
今回は「乙巳の変」と「大化の改新」について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!この2つ、実は全く別のものなんだ。テストにもよく出るところだから、違いをしっかり押さえていこうね!
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史(基礎)
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
「乙巳の変」と「大化の改新」——この2つ、実は全くの別物です。多くの人が同じものだと思っていますが、乙巳の変は645年に起きたクーデター事件のこと、大化の改新はその後に進められた一連の政治改革のことを指します。「乙巳の変=大化の改新」と思い込んでいた人は、ここで認識を改めましょう。
この記事では、乙巳の変が起こった背景・クーデター当日の経緯・大化の改新の中身まで、教科書よりも一歩踏み込んでわかりやすく解説していきます。
乙巳の変いっしのへんとは?
① いつ:645年6月12日(皇極天皇4年)
② 誰が:中大兄皇子・中臣鎌足らが首謀
③ 何をした:蘇我入鹿を宮中で暗殺し、蘇我氏の専制政治を打倒した政変(クーデター)
乙巳の変とは、645年(皇極天皇4年)6月12日、飛鳥時代の宮廷で起きたクーデター事件のことです。中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)を中心とする勢力が、当時の権力者・蘇我入鹿(そがのいるか)を皇極天皇の御前で暗殺し、蘇我氏本宗家を滅ぼしました。
「乙巳」というのは、その年の干支(えと)のこと。645年は十干十二支で「乙巳(きのと・み/いっし)」の年だったため、この事件は「乙巳の変」と呼ばれるようになりました。
そして「変」というのは、宮中や市中で起きた政変・突発的な政治事件のことを指します。本能寺の変や桜田門外の変なども同じ用法ですね。
「乙巳」ってなんて読むの?テストで漢字で書かされるのかな?
「いっしのへん」って読むよ!「乙巳」は干支の年の名前で、今でいう西暦みたいなもの。中学・高校のテストでは漢字で書かせる問題が定番だから、しっかり書けるようにしておこうね。「おつみのへん」って間違える人が結構いるから注意!
なぜ起こった?蘇我氏の横暴と天皇家の危機
乙巳の変はなぜ起こったのか。それは、当時の朝廷を一手に握っていた蘇我氏(そがし)の専制政治を、もはや天皇家でも止められないほど深刻な状況になっていたからです。蘇我氏は4代にわたって朝廷の実権を握り続け、ついには天皇家を脅かす存在にまでなっていました。

■蘇我氏4代の権力独占
蘇我氏が朝廷で権力を握り始めたのは、6世紀半ばの蘇我稲目の時代からです。稲目は娘を欽明天皇に嫁がせ、外戚(がいせき/天皇の母方の親戚)として朝廷に深く食い込みました。
稲目の子蘇我馬子はさらに権力を拡大し、587年に対立していた物部守屋を倒して仏教受容派の蘇我氏が朝廷の主導権を完全に握ります。馬子は聖徳太子と協力して推古天皇期の政治を支えましたが、その死後は蘇我蝦夷(そがのえみし)・蘇我入鹿(そがのいるか)の親子が権勢をふるうようになりました。
稲目→馬子→蝦夷→入鹿と4代続いた蘇我氏の専制は、やがて天皇家をしのぐほどの規模に膨れ上がっていきます。蝦夷・入鹿の親子は、自分たちの邸宅を「宮門(みかど)」と呼ばせたり、子どもを「皇子(みこ)」と呼ばせたりと、天皇しか使ってはいけない呼称を勝手に名乗るほどでした。

蘇我入鹿の横暴①:643年、聖徳太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族を襲撃。斑鳩宮(いかるがのみや)に追い詰めて自害させ、上宮王家を滅亡させた
蘇我入鹿の横暴②:父・蝦夷とともに甘樫丘(あまかしのおか)に邸宅を構え、私兵を集めて宮廷さながらの威勢を見せつけた
