

今回は672年に起きた日本最大の内乱「壬申の乱」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!大海人皇子が起こした”逆転劇”の全貌をいっしょに見ていこう!
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📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
実は壬申の乱は、当初大友皇子(近江朝廷側)が圧倒的に有利とみられていました。中央の正規軍を握り、財政基盤も整っていたからです。
ところが——史上最大の内乱と呼ばれるこの戦いは、わずか1ヶ月ほどで決着がついてしまいます。劣勢だったはずの大海人皇子が逆転勝利した鍵は、吉野から東国へと駆け抜けた”奇策”にありました。
本記事では、教科書で習う「皇位継承の争い」という1行のうしろに隠れた人間ドラマを、当時の人物の視点もまじえながらわかりやすく見ていきます。
壬申の乱とは?
① 672年、天智天皇の死後に起きた皇位継承をめぐる内乱。
② 大海人皇子(のちの天武天皇)が甥の大友皇子を破った。
③ 勝者の大海人皇子が即位し、天武天皇として律令国家の基礎を築いた。
壬申の乱は、672年(壬申の年)に起きた古代日本最大の内乱です。天智天皇の死後、皇位を継ぐべき人物をめぐって、弟の大海人皇子と息子の大友皇子が真正面からぶつかり合いました。
戦いは672年6月下旬に勃発し、7月下旬には決着がつきます。期間にしておよそ1ヶ月。短期決戦ではあるものの、勝った大海人皇子はその後天武天皇として即位し、ここから日本は律令国家の整備へと一気に進んでいくことになります。
つまり壬申の乱は、単なる兄弟ゲンカではなく、その後の日本の国家像を決定づけた歴史の大転換点だったのです。中学・高校の日本史では「いつ・誰と誰が・なぜ戦ったか」が必ず問われる超頻出テーマでもあります。

「壬申」っていうのは干支(えと)の読み方なんだ。672年は十干十二支でいうと「壬申(みずのえさる)」の年だから、その年に起きた乱で「壬申の乱」って呼ばれてるんだよ!「じんしん」って読むから注意してね。
壬申の乱の背景
壬申の乱はいきなり起きたわけではありません。天智天皇の時代に進められていた急激な中央集権化と、それに対する豪族たちの不満が、長い時間をかけて積み上がっていた結果でした。
背景は大きく3つに整理できます。順番に見ていきましょう。
背景①:白村江の戦い(663年)の敗戦と国防の強化
663年、日本軍は朝鮮半島で白村江の戦いに大敗します。同盟国であった百済はすでに滅び、唐と新羅の連合軍が今度は日本に攻めてくるのではないか——そんな不安が国中を覆いました。
そこで天智天皇は、九州に水城(みずき)や大野城を築き、対馬・壱岐に防人(さきもり)を置くなど、急ピッチで防衛体制を整えていきます。同時に、戸籍の整備や律令の制定など中央集権化も加速させました。「もう豪族任せの政治では国が守れない」という強い危機感があったわけです。
背景②:近江遷都(667年)と豪族の不満
667年、天智天皇は都を飛鳥から近江大津宮(現在の滋賀県大津市)へと移します。海から離れた内陸の地は、唐・新羅の侵攻に備える防衛拠点として理にかなっていました。

ところがこの遷都は、長年飛鳥に拠点を置いてきた地方豪族たちにとっては大ショック。住み慣れた土地を離れて遠い近江まで通うことになり、しかも近江に集まったのは天皇に近い側近ばかり。「自分たちの居場所がなくなる」という不満が、地方豪族の間で静かに広がっていきました。

飛鳥から近江って、今でいうとどれくらい距離が離れてるの?

