面白いほどわかる鳥羽・伏見の戦い!わかりやすく解説【なぜ幕府は負けたのか・・・】

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今回は、1868年1月に起こった鳥羽・伏見の戦いとば・ふしみのたたかいについてわかりやすく解説していきます。

この記事を読んでわかることは以下の内容です。

  • 鳥羽・伏見の戦いが起こった理由とその経過
  • 鳥羽・伏見の戦いの戦況
  • 鳥羽・伏見の戦い後、状況はどうなったか

最初に鳥羽・伏見の戦いの基本情報をまとめておきます。

鳥羽・伏見の戦い
  • 戦い時期: 1868年1月
  • 対戦状況: 新政府軍(5,000)VS旧幕府軍(15,000)
  • 戦いの場所: 鳥羽・伏見(京都市南部)
  • 結果: 新政府軍の勝利
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鳥羽・伏見の戦いまでの流れ

次に鳥羽・伏見の戦いが起こるまでの流れを確認しておきましょう。

鳥羽・伏見の戦いまでの流れ
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新政府と旧幕府の駆け引き

小御所会議で決定された徳川慶喜の新政府への加入条件は、慶喜にとって到底受け入れられる内容ではありませんでした。

しかし、それこそが新政府側の作戦です。無理難題を押し付けることで

  • 慶喜が要求を受け入れる → 幕府は力を失うからOK
  • 慶喜が要求を拒否 → 拒否を理由に戦争で幕府を倒せばOK

と、どちらにせよ幕府を倒せる状況を作り上げていたのです。

ところが小御所会議の後、山内容堂やまうちようどうという人物の神がかり的な交渉術により、新政府を、「徳川慶喜を受け入れても良いのでは・・・」という雰囲気に一転させ、小御所会議の決定は覆ろうとしていました。

巧みな弁論で朝廷の雰囲気を一変させた山内容堂

これに焦ったのが「新しい政治のため旧幕府は一掃すべし!」と考えていた新政府(薩摩藩)の西郷隆盛さいごうたかもり

山内容堂に負けじと、西郷隆盛も秘策を講じます。

西郷隆盛
西郷隆盛

江戸の民衆に金を渡して暴動を起こさせ、旧幕府を挑発する。

我慢しきれなくなった旧幕府が薩摩藩に攻撃してきたらチャンスだ。これを口実に戦争を仕掛け、旧幕府勢力を倒す・・・!

この計画は1867年10月頃から行われていましたが、王政復古の大号令の後、江戸の暴動はますます過激となりました。

そして、1867年12月25日、旧幕府は遂に江戸の薩摩藩邸を襲撃してしまいました。

12月28日、大阪城で山内容堂らの交渉結果を待っていた徳川慶喜のもとに、「江戸の薩摩藩邸、焼き討ち!」の一報が届きます。

徳川慶喜
徳川慶喜

西郷の策略にハマったか。それにしてもなんと卑怯な戦略だろう。私の部下たちも激しく憤っており、これを静止すること難しいだろう。

戦争はしたくなかったが、もはや戦で雌雄を決するほかあるまい・・・!

1868年1月2日、慶喜は兵を派遣。京都への進攻を開始します。

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鳥羽・伏見の戦い

同じ1月2日の昼、皮肉にも山内容堂らの朝廷工作が成功しました。徳川慶喜の新政府入りが認められたのです。

しかし、夕方に「徳川慶喜、京へ進軍!」の知らせが入ると全てが水の泡になります。あと1日、慶喜が我慢していればおそらく歴史は大きく変わったことでしょう。

新政府側は薩摩藩・長州藩を中心に京都南部の鳥羽・伏見で大阪から北上してくる旧幕府軍を迎え打つことになりました。

ここから先のお話は、下の地図を参考にしながら読み進めてみてください!

最初に戦場になったのは、上の地図の緑色のアイコン黄色のアイコンのあたりでした。

開戦当時の状況
  • 緑色のアイコン:鳥羽方面。薩摩藩が中心に守備
  • 黄色のアイコン:伏見方面。長州藩が中心に守備

1月3日の正午、新政府軍と旧幕府軍は鳥羽・伏見で対峙。膠着状態が続きますが、午後5時になると鳥羽方面の薩摩軍が先制の砲撃を開始します。

鳥羽方面での戦いの様子(左:旧幕府 右:新政府)

西郷隆盛は嬉しさのあまり、後方で指揮を取るはずだったのに危険な戦場に赴き、大久保利通に叱られた・・・なんて話も残っています。この砲撃は西郷隆盛の江戸での挑発工作が完全に成功したことを意味しますから、確かにその喜びは格別だったことでしょう。

砲撃の音を聞いた伏見方面でも戦闘が起こり、いよいよ鳥羽・伏見の戦いが始まります。

伏見方面の戦い(左:旧幕府 右:新政府)

兵力は新政府5,000に対して、旧幕府15,000と旧幕府側が優勢。まだ多くの藩は新政府に疑心暗鬼であり、新政府は思うように兵を集めることができません。

鳥羽・伏見、両方面において大激戦となり戦場は焼け野原と化しますが、旧幕府軍の敗北。市街地戦のため、兵を広く置けない旧幕府軍は兵の多さを活かすことができませんでした。

1月4日、旧幕府軍は南方の淀城よどじょうを拠点に、体勢を立て直すことにします。(淀城は地図のオレンジ色のアイコンです)

