乙巳の変(大化の改新)の目的・理由とは?簡単にわかりやすく!

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今回は、645年起こった蘇我氏排斥事件、有名な乙巳の変(大化の改新)について紹介したいと思います。

乙巳(いっし)の変と大化の改新は何が違うの?

645年の蘇我氏排斥事件は乙巳の変とも大化の改新とも呼ばれることがあります。どちらの表現が正しいのでしょうか?

実は正しいのは乙巳の変です。一般的に乙巳の変は蘇我氏排斥事件を意味し、大化の改新は乙巳の変も含めた一連の政治改革の総称を言います。この記事では、ちょっとくどいですけど、乙巳の変(大化の改新)と書くことにします。

 蘇我蝦夷と入鹿による独裁政治

643年に蘇我蝦夷・入鹿の傀儡君主だった皇極天皇が即位して以来、蘇我氏の専横な振る舞いは日に日に度を増すようになります。

そんな蘇我蝦夷・入鹿による独裁的な政治を刷新し、推古天皇の時代のように天皇主導の政治を取り戻そうとしたのが乙巳の変(大化の改新)でした。

詳しい経緯は以下の記事を参考にどうぞ。

今回は、乙巳の変というクーデターで殺害されてしまったあの有名な蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)親子について紹介しようと思います。 ...
643年、聖徳太子の息子だった山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が蘇我入鹿の手によって討ち滅ぼされてしまいます。今回は、この山...

乙巳の変(大化の改新)はなぜ起こったのか

反蘇我氏の機運が高まる中、蘇我氏排斥を実行すべく立ち上がった男がいました。それが中臣鎌足(なかとみのかまたり)という人物です。中臣鎌足は乙巳の変の首謀者でした。

中臣氏は代々朝廷の祭祀を担う一族であり、実は政治にはあまり縁のない一族でした。ところが、中臣鎌足は若い頃から政治の世界を目指していたようで、祭祀の仕事はせずに勉学に励んでいました。中臣鎌足は南淵請安(みなみぶちしょうあん)を師として隋の政治や文化などを学びました。南淵請安は607年に派遣された小野妹子で有名な遣隋使に同行した1人であり、隋の最新の政治・文化を知る日本にとって貴重な人物。

南淵請安から多くを学んだ中臣鎌足は、次第に打倒蘇我氏を志すようになり、645年、機が熟したと言わんばかりに勝手気ままに政治を行う蘇我氏を打倒しようと立ち上がったのです。

中大兄皇子と中臣鎌足の出会い

打倒蘇我氏と言っても、中臣鎌足だけでは何もできません。そこで中臣鎌足がまず注目したのが中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)という人物でした。中大兄皇子は後に天智天皇として天皇となる人物で、乙巳の変後の日本の政治に多大なる貢献をした人物です。

中大兄皇子は当時、危機的状況に立たされていました。事の発端は以下の記事で紹介した山背大兄皇子殺害事件です。

643年、聖徳太子の息子だった山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が蘇我入鹿の手によって討ち滅ぼされてしまいます。今回は、この山...

蘇我入鹿は古人大兄皇子の即位を望んでおり、そのライバルを消し去るのが山背大兄皇子殺害の目的でした。実は、山背大兄皇子亡き後、古人大兄皇子の最大のライバルになりうる人物こそが中大兄皇子だったのです。以下の系図を見るとなんとなく三者の関係がわかると思います。

【系図です。参考に使ってください】

中臣鎌足は、蘇我入鹿の襲撃に怯える中大兄皇子の状況を知った上で、中大兄皇子に近づきます。打倒蘇我氏は中大兄皇子にとっても望むところ。この2人はすぐに仲良くなり、蘇我氏殺害計画を練りはじめました。

乙巳の変(大化の改新)の計画内容とは?

中大兄皇子と中臣鎌足が考えた計画は次のとおりでした。蘇我蝦夷・入鹿親子のうち、まずターゲットにしたのは蘇我入鹿でした。

決行日は、645年6月12日。三国の調という儀式の日に決まります。

以下の記事で紹介しているように、この時期になると蘇我入鹿は朝廷に赴くことはなくなり、私邸で政治を行なっていました。そんな蘇我入鹿を無防備の状態にさせるには、蘇我入鹿が出席せざるを得ない重要な儀式の場しかなかったのです。

三国の調(みくにのちょう)とは

三国の調は、日本に朝貢してきた高句麗、百済、新羅の使者が持参してきた上表文(訪問してきた国が持参してきた文書)を天皇の前で読み上げる儀式です。外交にも絡むこの儀式は非常に重要な儀式で、蘇我入鹿も必ず出席する儀式だったのです。

しかし、この時の三国の調は、蘇我入鹿を呼び出すためのでっち上げた偽りの儀式であり、実際には朝鮮半島の使者は来日していなかったのでは?という説もあります。

蘇我倉山田石川麻呂

上表文を読むのは蘇我氏である蘇我倉山田石川麻呂(そがくらやまだいしかわまろ)という人物。

実は、蘇我氏とは言っても蘇我倉山田石川麻呂は中臣鎌足側の人間でした。蘇我氏にも宗家と分家があって、分家の蘇我氏たちは強大な権力を持つ宗家の蘇我蝦夷・入鹿に強い不満を持っていたのです。中臣鎌足はそんな分家の心の隙間を狙い、「一緒に憎き蘇我蝦夷・入鹿を倒さないか?」と持ちかけていたのです。