奈良県明日香村から滋賀県大津市まで、直線距離でだいたい60km。今の感覚だと「ちょっと遠い隣県」って感じだけど、当時は徒歩か馬しか移動手段がなかったから、感覚的には海外移住レベルの大事件だったんだよ!
背景③:天智天皇の後継者問題(弟か息子か)
3つ目の背景が、もっとも直接的な乱の引き金となった後継者問題です。当時の皇位継承は、父から息子へ自動的に渡るものではなく、兄から弟へと回していく兄弟相続が主流でした。
そのため、天智天皇の後継者として有力視されていたのは弟の大海人皇子です。実際、大海人皇子は天智朝で次の天皇候補を意味する「皇太弟(こうたいてい)」と呼ばれる地位にあり、誰もが次の天皇は彼だと考えていました。
ところが晩年の天智天皇は、自分の息子である大友皇子を太政大臣に任命します。太政大臣は、天皇を補佐する政権ナンバー2ともいえる要職であり、これは事実上「次は息子に継がせたい」というメッセージでした。慣習を破る”禁じ手”を打ったわけです。

でも天智天皇には大友皇子っていう息子がいるんですよね?なぜわざわざ弟の大海人皇子に皇位を譲ろうとしたんですか?

当時の日本では「兄弟相続」が主流だったんだよ。父→子じゃなくて、兄→弟へ皇位を継いでいくのが普通だったんだ。むしろ息子に継がせるほうが異例で、それ自体が乱の火種になっちゃったんだよね。
つまり壬申の乱は「ある日とつぜん起きた内乱」じゃなくて、白村江の敗戦+近江遷都+後継者指名という3つの不満が積み重なって爆発した必然の結果だったとも言えます。背景を押さえておくと、原因の理解がぐっと深まります。
壬申の乱の原因(なぜ起きた?)
671年12月、天智天皇が崩御します。直前の10月、天皇は病床から大海人皇子を呼び寄せ、皇位を譲ろうと持ちかけました。ところが大海人皇子はこの申し出を辞退し、出家して吉野(奈良県の山深い地)へ退きます。
これは大海人皇子の側からすれば「身を守るための賢明な判断」でした。近江朝廷ではすでに大友皇子の即位準備が進んでおり、ここで皇位を受けるそぶりを見せれば、政敵として暗殺される恐れがあったからです。「自分は皇位に興味がありません」とアピールするための出家でした。

『日本書紀』には、天智天皇が病床で大海人皇子に「皇位を継いでほしい」と持ちかけたとき、大海人皇子は「私は出家して仏道を歩みたい。天下は大友皇子に授けてください」と答えたと記されています。法衣をまとって吉野へ向かったこの行動には、巧妙な計算が隠れていました——「出家者を殺すのか?」という暗黙の牽制です。もし近江朝廷が大海人皇子を討てば、「仏門に帰した者を殺した」という大義名分を失うことになる。大海人皇子はこの”盾”を手にしながら、吉野の山奥で機を静かに待っていたのです。
結果として天智天皇の崩御後、近江朝廷では大友皇子が政務を取り仕切るようになります。しかし672年に入ると、近江側が大海人皇子を討つ準備を始めているという情報が吉野に伝わってきました。「黙って殺されるか、立ち上がるか」——大海人皇子に残された選択肢は、もはや2つしかなかったのです。

このまま吉野で出家しているふりを続けても、いずれ近江の兵が攻めてくる……。ならば先に動くしかない。慣習を破ったのは兄上のほうだ——わしには戦う大義がある。

壬申の乱の原因って、テストで聞かれたときズバリ何て答えればいいの?

キーワードは「皇位継承問題」!「天智天皇が息子の大友皇子を後継者に立てた→兄弟相続の慣習に反する→対立した弟の大海人皇子が挙兵した」って流れを書けばOKだよ。「天皇の後継ぎをめぐる争い」って答えてもバッチリ正解!
📝 テスト頻出:壬申の乱の原因=天智天皇崩御後の皇位継承対立(大友皇子 vs 大海人皇子)。「次のうち壬申の乱の原因はどれか」という選択問題で出題されることが多い。誤答パターンとして「白村江の敗戦」「大化の改新」が並ぶので注意。
「壬申」は十干十二支(じっかんじゅうにし)のひとつで、「みずのえさる」と読みます。十干と十二支を組み合わせた60通りの暦サイクルのうちの9番目で、672年がちょうどこの「壬申の年」にあたりました。日本では古来、出来事に干支の年を冠して名づける習慣があり、「庚午年籍(こうごねんじゃく)」「戊辰戦争」なども同じ仕組みです。
誰と誰が戦った?
壬申の乱で戦ったのは、大海人皇子(おおあまのおうじ)と大友皇子(おおとものおうじ)の二人です。前者は天智天皇の弟、後者は天智天皇の息子。叔父と甥が皇位を奪い合った戦いでした。

