長屋王と長屋王の変とは?わかりやすく紹介!【藤原氏の陰謀】

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今回は、藤原氏の策略によって滅ぼされたことで有名な長屋王(ながやおう)という皇族出身の人物について紹介します。

長屋王ってどんな人?

長屋王の状況はやや複雑です。上の系図を参考の当時の長屋王の状況を紹介してみたいと思います。系図が複雑で見にくいですが、何卒ご容赦ください・・・。

長屋王は、天武天皇の長男だった高市皇子の息子でした。母は天智天皇の娘であり、血統的には申し分のない人物です。天武天皇には多くの子供がいましたが、実際に皇太子として選ばれたのは持統天皇を母に持つ草壁皇子でした。

草壁皇子は天皇即位の前に亡くなってしまったため、697年、草壁皇子の息子である文武天皇が即位します。こうして長屋王の天皇即位とは疎遠になってゆきますが、長屋王は非常に優秀な人物であり、その後も朝廷内の中枢を担う官僚の1人でした。

優秀で血筋も高貴だった長屋王は非常に裕福だったらしく、広大な館を構え優雅な生活をしていたらしいです。天皇即位はできなかったものの、皇位継承問題に巻き込まれることもなく、朝廷内で権力を誇っていた藤原不比等との関係も良好であり、比較的恵まれた境遇にありました。

ところが720年に藤原不比等が亡くなり、その子供達が活躍する時代になると有能で血筋も高貴な長屋王は藤原氏にとって警戒すべき人物へと変わってしまいます・・・。

吉備内親王と長屋王

長屋王は、元明天皇の娘であり元正天皇の妹でもある吉備内親王(きびないしんのう)と言う人物を正妻とし、2人の間には男子もいました。

当時は、草壁皇子→文武天皇→聖武天皇というのが天皇家の直系と考えられていました。そのため、直系血族でない元明天皇・元正天皇の女帝らは聖武天皇が成長するまでのつなぎ役と考えられています。しかし、不測の事態により草壁皇子からの血筋が絶えた場合、天皇の最有力候補として浮上するのが長屋王の息子だったのです。

長屋王と藤原氏

長屋王が活躍した時代の政治の状況をサッと紹介しておこうと思います。645年に乙巳の変により有力豪族の蘇我氏が滅んで以来、日本では一貫して天皇や皇族を中心とした政治が行われていました。

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ところが、藤原不比等が登場するあたり(西暦700年前後)から新興勢力の藤原氏が朝廷の要職に登場し始めます。

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藤原不比等はその活躍から、持統天皇や文武天皇などと親密な関係となり、次第に天皇家との血縁関係を強めていきます。そして遂に724年、藤原宮子から生まれた聖武(しょうむ)天皇が即位します。当時は、父母ともに皇族の血を引く者が天皇になるのが通例と考えられていたので、藤原氏を母とする聖武天皇の登場は、相当ショッキングな出来事でした。母方が皇族ではない聖武天皇の即位を快く思わない人もたくさんいたようで、聖武天皇即位前後の朝廷は不穏な空気が漂っていました。

当然、藤原氏は聖武天皇とは親密な関係となり、聖武天皇即位により藤原氏は大いに躍進することになります。そんな時に、従来の皇族中心の政治を目指す人々の求心力になりうる存在だったのが長屋王でした。長屋王自身やその息子は血統的に申し分なく、長屋王自身の人格や才能も非常に優れたものでした。

こうした藤原氏VS皇族の対立関係の中で、皇族代表の存在だったのが長屋王だったのです。

長屋王の辛巳(しんし)事件

707年に文武天皇が亡くなり、その後元明天皇と元正天皇というダブル女帝を中継ぎとして724年に即位したのが奈良の大仏を建立したことで有名な聖武天皇です。聖武天皇の即位に合わせ、長屋王は右大臣から左大臣へと昇進します。左大臣は当時の最高官位であり、長屋王は朝廷において強力な力を持つ存在でした。

同じく724年、聖武天皇の母である藤原宮子の尊称をめぐり一悶着起こります。辛巳(しんし)事件と呼ばれる事件です。

長屋王「宮子の尊称は大夫人じゃないからな」

聖武天皇が即位すると早速、その母である藤原宮子の権威を高めようと宮子に「大夫人」という尊称を与えるという勅(ちょく。天皇の命令)を出しました。権威を高めようとする背景には、皇族出身でない母を持つ聖武天皇に不満を持つ者が多くいたことを示しています。

当然、この企ては藤原氏によって計画され天皇が実行したものです。おそらく、主導したのは藤原房前という藤原不比等の長男であったろうと思います。

しかし、この勅に異論を述べた男がいました。長屋王です。長屋王は次のように述べて、「大夫人」の尊称を撤回させます。

「大夫人という呼び名は法令的に良くない。法令に照らし合わせれば、文書上では『皇太夫人』、口頭では『大御祖(オホミオヤ)』と呼ぶのが正しい。よって勅は撤回すべきである」

