乙巳の変はなぜ起きた?簡単にわかりやすく解説するよ【中大兄皇子が蘇我蝦夷を討つ!】

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乙巳の変のハイライトシーン

今回は645年に起きた乙巳の変いっしのへんについて簡単にわかりやすく解説していきます。

まずは、教科書風に概要だけを先にまとめておきます。

乙巳の変とは・・・

蘇我入鹿そがのいるか厩戸王うまやとおう聖徳太子)の子である山背大兄王やましろのおおえのおうを滅して権力集中をはかったが、中大兄皇子なかのおおえのおうじは、蘇我倉山田石川麻呂そがのくらやまだいしかわまろ中臣鎌足なかとみのかまたりの協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645年に蘇我蝦夷そがのえみし入鹿いるかを滅した(乙巳の変)。

この記事では、乙巳の変について以下の点を中心に解説を進めていきます。

  • 乙巳の変はなぜ起きた?起こった原因は?
  • 乙巳の変の経過について
  • 乙巳の変の後、日本はどうなった?
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乙巳の変までの流れ

乙巳の変はとても簡単に言ってしまうと、古人大兄皇子ふるひとのおおえのおうじ中大兄皇子という2人の人物の皇位継承争いが原因で起こったクーデターです。

話を進める前に、乙巳の変関係者の系図を用意しておきました。記事を読み進める際に参考としてご活用ください。

最初に、乙巳の変が起こるまでの流れを時系列をチェックしておきます。

乙巳の変までの流れ
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最強の豪族、蘇我氏

当時の日本の政治は、ヤマト朝廷という有力豪族の集まりによって行われていました。そして、豪族たちのリーダー的存在が天皇でした。(当時は大王おおきみと呼ばれていた。)

蘇我氏はヤマト朝廷の財政を支配し、皇族と血縁関係を結び、さらには大陸の最新技術や知識も持ち合わせた当時としては最強の豪族でした。

蘇我氏が最強になるまでの道のり

640年を過ぎた頃から蘇我氏の権力の私物化が明らかとなり、多くの人たちが蘇我氏に不満を持つようになります。

そして、643年の蘇我入鹿による山背大兄王襲撃をきっかけに、蘇我氏への批判はピークを迎えることになります。

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中臣鎌足「蘇我氏は絶対に許さない」

この時に、「打倒蘇我氏!」のため立ち上がった人物に中臣鎌足という男がいました。

中臣鎌足(藤原氏の祖でもある)

中臣氏は代々朝廷の祭祀を担う一族だったにもかかわらず、中臣鎌足は政治の世界を目指して家出。隋に行った経験を持つ南淵請安みなみぶちしょうあんという人物を師として隋の政治や文化などを学びました。

正義感と情熱に燃える中臣鎌足は蘇我氏を倒すため、蘇我氏の支持する古人皇子に対抗しうる皇族を探すことにしました。

そこで中臣鎌足と協力することになったのが、中大兄皇子でした。

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中大兄皇子「山背大兄王の次は俺の番かも・・・」

中大兄皇子は、古人大兄皇子と同じく次期天皇の有力候補。山背大兄王が消された今、次に消されそうだったのが中大兄皇子でした。

中大兄皇子(後の天智天皇
中大兄皇子
中大兄皇子

どうせ何もしなければ、私も蘇我入鹿に命を奪われるだろう。

それなら、中臣鎌足と協力してこちらから蘇我氏を討ってやる!

こうして2人は蘇我氏を倒す計画を立てますが、蘇我一族の中でも権力をめぐる争いが起こっていることに注目しました。

中大兄皇子
中大兄皇子

蘇我蝦夷・入鹿親子と対立している蘇我倉山田石川麻呂なら、私たちの協力な味方になってくれるだろう。

こうして、蘇我倉山田石川麻呂を仲間に引き入れることに成功。協力の証(お互いに裏切らない鎖)として、中大兄皇子は石川麻呂の娘を妻とし、血縁関係を結びました。

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乙巳の変の計画内容

蘇我蝦夷・入鹿は敵が多いことを自覚して警備を厳重にしていたので、無闇に戦っても勝ち目はまずありません。

そこで中臣鎌足と中大兄皇子は、朝廷で行われる三国の調みくにのちょうと呼ばれる儀式の場で、蘇我入鹿を暗殺する計画を立てました。

三国の調とは

日本にやってきた高句麗こうくり百済くだら新羅しらぎの三国の使者が、天皇に対して外交文書を読み上げる儀式のこと。

外国の使者の前で権力者を闇討ちするのは「日本は内紛で弱ってますよ。」と海外にアピールするようなものなので、蘇我氏を倒すための嘘の儀式だという説もある。

普段、自邸でやりたい放題でほとんど朝廷に出仕しなかった蘇我入鹿も、外国の使節が来るという話なら流石に朝廷に出仕するだろうし、儀式の場であれば警備も手薄になります。

そして、中臣鎌足と中大兄皇子が他の刺客と共に儀式の場で身を隠します。刺客には朝廷の警備を担う人たちが抜擢されます。朝廷の中にも蘇我氏を良く思わない人がたくさんいたのです。

蘇我入鹿を襲うタイミングは、蘇我倉山田石川麻呂が使者から受け取った文書を皇極天皇の前で読み上げた時。石川麻呂の声を合図に刺客が蝦夷へ襲いかかる計画です。

石川麻呂の朝廷でのポジションは不明ですが、天皇の前で文書を読み上げるということはそれなりの地位に就いていたことになります。石川麻呂は乙巳の変におけるキーパーソンとなります。

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乙巳の変、決行!!