勝ったのは大海人皇子。彼は乱の翌年(673年)に即位して天武天皇となります。一方、敗れた大友皇子は近江朝廷とともに敗北し、自害して命を落としました(後の明治時代になって「弘文天皇」と追号されます)。
両者の立場・拠点・支持基盤を、次のように対比してみるとよくわかります。
大海人皇子(のちの天武天皇):天智天皇の弟 / 拠点:吉野(大和国) / 支持:東国・伊勢・尾張・美濃の地方豪族
大友皇子(のちの弘文天皇):天智天皇の息子 / 拠点:近江大津宮(近江朝廷) / 支持:中央の有力豪族・渡来系氏族

📝 テスト頻出:「壬申の乱で戦った二人」→ 大海人皇子(勝者・後の天武天皇)と大友皇子(敗者・後に弘文天皇と追号)。記述問題では「叔父と甥の関係」「天智天皇の弟と息子」の関係性も合わせて答えると満点。
壬申の乱の経過・流れ
壬申の乱は、672年6月下旬の吉野脱出から始まり、同年7月下旬の大友皇子敗死で決着します。期間にしてわずか1ヶ月ほど。日本史上最大級の内乱がこれほど短期間で終わったのは、大海人皇子の電撃的な東国移動が成功したからでした。
流れを4つのステップに分けて見ていきましょう。
STEP①:吉野脱出(672年6月下旬)

近江朝廷が大海人皇子討伐の準備を進めているという報を受け、大海人皇子は672年6月24日、吉野を出発します。同行したのはわずかな従者と妻の鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)など、家族とごく少人数のみ。
一行は伊賀(三重県西部)を抜けて伊勢に入り、ここで大海人皇子は伊勢神宮に向けて遥拝(ようはい)し、戦勝を祈願したと伝えられています。神の加護を背負って戦う——大義名分を強く打ち出すパフォーマンスでもありました。
このとき鸕野讃良皇女は、幼い子どもを連れながら夜の山道を同行したと伝わります。のちに天武天皇の死後、彼女は持統天皇として即位し、藤原京の建設・飛鳥浄御原令の施行など天武天皇の遺志を継いでいきます。壬申の乱の逃避行は、その後の日本を形作る「二人の物語」の始まりでもあったのです。
STEP②:東国豪族の結集(672年6月下旬〜7月)
ここで押さえておきたいのが、大海人皇子が近江に直進せず、わざわざ伊勢・東国方面へ迂回した理由です。吉野を出た時点の大海人皇子の手勢は、家族と側近あわせてわずか数十人。近江朝廷の正規軍に正面からぶつかれる兵力など、まったくありませんでした。
だから大海人皇子は、まず東国の地方豪族を糾合することを最優先としました。伊勢・尾張・美濃の豪族たちは、天智天皇による近江遷都と急速な中央集権化によって政権の蚊帳の外に置かれ、不満をくすぶらせていました。「打倒・近江朝廷」の旗を掲げる大海人皇子の使者が届いたとき、「今こそ立つ好機」と感じた豪族は多かったのです。
さらに東国を経由することには戦略的な狙いもありました。美濃の不破関を押さえれば、東国からの援軍受け入れと近江への進撃路確保を一石二鳥で実現できるからです。東へ走って兵を集め、万全の態勢を整えてから北上する——この迂回作戦こそが「吉野の逆転劇」の核心でした。

出家したわしが、再び剣を取る——。これが最後の賭けだ。東国の豪族たちよ、どうかわしに従ってくれ!近江朝廷の横暴を許してはならぬ!

大海人皇子はなぜわざわざ吉野から東国へ向かったの?吉野から近江まで距離も近いし、まっすぐ攻め込めばよかったんじゃ……?