特に問題だったのが、643年の山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族の滅亡事件です。山背大兄王は聖徳太子の子で、本来であれば次の天皇候補。それを蘇我入鹿が独断で滅ぼしてしまったのです。これは「天皇を誰にするかは蘇我氏が決める」と宣言したのと同じこと。中大兄皇子をはじめとする皇族にとって、もはや一刻の猶予もない状況でした。
■中大兄皇子と中臣鎌足の出会い
蘇我氏打倒の計画は、ある偶然の出会いから始まりました。それは、飛鳥にある法興寺(飛鳥寺)で行われた蹴鞠の会でのこと。蹴鞠とは現代でいうサッカーのリフティングのような遊びで、当時の貴族の社交場でもありました。
その蹴鞠の会で、中大兄皇子(当時20歳ほど)が脱げた靴を、中臣鎌足が拾って差し出したと伝えられています。これをきっかけに2人は親しくなり、やがて蘇我氏打倒という共通の目標で意気投合していきました。
中臣氏は代々朝廷の祭祀(神を祀る役目)を司る家柄で、仏教を推し進める蘇我氏とは元々対立しやすい立場にありました。鎌足は蘇我氏の専横に強い危機感を抱き、皇族のなかでも特に有能で野心のあった中大兄皇子に接近したのです。
蘇我入鹿が一人で天下を牛耳っている…これを放っておけば、日本の政治はどうなってしまうのか。中大兄皇子、あなたならきっと理解してくれる。一緒に蘇我氏を倒し、天皇を中心とした国を取り戻しましょう。
2人はその後、蘇我氏の有力者である蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れます。石川麻呂は入鹿のいとこにあたる蘇我氏一族の人物ですが、入鹿の専横に不満を持っていたため、内部からの協力者となりました。こうしてクーデターの準備は着々と進んでいきます。

乙巳の変の経緯:クーデターの一部始終(645年)
計画は645年6月12日(旧暦)、ついに実行に移されます。舞台は飛鳥にある板蓋宮。皇極天皇(女帝)の宮殿で、当時の朝廷の中心地でした。

■山背大兄王の悲劇(前史)
乙巳の変の直接的な引き金となったのが、その2年前の643年、蘇我入鹿による山背大兄王(やましろのおおえのおう)一族の滅亡事件です。山背大兄王は聖徳太子の長男で、本来なら次の天皇候補として有力な存在でした。
ところが入鹿は、自分が推す古人大兄皇子を次の天皇にしたいと考え、邪魔になる山背大兄王の一族を斑鳩宮(聖徳太子ゆかりの宮)に襲わせて自害に追い込んだのです。聖徳太子の血を引く名門が、たった一日で滅亡——この衝撃は朝廷全体を震わせました。
「次は自分たちの番かもしれない」——中大兄皇子と中臣鎌足が抱いた危機感は、ここで決定的なものになります。蘇我氏を倒さなければ、天皇家そのものが滅ぼされかねない。クーデター計画は急ピッチで進められていきました。

■飛鳥板蓋宮での事件
645年6月12日——真夏の陽光が降り注ぐその日、飛鳥の板蓋宮の正殿は、不思議なほどしんと静まりかえっていました。皇極天皇が玉座につき、左右には廷臣たちがかしこまって並んでいます。この日は「三韓(朝鮮半島の三国)からの使者が上表文を奉じてくる」という名目の儀式——しかし実際は、この場を借りた暗殺計画が静かに動き出そうとしていました。
蘇我入鹿は何も知らずに登城しました。これほどの権力者が不意打ちを受けるとは、夢にも思っていなかったのでしょう。刀さえ帯びていなかったとも伝えられています。
儀式が始まります。蘇我倉山田石川麻呂が三韓の上表文を読み上げ始めました。計画ではその間に刺客たちが入鹿へと斬りかかる手筈でしたが——刺客たちは動けませんでした。
天皇の御前という重圧。息を殺した廷臣たち。そして何より、目の前にいる蘇我入鹿の気配——かつて聖徳太子の一族をたった一晩で滅ぼした男の、底光りする存在感。刺客たちの足はすくみ、手は震え、喉は張りついて声さえ出せなかったのです。
石川麻呂の額を、汗が伝い始めました。一筋、また一筋と滴り落ちる。上表文を読む声は細くなり、息は乱れ、手が止まりかけます。