さて、当日がやってきました。

蘇我入鹿が儀式を行う飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやに入ります。猜疑心の強い入鹿は剣を身に付け用途しましたが、中臣鎌足に協力する宮内の人々の強い説得により、剣を外して宮内に入ります。

乙巳の変の舞台となった飛鳥板蓋宮の跡地
(今は周囲に何もなく時代の流れを感じます・・・)

そして、遂に三国の調が始まります。蘇我入鹿が入ると、宮内の門は固く閉ざされました。邪魔が入るのを防ぐためです。ここまでは完璧です。計画通り。

儀式は滞りなく進み、いよいよ石川麻呂が文書を読み上げます。

石川麻呂の声を合図に刺客が蝦夷を襲う・・・はずが、刺客たちが全く動きません。いざ本番となるとビビって動けなくなってしまったのです。

石川麻呂は焦ります。

石川麻呂
石川麻呂

なぜ刺客がでてこない。中臣鎌足や中大兄皇子はどうしたのだ?

もしや計画がバレた?だとすれば、私はこのまま殺されるか・・・(汗。

文書を読み上げる石川麻呂の手は震え、額には汗が流れます。後少しで読み終わるというところで、これを怪しんだ蘇我入鹿がこう言います。

蘇我入鹿
蘇我入鹿

石川麻呂よ、手が震えているし、汗もすごいぞ。何かあったのか・・・?

石川麻呂
石川麻呂

ヤバイ、怪しまれている。なんとか誤魔化さなないと乙巳の変はここで失敗する・・・。中大兄皇子らをを信じるのだ!

蘇我倉山田石川麻呂
蘇我倉山田石川麻呂

・・・天皇の前なので、恐れ多くて震えているのです。

こう言ってなんとかやり過ごしますが、刺客たちが飛び出す気配はありません。何も起こらないまま石川麻呂が文書を読み終わってしまえば、計画は失敗です。

その時、意を決した中大兄皇子が遂に動きました。

中大兄皇子は潜みから飛び出し、蘇我入鹿に斬りかかります。そして恐怖に震え動けなかった刺客たちも中大兄皇子に続き、その後から入鹿に斬りかかりました。足を斬られた入鹿は、床に倒れます。

皇極天皇
皇極天皇

息子(中大兄皇子)よ、何をしているのだ・・・!?

中大兄皇子
中大兄皇子

蘇我入鹿は、王族を滅ぼし自ら王になることを目論んでいます。これを放っておいて良いのでしょうか。

これを聞いた皇極天皇は状況を察し、その場から逃亡。足を切られ動けない入鹿は首を跳ねられ、遂にクーデターは成功しました。

蘇我入鹿が打たれるシーン(江戸時代に描かれた)

入鹿の支援を受けていた古人大兄皇子も儀式の場に同席していましたが、急ぎ朝廷から抜け出し、その後出家し吉野山に引き篭もってしまいます。蘇我入鹿の死によって古人大兄皇子の没落は、ほとんど確定したからです。

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乙巳の変、第二ラウンド

実は乙巳の変はこれだけでは終わりません。中大兄皇子らは蘇我入鹿を討った後、そのまま自邸に籠っている入鹿の父、蘇我蝦夷を討つ計画だったのです。

入鹿を討った中大兄皇子は、すぐに法興寺ほうこうじ(今の飛鳥寺)に入ります。ここを城代わりにして、蘇我蝦夷邸を襲うためです。

法興寺は蘇我馬子が建てたお寺で蘇我氏ゆかりのお寺でしたが、電撃作戦により中大兄皇子が占拠に成功しました。

異変に気付いた蘇我蝦夷は守りを固めます。蝦夷側の主力軍は東漢やまとのあやという一族。

中大兄皇子は蝦夷側に工作部隊を送り込み、東漢一族を説得し、その離反に成功。主力を失った蝦夷軍は脆く崩壊し、翌日(6月13日)、蝦夷は自邸に火をつけ自ら命を断ちました。

こうして、蘇我蝦夷・入鹿親子は滅びることになります。

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乙巳の変の後

乙巳の変が終わるとその翌日(6月14日)、皇極天皇は中大兄皇子に皇位を譲ろうとします。

ところが、乙巳の変の主役だったはずの中大兄皇子はなぜかこれを断ります。

中大兄皇子
中大兄皇子

いえ、私ではなく軽皇子(皇極天皇の弟)が次期天皇にふさわしいでしょう。

こうして、軽皇子かるのみこが孝徳天皇として即位します。中大兄皇子が皇位を拒否した理由は謎であり、いろんな説が考えられています。

即位した孝徳天皇は、推古天皇の頃から停滞したままだった「豪族の力を削ぎ、王族の権威・権力を高めるための政治改革」を再スタートさせました。

この改革が、大化の改新と呼ばれるものです。

翌年の646年には、改革の方針を示す改新の詔を発表し、日本は天皇を中心とした国へと大きく転換することになります。(そして、天武天皇の頃(飛鳥時代末期)から、それが現実のものととなっていく)

乙巳の変は日本が転換期を迎える重要なきっかけとなったのです。

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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. 何るほどのもんじゃぁーございやせん より:

    おもしろかったです。