すごくいい質問!吉野には大海人皇子の手勢がほとんどいなくて、まともに戦える兵力がなかったんだ。だからまず東国に走って豪族たちを味方につけて、兵力を整えてから近江を攻める作戦を取ったんだよ。これがまさに”逆転の一手”だったんだ!
伊勢を抜けた大海人皇子は、美濃国(岐阜県南部)の不破関を本拠地として確保します。不破関は東国と近江を結ぶ交通の要衝で、ここを押さえれば東国からの援軍を受け入れつつ、近江への進軍ルートも断つことができる絶好の拠点でした。
大海人皇子のもとには、伊勢・尾張・美濃をはじめ東国各地の豪族が続々と合流。中央から距離を置かれて不満を募らせていた地方豪族にとって、これは中央朝廷へ意趣返しをする絶好の機会だったのです。気がつけば兵力で近江朝廷を上回るほどの大軍に膨れ上がっていました。

近江朝廷側は、大海人皇子が東国に行ったあいだ何してたの?追いかけなかったの?

近江朝廷も慌てて兵を集めようとしたんだけど、地方豪族はすでに大海人側へ傾いてた。九州や東国に派遣された使者は豪族に拘束されたり、追い返されたりして、思うように兵が集まらなかったんだよ。「中央集権」が嫌われていたツケが一気に出た瞬間だね。

地方の豪族たちが次々と叔父上のもとへ……。近江の兵だけでは足りぬ。父上が築いた朝廷が、こんなにも早く崩れるなんて……。
STEP③:主要戦闘・近江と大和の二正面作戦(672年7月)
不破関に大軍を集めた大海人皇子は、いよいよ最終攻勢に出ます。軍を二手に分け、近江ルート(北ルート)と大和ルート(南ルート)から同時に大津宮へ圧力をかける二正面作戦でした。
近江ルート:不破関→琵琶湖東岸→瀬田橋 最終決戦
近江方面の大将には高市皇子(大海人の長子)が任じられ、大伴御行ら精鋭将軍とともに琵琶湖の東岸を一気に南下します。不破を出た大軍は安河(岐阜県不破郡付近)・横河などの要衝で次々と近江軍を撃破。大友皇子が送り出した将軍たちは次々と敗れ、大津宮の防衛ラインは刻一刻と崩れていきます。
そして7月22日(旧暦)、決戦の舞台は瀬田川の橋上に移ります。琵琶湖の唯一の流出口に架かる瀬田橋は、大津宮を守る最後の砦。大友皇子は残る兵力のすべてをここに集結させ、長い橋を鈴なりの兵で埋めて守りを固めました。

橋上には槍と楯が密集し、矢が飛び交い、琵琶湖の水面に鬨の声が反響する——しかし大海人軍の猛攻は止まらない。橋の東端から波状に押し寄せる攻撃を前に、近江の防衛線は内側から崩れ落ちます。敗走する兵、川に落ちる者、支えを失った大津宮が目前に迫る——。瀬田橋での敗北が、壬申の乱の実質的な決着をつけた瞬間でした。
大和ルート:奈良盆地での迎撃戦
同じ時期、南の大和(奈良盆地)でも戦いが激しく燃え上がります。近江朝廷は羽田公阿曇・中臣金連・蘇我果安ら将軍を大和に差し向け、南側から飛鳥を制圧しようとしました。大海人側の守将・大伴吹負は当初わずかな兵力で防衛に当たります。
戦況を動かしたのは予期せぬ内部崩壊でした。近江方の有力将軍・蘇我果安が部下の手によって殺され、近江軍は大混乱に陥ります。この隙を見逃さなかった吹負の軍が猛反撃に転じ、奈良盆地を次々と制圧。南の大和が大海人側に抑えられたことで、大友皇子は北の高市皇子軍に加えて南の吹負軍にも挟まれる、絶望的な袋の鼠状態に追い込まれました。