その異変を——入鹿が、鋭く察知しました。
「なぜそんなに汗をかいているのか」
静かな、しかし射抜くような声だったと『日本書紀』は伝えます。石川麻呂は「天皇の御前に控えていて畏れ多く……」と絞り出すように答えました。が、入鹿の目から疑念は消えません。空気が凍りつく。あと数秒で計画は露見する——その瞬間。
中大兄皇子が飛び出しました。剣が鞘から引き抜かれる鋭い音。「お前のような奴を生かしておけるか!」——叫び声と同時に、刃が入鹿の体に迫ります。虚を突かれた入鹿は剣を持たないまま、よろめいて倒れ込みました。そこへ佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田の二人が加勢し、入鹿はその場で絶命しました。
正殿に血が流れました。天皇が見守る御前で、蘇我氏最後の実力者は地に伏したのです。

突然の事態に驚いた皇極天皇に対し、中大兄皇子は「入鹿は皇位を奪おうとしていた」と入鹿暗殺の正当性を奏上。天皇は黙して内裏に戻ったと『日本書紀』は伝えています。
翌日、入鹿の父・蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害。こうして4代にわたって朝廷を支配してきた蘇我氏本宗家は、たった2日でこの世から姿を消したのです。
このとき蝦夷は、蘇我氏が代々保管してきた貴重な歴史書「天皇記・国記」も邸とともに焼き捨てようとしました。しかし、船恵尺という人物が炎の中から「国記」を救い出し、中大兄皇子に献じたと伝えられています。もしこの記録が完全に焼失していたら、日本古代史の多くがさらに謎に包まれたままになっていたかもしれません。
💡 諸説あり:乙巳の変の真の動機
従来は「蘇我氏の専制を打倒するためのクーデター」と説明されることが多いですが、近年の研究では東アジア情勢(唐の台頭・朝鮮半島の動乱)に対応するため、強い中央集権国家を作る必要があったことも動機の一つとされています。蘇我氏打倒は「目的」ではなく「中央集権化への第一歩」だったという見方です。
こうして乙巳の変は成功に終わり、日本の政治は大きく動き出します。しかし、乙巳の変はあくまでクーデターの「成功」にすぎません。本当の改革はここから始まります。それが、次の章で解説する大化の改新です。
乙巳の変と大化の改新の違い
「乙巳の変」と「大化の改新」を混同してしまう人は本当に多いです。教科書でも両方の用語がほぼ同時に登場するため、ごっちゃになりがち。ここで2つの違いをはっきり整理しておきましょう。
乙巳の変と大化の改新って同じことじゃないの?テストでも両方出てきて頭が混乱するよ…!
全然違うものだよ!ザックリ言うと、乙巳の変は「事件(クーデター)」で、大化の改新は「その後の政治改革」なんだ。今でいうと、乙巳の変が「クーデター成功」で、大化の改新がその後の「新政権の改革」ってイメージに近いよ!
| 乙巳の変 | 大化の改新 | |
|---|---|---|
| 性質 | クーデター(事件) | 政治改革(一連の制度改革) |
| 時期 | 645年6月12日(1日の出来事) | 645年6月以降〜数年にわたる改革 |
| 主体 | 中大兄皇子・中臣鎌足ら | 孝徳天皇・中大兄皇子(皇太子) |
| 内容 | 蘇我入鹿の暗殺・蘇我氏滅亡 | 公地公民制・班田収授法・租庸調など |
| 結果 | 蘇我氏の専制が終わる | 天皇中心の中央集権国家への第一歩 |
つまり、乙巳の変=大化の改新の「きっかけ」となった事件であり、大化の改新=乙巳の変のあとに進められた政治改革という関係になります。順序としては「乙巳の変 → 大化の改新」。同じ年(645年)に始まりましたが、別々の出来事として理解しておきましょう。
では、その大化の改新では具体的にどんな改革が行われたのでしょうか?次の章で詳しく見ていきます。
大化の改新の内容:何が変わったの?
乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、弟の軽皇子が即位します。これが孝徳天皇です。中大兄皇子は皇太子(次の天皇予定者)として実質的な政治の主導権を握り、中臣鎌足は内臣(うちつおみ/天皇の側近)として補佐にあたりました。

そして同じ645年、日本史上初の元号「大化」が定められます。これが「大化の改新」という名前の由来です。都も飛鳥から難波宮(現在の大阪市)に移し、新政権は中央集権国家の建設へと動き出しました。
■改新の詔とは
改新の詔とは、646年(大化2年)の元日に孝徳天皇が発布した、日本の政治改革の指針となる宣言文のことです。中央集権国家を目指す方針を4か条にまとめて示しました。改新の詔は大化の改新の中身そのものといえる重要な文書です。
① 公地公民制:豪族の私有地・私有民を廃止し、すべてを国(天皇)のものとする
② 地方行政の整備:国・評(こおり)・里という地方区分を新設
③ 戸籍・班田収授法:戸籍を作り、口分田を国民に分配する
④ 租庸調の統一:税制を全国で統一する
ただし、改新の詔の内容については近年の研究で議論があります。『日本書紀』に書かれている改新の詔の文章には、後の大宝律令(701年)の用語が混じっていることが指摘されており、646年当時の原文そのままではなく、後世の編集が加わっている可能性が高いとされています。とはいえ、大化の改新が「中央集権国家を目指す改革のスタート」だったことは間違いありません。
■公地公民制・班田収授法・租庸調
改新の詔の中身を、もう少し詳しく見ていきましょう。難しい言葉が並んでいますが、現代風に言い換えるとぐっとわかりやすくなります。
公地公民制
まず公地公民制とは、それまで豪族たちが私有していた土地(田荘/たどころ)と人民(部曲/かきべ)を、すべて国(天皇)のものとする制度のこと。今でいう「全土の国有化」に近い大改革です。蘇我氏のような巨大豪族が独自の領地と人民を持つことを禁じ、政治の力を天皇のもとに一本化しました。
班田収授法
次に班田収授法とは、6歳以上の男女に「口分田(くぶんでん)」という田んぼを国が分配し、死んだら国に返却するという制度のこと。今でいうと「国がみんなに均等に農地を貸してくれる」イメージです。これによって、農民が田畑を奪われたり追い出されたりする心配がなくなり、国も安定した税収を得られるようになりました。
租庸調
そして租庸調とは、農民が国に納める税金の3つの種類のこと。現代風に説明すると次のようになります。
- 租(そ):収穫した稲の約3%を納める米の税。今でいう所得税の現物納付バージョン
- 庸(よう):都での労役の代わりに布や米を納める。今でいう労務税の代替金
- 調(ちょう):地方の特産品(絹・布・塩・海産物など)を都に納める。今でいう地方産品の現物納税
これら租庸調が全国で統一されたことで、ばらばらだった豪族たちの徴税権が国に集まり、安定した中央政府の財源が確保されることになりました。
公地公民制って具体的にどういうことかしら?それまでの豪族から土地を取り上げるってこと?
そう、まさに「全土の国有化」だよ!それまで蘇我氏みたいな豪族が持っていた土地と人民を、全部国(天皇)のものにしたんだ。豪族たちは「自分たちの領地と部下」を失って、代わりに朝廷から官職をもらって俸禄(給料)で暮らすことになる。これによって、豪族が自分の力で天皇に対抗できないようにしたんだね。
ただし、公地公民制が一気に全国で実現したわけではありません。豪族の抵抗もあり、実際に全国で機能するようになるのは7世紀末〜8世紀初め(飛鳥時代後半〜奈良時代)のこと。大化の改新は「公地公民への第一歩」と理解しておけばOKです。
以上が大化の改新の主な内容です。次の章では、テストによく出るポイントと年号の覚え方をまとめていきます。
テストに出るポイント・語呂合わせ
ここでは、乙巳の変・大化の改新でテストによく出るポイントと、年号の覚え方をまとめておきます。中学・高校の試験でも頻出の論点なので、しっかり押さえておきましょう。
テストでよく出るところって具体的に何?年号の覚え方も知りたい!
特によく出るのは「乙巳の変と大化の改新の違い」「中大兄皇子と中臣鎌足のセット」「公地公民・班田収授・租庸調の三本柱」。あと年号は「無事故(645)で世づくり」って覚えると忘れないよ!