しかし5日早朝、戦場から帰還した旧幕府軍の前に、淀城はその入城を拒否します。淀藩が新政府に寝返ったのです。

これに耐え兼ねた旧幕府軍は、さらに南方の石清水八幡宮いわしみずはちまんぐう付近まで後退します。(地図の青色のアイコンの辺り)

6日朝、次は津藩つはんが離反し、旧幕府軍を川の対岸から砲撃し始めます。津藩は、幕府と親密な関係にあったはずの淀藩が裏切ったことを知り、連鎖的に旧幕府を裏切りました。

淀藩・津藩の裏切りにより、旧幕府軍は拠点を失い崩壊。京へと撤退していきます。旧幕府軍の敗北です。この時、旧幕府軍として戦った新撰組は多くのメンバーを失うことになります。

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見放された旧幕府軍

鳥羽・伏見の戦いは非常に大事な戦いでした。というのも、日和見していた藩たちは、この戦いの勝者(新政府)に一気になびくことになるからです。

旧幕府軍は味方に裏切られ、様子見をしていた藩からも見限られ、窮地に陥ります。ところで、なぜ多勢だった旧幕府軍は敗北してしまったのでしょうか。

実はたくさん理由があります。

考えらえる旧幕府軍の敗因
  • 1 市街地戦で多勢を活かせなかった。
  • 2 市街地戦なのに、その地に住む人々から嫌われていた
  • 3 イギリスから大量の武器を購入していた薩長の方が最新兵器を多く持っていた

などなど。探せばもっと理由があるかもしれませんが、ここでは2番について取り上げておきます。

単刀直入に言って、江戸幕府は多くの庶民から嫌われていました。重い年貢と年々上昇する物価に人々は強い不満を持っていたのです。

そこに、天皇を中心とした新政府が登場しました。人々は期待します。

もしかしたら、新政府は私たちを江戸幕府の悪政から救ってくれる救世主なのでは・・・!?

西郷隆盛の日記には、

西郷隆盛
西郷隆盛

薩長の兵に食糧や酒を持ってきてくれる人々がたくさんいることに驚いた。これほどまでに幕府は民衆から憎まれているのだな・・・。

的な記録も残っており、江戸幕府というのは相当嫌われていたことがわかります。民心が離れてしまった幕府にはそもそも市街地戦での勝利などあり得なかった・・・とも言えるかもしれません。

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鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争終結まで

鳥羽・伏見の戦いが終わった1月7日、朝廷は「徳川慶喜追討令ついとうれい」を発令して公式に敵と宣言。

2月には京から江戸へ追討部隊が派遣されました。

この道中、新政府は人々の新政府への期待を大いに利用します。

西郷隆盛
西郷隆盛

道中、幕府に味方する者に手を出してはならぬ。年貢の半減などを伝え、これまでの幕府の苛政を思い出させるのだ・・・!

これは西郷隆盛の作戦。西郷隆盛は自らも低い出自だったので、民衆の心理をしっかりと理解していたんです。、西郷隆盛の作戦もあり、3月にはほとんど抵抗を受けないまま江戸に進攻します。

さらに4月、江戸城は開戦することなく無血開城むけつかいじょうされました。これは西郷隆盛と幕臣の勝海舟かつかいしゅうの間の話し合いにより決まります。この頃の西郷隆盛は仕事のしすぎですww

9月には会津城を攻略、翌年(1869年)5月には北海道の函館に籠もっていた旧幕府軍を倒し、鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争ぼしんせんそうが終了しました。

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鳥羽・伏見の戦いまとめ(年表)

鳥羽・伏見の戦いまとめ
  • 1867年12月25日
    江戸の薩摩藩邸焼かれる

    旧幕府、西郷隆盛の策にハマる。

  • 1867年12月28日
    徳川慶喜、新政府と戦うことを決意
  • 1868年1月2日
    朝廷で、条件付きの徳川慶喜の新政府入りが認められる
  • 1868年1月3日
    鳥羽・伏見の戦い

    1月2日の決定は放棄され、新政府と旧幕府の全面戦争へ。

  • 1868年1月6日
    旧幕府軍、敗北

    淀藩、津藩の裏切りが決定打となる。

  • 1868年1月7日
    新政府、慶喜追討令を出す。

    全国へ戦火が拡大。戊辰戦争、本格化。

  • 1868年3月
    江戸城、無血開城

    江戸が新政府の手に落ちるが、会津藩を始めとした東北諸藩と北海道に逃げた軍勢が新政府に抵抗を継続。

  • 1868年9月
    会津戦争あいづせんそう

    新政府に会津藩が敗れる

  • 1869年5月
    五稜郭ごりょうかくの戦い

    北海道で挽回を狙っていた旧幕府軍が敗北。鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争が終わる。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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江戸時代【幕末】
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コメント

  1. しっぽ より:

    おもしろ過ぎます。
    今までwikiなど様々サイトを周り、自分なりに勉強をしていました。
    詳しくと言いながら、教科書と変わらない薄さ。反対に細かすぎて本筋から少しそれている。
    そんなサイトが多い中、ここは塩梅が完璧。
    詳細に書かれているが、理解の補助や面白さを生み出すディティールのみ。細かいのに細かすぎない。
    それが自分の求めている濃さにピッタリで最高です。ついコメントしてしまいました!