STEP④:大友皇子の自害・乱の終結(672年7月23日)
瀬田川での敗北を受けて、近江朝廷はもはや組織的な抵抗ができなくなりました。672年7月23日、大友皇子は山中で自害し、ここに壬申の乱は終結します。吉野脱出からちょうど1ヶ月の電撃戦でした。
その後、大海人皇子はいったん飛鳥に戻り、敗者である近江朝廷の重臣たちを処分します。死刑は8人と限定的で、多くは流罪や除名にとどめました。これは新政権の地盤を固めるため、敵対勢力を残しすぎないよう配慮した結果といえます。
📖 大友皇子(弘文天皇)について:乱で敗れた大友皇子は、享年わずか23歳という若さでした。天智天皇から「文武両道に優れた後継者」として期待されていた人物だったと伝わります。瀬田川での敗北後、重臣たちと別れを告げ、山中で自害して果てた——この悲劇の皇子に「弘文天皇」という諡号(おくりな)が贈られたのは、実に約1200年後の明治3年(1870年)のことでした。
壬申の乱の結果・影響
壬申の乱の勝利によって、大海人皇子は飛鳥に新しい都(飛鳥浄御原宮)を造営し、673年2月に即位して天武天皇となります。乱に勝った大海人皇子の前には、もはや旧来の有力豪族による反対勢力はほとんど残っていませんでした。中央豪族の多くは近江朝廷側について敗れ、その勢力を大きく削がれていたからです。
こうして天武天皇は、ライバル不在の中で天皇を頂点とする中央集権国家の建設に一気に踏み込んでいきます。壬申の乱は単なる皇位継承の内乱ではなく、その後の日本のかたちを決定づけた歴史の転換点になったのです。

結果①:天武天皇による天皇権威の絶対化
第一の結果は、天皇の権威が一気に強化されたことです。それまで「大王(おおきみ)」と呼ばれることが多かった君主の称号は、天武天皇のもとで「天皇」という呼び方が公式に定着していったとされます。「日本」という国号もこの時期に整えられたと考えられており、まさに「天皇が治める日本」という枠組みが姿を現した瞬間でした。
さらに天武天皇は684年、豪族の家格を再編する八色の姓を制定します。真人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)など8段階の姓(かばね)を定め、皇族系の氏族を最上位に置きました。乱で活躍した東国豪族や旧来の中央豪族をすべて天皇のもとに序列化することで、「天皇 vs 有力豪族」というバランスをひっくり返したのです。
結果②:律令国家・飛鳥浄御原令の編纂開始
第二の結果は、律令国家の整備が一気に進んだことです。天武天皇は681年に律令の編纂を本格的に命じ、その成果は持統天皇の時代の689年に飛鳥浄御原令として施行されます。これは日本ではじめて体系的に整備された「令」(行政法)で、飛鳥浄御原令の成果を引き継ぐ形でさらに整備が進み、文武天皇の時代に大宝律令(701年)へと結実していきました。
つまり壬申の乱は、白村江の敗戦から始まった「律令国家を作らなければ日本は守れない」という流れに、政治的な決着をつけたのです。乱の前は中央集権化に反発する豪族の声が強かったのに対し、乱の後はその反対勢力ごと押さえつけられ、改革は一気に加速していきました。

今度こそ、天皇を頂点とした盤石な国家をつくる。律令を整え、姓を定め、二度と豪族たちが好き勝手に争う時代に戻さぬ——。それがわしの戦った乱の意味じゃ。
🔗 現代とのつながり:壬申の乱で確立された「天皇を頂点とする国家像」は、その後の律令制・摂関政治・武家政権を経て1300年以上受け継がれ、現在の象徴天皇制の遠い源流になっています。1300年前の小さな内乱が、いまの日本の骨格にまでつながっているのです。
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テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:「いつ(672年)・誰と誰が(大海人vs大友)・なぜ(皇位継承問題)・結果(天武天皇即位→律令国家)」の4点セットで覚えよう。記述問題でもこの4点を書けば満点。選択問題では「壬申の乱の原因=皇位継承問題」を押さえ、「白村江の敗戦」「大化の改新」との混同に注意。

テストで記述問題が出たとき、何と何を答えれば満点がとれる?