🎯 必須年号:645年(乙巳の変)/ 646年(改新の詔)
🎯 語呂合わせ:「無事故(645)で世づくり、大化の改新」が定番
🎯 混同注意:乙巳の変(クーデター事件)≠ 大化の改新(政治改革)
🎯 試験頻出セット:中大兄皇子 ↔ 中臣鎌足(鎌足は669年に「藤原」姓を賜る)
📖 645年(乙巳の変):
「無事故(645)で世づくり、大化の改新」
「蒸しご飯(645)で改新」
「虫殺(645)しの大化の改新」
📖 646年(改新の詔):
「無事ろ(646)くまく、改新の詔」
※近年の教科書では「大化の改新=645年」とせず、「乙巳の変=645年/改新の詔=646年」と区別して教える流れになっています。
よくある質問(FAQ)
乙巳の変・大化の改新について、よく寄せられる質問をまとめました。
645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが、当時専制的な権力をふるっていた蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺したクーデター事件です。蘇我氏の専横を打倒し、天皇中心の政治を取り戻すことが目的でした。「乙巳」は645年を指す干支の呼び名で、「変」は宮中で起きた武力事件を意味します。
乙巳の変はクーデター(政変・事件)、大化の改新はその後に行われた政治改革の総称です。乙巳の変は645年の単一事件、大化の改新は646年の「改新の詔」を中心とする一連の改革を指します。教科書でも混同されがちですが、別物として整理しておくと試験でも安心です。
蘇我入鹿が天皇家をしのぐ権力を握り、643年に聖徳太子の子・山背大兄王の一族を滅ぼすなど、専制的な振る舞いを強めたためです。中大兄皇子・中臣鎌足らは、このまま放置すれば天皇の権威が完全に失墜すると判断し、ひそかに計画を練ってクーデターを決行しました。
定番の語呂合わせは「無事故(645)で世づくり、大化の改新」です。ほかに「蒸しご飯(645)で改新」「虫殺(645)しの大化の改新」なども知られています。なお現在の教科書では645年を「乙巳の変」、646年を「改新の詔」と区別して教える傾向にあるので、両方の年号をセットで覚えておくと安心です。
乙巳の変・大化の改新についてもっと詳しく知りたい人へ

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まとめ
乙巳の変は、645年に中大兄皇子・中臣鎌足らが蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺したクーデター事件です。これによって専横を極めた蘇我氏本宗家は滅亡し、天皇中心の政治を取り戻す道が開かれました。
そして、その直後から始まった一連の政治改革が「大化の改新」です。「大化」という日本初の元号が定められ、646年の「改新の詔」によって、公地公民制・班田収授法・租庸調といった律令国家の基礎となる制度が打ち出されました。
大切なのは、「乙巳の変=クーデター事件」「大化の改新=その後の政治改革」と区別して理解すること。この2つを混同しないことが、テスト対策の最大のポイントです。
余談ですが、中大兄皇子と中臣鎌足の絆は生涯続きました。鎌足が病に倒れた669年、天智天皇(中大兄皇子)は御自ら鎌足の病床を訪れ、「藤原(ふじわら)」の姓と最高位の官職を授けたと伝えられています。翌日、鎌足はその場で息を引き取りました。20年以上にわたって命がけで日本の改革を支えた鎌足への、天皇からの最後の恩賞——。この逸話は、乙巳の変から始まった2人の物語のクライマックスといえるでしょう。
以上、乙巳の変と大化の改新のまとめでした!「乙巳の変=クーデター」「大化の改新=その後の政治改革」っていう違いをしっかり覚えてね。飛鳥時代の他の出来事もあわせて読むと、当時の流れがもっと立体的に見えてくるよ!
- 593年聖徳太子、推古天皇の摂政に就任
- 622年聖徳太子が没し、蘇我氏の専横が強まる
- 643年蘇我入鹿、山背大兄王(聖徳太子の子)一族を滅亡させる
- 645年乙巳の変。中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺
- 645年孝徳天皇即位、元号「大化」を制定。都を難波宮へ遷都
- 646年改新の詔を発布。公地公民・班田収授・租庸調などを宣言
- 668年中大兄皇子、即位して天智天皇となる
- 669年中臣鎌足、死の直前に天智天皇から「藤原」姓を賜り藤原鎌足となる
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📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「乙巳の変」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「大化の改新」(2026年5月確認)
Wikipedia日本語版「中大兄皇子(天智天皇)」「中臣鎌足(藤原鎌足)」「蘇我入鹿」(2026年5月確認)
コトバンク「乙巳の変」「大化の改新」「改新の詔」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)
山川出版社『詳説日本史』
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