こうして勅は撤回され、長屋王の言うとおりに修正されました。勅は天皇からの命令であり、それが事後に修正されることはまずありません。そのため、この長屋王の勅の撤回騒動は朝廷内でもかなりインパクトの大きい事件だったはずです。そして、勅を考えた藤原氏のメンツも潰されることになりました。

長屋王の発言の真意は不明ですが、一般的に「例え天皇を通じてであっても、藤原氏が自由勝手に政治を支配することはできないぞ!」という長屋王からの暗黙のメッセージだったというのが通説のようです。

この事件を通じて、長屋王と藤原氏の関係はなんとも微妙なものになったと考えられています。(ただし、この事件の真相は不明な点も多く、長屋王の本心ははっきりとはわかりません。)

長屋王の変

辛巳事件の5年後の729年、長屋王の変という事件が起こります。この事件により長屋王は自害。朝廷の最高官位であった皇族出身の長屋王の死により、藤原氏はより一層の繁栄を極めることになります。

長屋王の変の経緯を簡単に紹介しましょう。

聖武天皇の息子

727年、聖武天皇とその妃の藤原光明子は念願の男子を出生します。この男子は生まれるとわずか一ヶ月で皇太子となります。藤原氏は聖武天皇に続き、藤原氏を母とする天皇を再び即位させようと考えます。ところが、この男子は728年9月に夭折してしまいます。

男子の死により、聖武天皇の皇位継承問題がにわかに浮上し始めます。そこで、天皇候補として名前が挙がるのが長屋王と吉備内親王の間に生まれた息子でした。

上述したように長屋王は傍流となりつつありましたが、聖武天皇の血統が途絶えた際は長屋王の血統が嫡流に復活する可能性もありました。一方、天皇との血縁関係を利用して朝廷を支配したい藤原氏は長屋王が嫡流になることを許すことはできません。

長屋王の求心力

母方が皇族でない天皇を即位させたり、わずか一ヶ月の子を皇太子にしてしまう藤原房前や藤原光明子などの強引な政策には、多くの人々の不満があったと考えられています。繰り返しですが、当時は皇族が政治の中心に立つという考え方が一般的で、藤原氏が政治を支配していることには強い反発があったのです。おそらくは645年に乙巳の変で滅びた蘇我氏の復活だ・・・という感覚があったのだろうと思います。

こうして、藤原一族は長屋王に強い警戒心を抱くようになります。そして729年2月に事件は起こりました。

 長屋王、謀反を起こす!?

729年2月、聖武天皇の元に次のような密告がありました。「長屋王が国を傾けようと企んでいる」と。具体的には、その1年前に亡くなった聖武天皇の男子を呪詛して呪い殺した・・・という内容だと考えられています。

聖武天皇はこの密告を受け、直ちに兵を派遣します。兵を派遣したのは藤原宇合(うまかい)という人物です。

兵に自宅を包囲され死を悟った長屋王は、抵抗することもなく妻子共々みな自害します。こうして長屋王は滅び、邪魔者を消し去った藤原氏は大いに栄えることになります。

長屋王は冤罪だった!?

長屋王の変の事件に関しては、長屋王は冤罪であり、邪魔者を排除したい藤原氏の謀略だったというのが通説です。この通説は異論は少ないようで、概ね事実であるように思います。

事後の経過を見ても、長屋王の変には違和感があります。聖武天皇は、「罪人だからと言って卑しい葬儀をするな。丁重に葬儀の準備をせよ。長屋王の妻子には何の罪もないのだから通常どおり葬儀を行え。」と謀反を起こしたはずの人物について丁重に扱うよう指示しています。

さらに729年8月、藤原光明子が皇族以外の出身でありながら、皇后となりました。皇后は皇族出身の女が選ばれることが通例でしたが、藤原光明子はこの時新たな先例を作り出したことになります。邪魔者のいない朝廷内で、藤原氏は自らの地位を着実に高めていきました。

聖武天皇の対応と言い、藤原光明子が皇后となるタイミングと言い、どうも長屋王の変は胡散臭いにいおいがプンプンしてきます。

まとめ

長屋王が生きた時代は、皇族勢力と新興勢力の藤原氏とが水面下で対立していた時代でした。藤原氏の謀略で長屋王が没したことで、両者の対立は藤原氏側の大勝利に終わります。長屋王死後、朝廷内に本格的に藤原氏が進出し、次第に政治の実権を支配するようになっていきます。

長屋王について、特に複雑な心境だったのは、聖武天皇です。一度は左大臣にまで任命し信頼もあった長屋王を無実の罪で自害に追いやってしまったことは、聖武天皇の心に大きな傷を残したことでしょう。

長屋王の変は、聖武天皇の妃である藤原光明子ら藤原氏主導で行われ、若き聖武天皇はなすすべもなく藤原氏のいいなりになってしまったと考えられています。このようにして、不本意なままに重臣を殺めてしまった聖武天皇の心境は穏やかなものではなかったことでしょう。

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