聖武天皇はなぜ東大寺の大仏を造ったのか-長屋王の悲劇-2/4

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前回、聖武天皇が文武・元明・元正の3天皇の必死の努力により724年ようやく天皇として即位した・・・というお話をしました。

やっとのことで天皇になった聖武天皇。しかし、その治世もまた、困難の連続でした。

今回は、その1つドロドロの政治闘争について説明します。

まずは、政治闘争の主人公たちを紹介します。

複雑すぎる!長屋王の立場

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(出典:wikipedia  「文武天皇」 最終更新日:2015年10月16日 (金) 09:33)
(クリックで拡大表示されます。)

少し話がさかのぼります。天武天皇亡き後、次期天皇を誰かにするか問題となりました。

候補としては、上図にも載っている

・高市皇子
・草壁皇子
・大津皇子

が候補として挙げられましたが、高市皇子は母が皇族出身でないことで候補から外れ、大津皇子は陰謀により排除されました。

(詳しくは、夫の遺志を引き継いだ持統天皇、学校では絶対に教わらないサイドストーリー

今回の主役である長屋王は、その高市皇子の息子です。長屋王の母は、天智天皇の娘であり、高市皇子と違い長屋王は、正式に天皇になりうる血筋を持っていたのです。

さらに長屋王は、皇族である吉備内親王(上図の(42)文武天皇の下にいる)という人物を妻とし、子を数人もうけていました。長屋王の子供らもまた、皇族である吉備内親王を母とし、正式に次期天皇になりうる人材でした。

何が言いたいかというと、前回(聖武天皇ははぜ東大寺の大仏を造ったのか-聖武天皇即位の裏話-【第1歩】)で説明したように聖武天皇の即位には、文武・元明・元正の3天皇たちによる必死の皇位継承の努力があったわけですが、その聖武天皇のライバルとなりうる人物の第一候補が長屋王やその子供たちだったのです。

長屋王VS藤原氏

そんな強力な立場にある長屋王。紆余曲折を経て、天皇即位の望みは絶たれることになりますが、官僚として凄まじい出世を遂げます。

長屋王は結局のところ、皇族ですが天皇家とは傍系という形となります。(直系は、草壁皇子から聖武天皇へと続く血筋です。)

しかし、長屋王はその高い政治的地位もさることながら、天皇家の傍系とは思えないほどの豪華絢爛な館に住み、また、莫大な土地を与えられていました。これは、長屋王が不満を持ち、長屋王本人やその息子が皇位継承問題に首を突っ込んでこないよう懐柔するために行った措置だったと言われています。

聖武天皇の即位後、長屋王は左大臣という地位に就きます。当時の官僚制の中でもトップに位置する位に就くまでになります。コネだけではなくかなり優秀な人物だったようで聖武天皇からも厚い信頼があったと言われています。

こうして、皇位継承をめぐる裏でのドロドロとした駆け引きは終了したかに見えたのですが、次は官僚として次第に藤原氏との対立が深まるようになっていきます

こうして長屋王の高貴な血筋と優秀さが、逆に敵を増やしてしまうのでした。長屋王、不遇すぎるだろ・・・

藤原不比等の死とその息子たち

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藤原氏と長屋王、藤原不比等が生きていた時代は、良好な関係だったようです。なぜなら、長屋王は、不比等の娘の藤原長娥子を妻としているからです。

長屋王と藤原氏の対立

720年、藤原不比等は逝去します。不比等は、持統・文武・元明・元正と4代にわたる天皇たちを補佐し続けた偉大な人でした。

724年、聖武天皇が即位し、長屋王が左大臣となります。

一方、不比等の息子たちは父(不比等)のように政治のトップに上り詰めたい!という野望をもっていました。息子たちにとって長屋王は、邪魔な存在として映ったことでしょう。

しかし、前述したとおり長屋王は天皇家の傍系であるにも関わらず、膨大な財産と権力を持っています。正攻法で長屋王より上に立とうなど、夢のまた夢の話でした

と、なると手段は1つ。謀略です。

ポイントは、長屋王とその息子たちが、聖武天皇にとって皇位継承の最大のライバルであるという点です。これを利用し、藤原氏たちは陰で「長屋王が皇位を奪おうとクーデターを考えている」とでっちあげます。

このような話は今回に始まったことではありません。これまでも有間王子や大津皇子など同じ手段で命を奪われた悲劇の皇子らがいるのです。

【参考】
有間王子について→え?そんな人だったの!?謀略マスター天智天皇
大津皇子について→夫の遺志を引き継いだ持統天皇、学校では絶対に教わらないサイドストーリー

悲劇は繰り返されます。

繰り返される悲劇。長屋王の変

729年2月10日の夜、不比等の息子の1人、藤原宇合(うまかい)が軍部の兵を引き連れて長屋王邸を囲います。

長屋王は驚愕したと共に、謀られたことを悟ったことでしょう。

翌日2月11日の朝、藤原宇合らは、長屋王に向かって罪状を述べます。「あなた(長屋王)が、聖武天皇を呪詛(じゅそ。不幸が起こるよう呪うこと)し、謀反を起こそうとしていると密告があった。

2月12日、どのような経過があったのかわかりませんが、長屋王は自邸で自害します。妻と子と共に毒を飲んで自害したと言われています。命が助からないことを悟ったのでしょうか・・・。

2月13日、早くも長屋王とその妻子の葬送が開始されます。手際が良すぎる・・・。

この長屋王の謀反のことを長屋王の変と呼んでいます。

が、長屋王は実際に謀反を起こそうとしたわけではなく、長屋王が存在していると不都合に思う人々がでっちあげた謀略だったというのが有力な定説となっています。というかほぼ確定ではないでしょうか。

藤原氏隆盛の始まり -時代の分岐点となった長屋王の変-

長屋王の逝去は、時代の大きな分岐点となります。邪魔者を排除した藤原氏の隆盛が始まるのです。良いか悪いかは別として長屋王の変が起こらなければ、藤原道長は存在しなかったでしょう。

聖武天皇の意味不明な対応

聖武天皇の対応も意味不明です。

長屋王は、謀反を起こそうとした罪人です。にも関わらず、聖武天皇は長屋王の葬儀に際して、

罪人だからと言って卑しい葬儀をするな。丁重に葬儀の準備をせよ。長屋王の妻子には何の罪もないのだから通常どおり葬儀を行え。また、長屋王の変に関与したものはみな罪には問わない。

と寛大すぎる措置を採っています。これは、聖武天皇自身も長屋王の変が嘘であることに気付いていたからであると考えられています。

聖武天皇は、長屋王を官僚としてかなり信頼していたらしく、長屋王の変が偽りの謀反であることを知ったとき、かなりのショックを受けたものと思います。

こうして、長屋王は暗躍する人々の勝手な都合で、この世から消されたのです。

しかし、政治闘争はこれだけでは終わりません。次は、官僚(政治家)同士の醜い政治闘争が始まります。

次回は、政治闘争から発展してしまった藤原広嗣の乱について説明します。

次:日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-3/4
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