れ上がります。
大海人皇子が多くの加勢を得られた背景には、天智天皇の政治に対する豪族たちの強い不満がありました。
天智天皇は、663年の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れると、唐・新羅からの報復攻撃を警戒し、国防のため、民に負担を強いる政策を行ってきました。
これらの負担に各地の豪族たちは不満を持っていることを知っていた大海人皇子は、この不満を利用して、味方を増やすことにしたのです。
そなたらが、今の政治に不満を持っていることは私も十分承知している。
今こそ立ち上がるときぞ!我と共に近江宮の朝廷を討ち滅ぼそうぞ!
大海人皇子最高っ!
今まで我慢してた分、思いっきり暴れてやるぞ!!
7月2日、攻撃準備を整えた大海人皇子は、いよいよ近江宮めがけて進軍を開始します。
壬申の乱の経過
一方、近江宮にいた大友皇子は、「大海人皇子挙兵!不破に陣を構える!」との知らせを受けると、各地に援軍要請を出します・・・が、この命令はうまく機能しません。
東国に援軍を呼ぼうにも、不破を大海人皇子に抑えられたため援軍を呼ぶことができず、
西区に援軍に呼ぼうとすれば、『すみません、防人の対応で手一杯なんです・・・』と断られる始末で、
結局、大友皇子が集めることのできた兵力は畿内の豪族たちに限られました。
くそっ!大海人皇子にしてやられた!!
しかし、まだ負けたわけではない。絶対に大海人皇子を近江宮には入れさせぬぞ!
おまけに、大和地方(今の奈良県)では、一部の豪族が近江宮から離反。
離反した豪族たちは、大海人皇子に加勢して近江宮を目指しました。
こうして壬申の乱は、不破・大和から近江宮を目指す2方面攻撃となります。
大海人皇子サイドが『朝廷ぶっ倒す!』と一致団結していたのに対して、一方の大友皇子サイドは豪族たちを統率することができず、軍の足並みを揃えることができません。
大和から近江宮を目指す部隊はやや苦戦したものの、不破から近江宮を目指す部隊は連戦連勝の快進撃を続けます。
そして7月22日、不破から出撃した大海人皇子軍は、近江宮の最終防衛ラインであった瀬田川で大友皇子軍と対峙します。
瀬田川の大友皇子軍を突破すれば、大海人皇子の勝利が確定するため、瀬田川の戦いは事実上の最終決戦となりました。
瀬田川にかかる橋(瀬田の唐橋)をめぐって、両軍の激しい攻防が繰り広げられます。
統率を欠いていた大友皇子軍も、このときばかりは奮戦し、大海人皇子軍を苦しめました。
川の両岸からは矢の雨が降り注ぎ、橋の上は兵で埋め尽くされます。
戦いは1日で終わり、大激戦の末、瀬田川を制したのは大海人皇子でした。
その翌日の7月23日、最終防衛ラインを突破され敗北を悟った大友皇子は、自ら命を絶ち、壬申の乱は終結しました。
壬申の乱の後【天武天皇の朝廷大改革が始まる】
壬申の乱によって旧勢力が一掃されたことで、大海人皇子は天武天皇となり、政治の大改革を断行しました。
当時の日本は、唐が皇帝の絶大な権力で治められているのを見て、日本も天皇の権力を高めて、その強大な権力によって争いのない安定した政治を目指していました。
天武天皇は、壬申の乱の勝利を政治改革のチャンスと捉え、多岐にわたる大改革を断行したのです。
藤原京への遷都
即位した天武天皇は都を飛鳥に構えると、自らの強大な権力にふさわしい都として、さっそく藤原京造営に着手します。
これまでの日本では、「天皇が変わるごとに遷都する」という習慣がありました。
しかし、天武天皇はこの習慣を廃止し、藤原京を国の中心地として未来永劫活躍できる大都市にする構想を持っていたのです。
藤原京の造営は天武天皇が崩御した後も続けられ、694年に完成することになるよ。
藤原京以降、天皇の代替わりごとに遷都が行われることはなくなり、
藤原京→平城京→長岡京→平安京と、最後は平安京に落ち着くことになります。
八色の姓
天武天皇は皇族の身分を高めるため、氏姓制度の改革も行いました。
当時の最高ランクの姓は臣・連でしたが、天武天皇は、この上にさらに高いランクの真人・朝臣・宿禰の姓を新たに設定して、皇族や皇族と関係の深い氏に与えました。
・・・つまり、これまで最高ランクだった臣・連の氏族は、皇族たちより格下になったということです。
こうして、皇族や皇族と関係の深い氏しか高い身分に慣れない新しい氏姓制度が出来上がりました。
天武天皇は氏を新たに8つの姓でランク付けしたので、この新しい氏姓制度は八色の姓と呼ばれています。
富本銭の鋳造
天武天皇は、自らの絶対的権力を世に示すため、お金である富本銭を鋳造しました。
飛鳥浄御原令の編纂
天武天皇は、自らの絶対的権力にふさわしい律令(今でいう法律)を制定する準備にも着手しました。
藤原京と同じく、飛鳥浄御原令も天武天皇が崩御した後の689年に完成したよ。
古事記・日本書紀の編纂
天武天皇は、天皇が日本で一番偉いことを証明するため、日本の過去の歴史をまとめた古事記・日本書紀の編纂にも着手しました。
古事記・日本書紀の編纂には長い年月を要し、古事記は712年、日本書紀は720年に完成しました。
『天皇』という称号
天皇という称号を用いるようになったのも天武天皇だと言われています。
※天武天皇以前は、天皇のことを「大王」と呼んでいました。
さらに天武天皇は、天皇を太陽神(天照大神)の子孫だとして、天照大神を祀る伊勢神宮を重要視しました。
天武天皇以降、伊勢神宮は天皇と深い結びつきを持ち、現代にまで至っています。
確認問題
答:③大友皇子
答:①
②:天武天皇は、近江宮から一度飛鳥に遷都して、その後藤原京の造営を開始しました。
③:八色の姓は、氏姓制度に改良を加えた制度です。氏姓制度は存続しています。
コメント
672年、天智天皇は逝去します。こうして、天智天皇に裏切られた形の大海人皇子は、天智死後の翌年(663年)、大友皇子を倒すことを決意します。