「いつ(672年)・誰と誰が(大海人皇子vs大友皇子)・なぜ(皇位継承問題)・結果(天武天皇即位→律令国家建設)」の4点セットが鉄板だよ!記述問題はこの流れを書けば完璧。選択問題では「壬申の乱の原因=皇位継承問題」で、大化の改新や白村江は「背景」であって「原因」じゃないから混同注意してね。
よくある質問(FAQ)
壬申の乱とは、672年(壬申の年)に起きた古代日本最大の内乱です。天智天皇の死後、その弟である大海人皇子と、息子である大友皇子(弘文天皇)が皇位をめぐって対立し、約1ヶ月の戦闘の末に大海人皇子が勝利して天武天皇として即位しました。
最大の原因は、天智天皇の死後の皇位継承問題です。当時の慣習だった「兄弟相続」を破り、息子の大友皇子が後継者に擁立されたため、弟である大海人皇子との対立が決定的になりました。さらに白村江の敗戦後の中央集権化や近江遷都による豪族の不満も背景にあり、これらが一気に爆発したのです。
戦ったのは、天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)と、天智天皇の息子である大友皇子(のちの弘文天皇)です。叔父と甥の関係にあたります。勝者は大海人皇子で、敗者の大友皇子は近江山中で自害しました。
672年(干支で「壬申」の年)に起きました。672年6月下旬に大海人皇子の吉野脱出で乱が始まり、同年7月23日に大友皇子の自害で終結しています。期間にしてわずか1ヶ月ほどの電撃戦でした。
3つの点で大きく異なります。①時期:壬申の乱は672年(飛鳥時代)、応仁の乱は1467〜77年(室町時代)。②戦った人:壬申は天皇家の内紛(叔父vs甥)、応仁は将軍家の後継をめぐる守護大名同士の争い。③結果:壬申は天皇権力が強まったが、応仁は将軍の権威が崩れた。「壬申=強める乱/応仁=崩す乱」と覚えると混同しません。
勝利した大海人皇子は天武天皇として即位し、豪族の力を抑えて天皇の権力を絶対化しました。八色の姓(684年)で氏族を再編し、飛鳥浄御原令(689年施行)の編纂を進めて律令国家の基盤を築きます。これが大宝律令(701年)へと結びつき、日本の中央集権体制の出発点になりました。
模範解答例:「671年に天智天皇が亡くなったあと、皇位継承をめぐって天智天皇の弟・大海人皇子と息子・大友皇子が対立した。当時の慣習だった兄弟相続を退けて息子へ皇位を継がせようとしたことが対立の火種となり、近江遷都や中央集権化に対する地方豪族の不満も加わって、672年に大海人皇子が挙兵した」と書けば、原因(皇位継承)・背景(豪族の不満)・人物(大海人vs大友)の3点が押さえられます。
まとめ:壬申の乱と天武天皇の時代
壬申の乱は、672年に天智天皇の弟・大海人皇子と息子・大友皇子が皇位継承をめぐって戦った日本最大級の内乱でした。わずか1ヶ月の電撃戦で勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位し、八色の姓・飛鳥浄御原令を進めて天皇を頂点とした律令国家の土台を築き上げます。最後に年表で全体の流れを振り返っておきましょう。
- 663年白村江の戦い(日本軍敗北・天智天皇が防衛体制強化へ)
- 667年近江大津宮へ遷都(豪族の不満が高まる)
- 671年12月天智天皇崩御・大友皇子が政権を引き継ぐ
- 672年6月壬申の乱勃発・大海人皇子が吉野を脱出して東国へ
- 672年7月瀬田川の戦い・大友皇子が自害して内乱終結(約1ヶ月)
- 673年大海人皇子が天武天皇として即位(飛鳥浄御原宮)
- 681年飛鳥浄御原令の編纂を開始・律令国家整備が本格化
- 684年八色の姓(やくさのかばね)を制定・氏族を天皇のもとに序列化

📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「壬申の乱」(2026年5月確認)
コトバンク「壬申の乱」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
コトバンク「大友皇子」「大海人皇子」
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。
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