そして、蘇我倉山田石川麻呂が裏切らないよう、中大兄皇子の娘を蘇我倉山田石川麻呂に嫁がせました。いわゆる政略婚です。こうして志を同じくする中臣鎌足・中大兄皇子、そして中大兄皇子と血縁関係で結ばれた蘇我倉山田石川麻呂の3人を中心に乙巳の変が実施されるのです。

蘇我入鹿の殺害の合図は、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げた時。そのタイミングを狙って潜んでいる中大兄皇子らの部下たちが蘇我入鹿に斬りかかる・・・というのが乙巳の変(大化の改新)の計画でした。

乙巳の変(大化の改新)の経過

さて、中臣鎌足と中大兄皇子の計画はどのように実行されたのでしょうか。

蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げるところまでは計画通り順調に事が運びますが、その後に蘇我入鹿へ襲いかかるところで思わぬ事態が発生します。蘇我入鹿に襲いかかる予定だった部下たちが土壇場になって恐怖し、体が動かなくなってしまったのです。

蘇我倉山田石川麻呂は、上表文を読み続けても一向に部下たちが蘇我入鹿に襲いかかる気配がないので、「計画が失敗したか!?」と不安になり、顔中汗まみれになり声が震える始末でした。当然、この蘇我倉山田石川麻呂の異変に蘇我入鹿も気付きます。

蘇我入鹿「なぜ石川麻呂は、そのように汗だらけで声が震えているのか」

蘇我倉山田石川麻呂「天皇の御前という事で、畏れ多く震えているのでございます。」

こうして、蘇我倉山田石川麻呂はなんとかして計画がバレないようその場をしのぎますが、それでも部下たちは動きません。最後に痺れを切らしたのは中大兄皇子でした。このままではクーデターは失敗すると見るや、自ら刀を持ち蘇我入鹿に襲い掛かります。そして、これに勇気付けられた部下たちも中大兄皇子の後に続き蘇我入鹿を襲います。この時の状況を絵にしたのが以下の図です。

首を切られているのが蘇我入鹿。左上の女性が皇極天皇です。皇極天皇は、中大兄皇子が「蘇我入鹿が皇位簒奪を企んでいます!」という言葉を聞き、恐れ多くなって逃げ出しているところです。(ちなみに皇極天皇と中大兄皇子は母と息子の関係です。)

計画通りには進まなかったものの、機転を利かせた中大兄皇子の対応により、無事に蘇我入鹿を討つことに成功したのです。

もう1つの乙巳の変(大化の改新)

ここまでの経過はとても有名な話なので知っている人も多いかと思います。しかし、実は乙巳の変は蘇我入鹿殺害だけが目的ではありません。入鹿の父である蘇我蝦夷も滅ぼさなければ、蘇我氏を影響力を排除することはできません。

実は、蘇我入鹿殺害と同時並行で蘇我蝦夷の自宅を襲う計画も進められていました。蘇我入鹿邸の近くの法興寺というお寺(現在、奈良県明日香村にある飛鳥寺の前身となったお寺)に兵を潜ませ、蘇我入鹿殺害後、直ちに蘇我蝦夷邸を包囲する計画でした。

東漢(やまとのあや)一族の裏切り

蘇我入鹿殺害と同じ645年6月12日、中大兄皇子らは蘇我氏の味方だった東漢一族を離反させることに成功します。堅牢な蘇我蝦夷邸を落とすため、まずは内通者を送って内部分裂を図ったのです。

そしてその翌日、蘇我蝦夷は自らの最期を悟り、自宅に火を付け自害します。こうしてわずか2日の間に、中大兄皇子らは蘇我入鹿・蝦夷を滅ぼすことに成功したのです。

乙巳の変(大化の改新)の歴史的意義

最後に、乙巳の変(大化の改新)の歴史的意義とはなんでしょうか。日本という国は、常に天皇が国の中心に存在しています。現代においても政治の実権は持たないものの、国の象徴として日本国の君主として君臨しています。

実は、このような天皇中心の国が成立したのは飛鳥時代なんです。本格的に天皇主導の政治を実施したのは飛鳥時代では推古天皇が最初でした。ですが、蘇我氏の力が強すぎて思うような政策は打ち出せませんでした。しかし、乙巳の変により蘇我氏が没落すると、天皇中心の国造りのための政治がいよいよ本格化することになります。乙巳の変の歴史的意義は、この事件を機にいよいよ天皇が権力を掌握し始めた・・・と言えるでしょう。

【次回】

さて、前回は乙巳の変について説明をしました。乙巳の変の後に行われた一連の政治改革のことを大化の改新と...

【前回】

643年、聖徳太子の息子だった山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)が蘇我入鹿の手によって討ち滅ぼされてしまいます。今回は、この山...

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