昭和天皇と戦争責任|「つらい」と苦悩した晩年の真実をわかりやすく解説

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昭和天皇

もぐたろう
もぐたろう

今回は昭和天皇と戦争責任について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!「昭和天皇はなぜ東京裁判で裁かれなかったの?」「退位しなかった理由は?」「本人は戦争責任をどう考えていたの?」という疑問を一気に解消していこう!

📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応

この記事を読んでわかること
  • 昭和天皇はどのくらい戦争に関わっていたか
  • なぜ東京裁判で免訴になったのか
  • マッカーサーとの会談で昭和天皇は何を語ったか
  • なぜ退位しなかったのか
  • 法的・政治的・道徳的責任の3分類でわかる戦争責任の全体像

「昭和天皇は戦争を起こした独裁者として裁かれた」——そんなイメージを持っていませんか?
実は、昭和天皇しょうわてんのう東京裁判でも連合国からも、直接の戦争責任を問われることはありませんでした。それなのになぜ、昭和天皇は晩年まで「戦争責任のことを言われるのはつらい」と苦しみ続けたのでしょうか。

法的には裁かれなかった。しかし道義的には?そして昭和天皇自身は何を思っていたのか。この記事では、その複雑な問いに正面から向き合っていきます。

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昭和天皇の戦争責任とは?

3行でわかるまとめ
  • 昭和天皇は東京裁判で裁かれなかったが、GHQの政策的判断によるものだった
  • 天皇自身はマッカーサーに「責任はすべて私にある」と語り、退位も検討したとされる
  • 戦争責任は「法的・政治的・道徳的」の3種類に分けて考えると整理しやすい

「戦争責任」という言葉は、じつはとても広い意味を持っています。ひとくちに「昭和天皇の戦争責任」と言っても、何の責任を問うているのかによって、答えはまったく変わってきます。

ゆうき
ゆうき

戦争責任って、具体的にどういう意味?ひとことで言えない感じがするんだけど……。

もぐたろう
もぐたろう

そう、戦争責任って実は3種類あるんだよ。①法的責任(戦争犯罪として裁かれるか)、②政治的責任(戦争を止める判断ができたかどうか)、③道徳的責任(人として申し訳ないと感じるか)——この3つはまったく別の話なんだ!

昭和天皇の場合、①法的責任は問われませんでした。②③については、研究者の間でも今なお議論が続いています。そして昭和天皇自身は、③道徳的責任を強く感じていたことが、側近の記録から明らかになっています。

昭和天皇はどのくらい戦争に関わっていたか

昭和天皇の肖像
昭和天皇(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

昭和天皇の戦争への関与を考えるとき、まず理解しておくべきなのが明治憲法めいじけんぽう(大日本帝国憲法)の仕組みです。

明治憲法下では、天皇は国家の元首であり、陸海軍を直接統率する権限(統帥権とうすいけん)を持っていました。つまり制度の上では、天皇こそが最高司令官だったのです。

■ 明治憲法と統帥権のしくみ

統帥権ってなに?

「統帥権」とは、今でいう「軍の最高司令官の権限」のことです。明治憲法では、天皇がこの権限を持ち、参謀本部・軍令部を通じて陸海軍を直接指揮できるとされていました。さらにポイントなのが、この統帥権は「国務大臣の補佐(輔弼ほひつ)を必要としない」とされていたこと。つまり内閣(総理大臣たち)が軍の作戦に口を出せないという二重構造にじゅうこうぞうが生まれ、軍が暴走しやすい制度的欠陥となっていました。

重要なのは、この制度の「建前」と「実態」の差です。建前では天皇が最高司令官でしたが、実態は参謀本部・大本営が実質的な意思決定を行っており、天皇はその決定を追認する場面が多かったとされています。

しかし、単純に「昭和天皇は何もしなかった被害者」とも言い切れません。開戦前後の記録を見ると、昭和天皇が自らの意思を示し、戦争指導に影響を与えた場面も確認されているからです。

■ 太平洋戦争中の昭和天皇の「お言葉」

開戦を前にした1941年(昭和16年)9月6日、御前会議で昭和天皇は「四方の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ちさわぐらむ」という明治天皇の歌を詠み上げました。これは「戦争を望まない」意思の表明と受け取られています。

一方で、戦況が進むにつれ昭和天皇が積極的に作戦を指示していた場面も記録されています。「もっと積極的に攻めよ」「なぜ反撃しないのか」と参謀に問うた記録が残っており、大本営だいほんえいの会議では天皇の「お言葉」が戦争指導を左右することもありました。

あゆみ
あゆみ

じゃあ昭和天皇は「平和主義者」だったの?それとも「戦争推進者」だったの?どっちなの……?

もぐたろう
もぐたろう

これがまさに「単純には言えない」ところなんだよ。今でいう「会社の社長が業績不振の責任を取るべきか、暴走した部下の責任か」問題に近い。昭和天皇は確かに制度上の最高権力者だった。でも現場の暴走を完全にコントロールできていたかというと……そうでもなかった、というのが実態なんだ。

終戦の決断(1945年8月の玉音放送)において、昭和天皇自らが「聖断」を下して戦争を終わらせたことは事実です。しかしそれは「平和主義者だったから」だけでなく、本土決戦を避けて国体(天皇制)を守るという政治的判断でもありました。

📌 試験ポイント:明治憲法の統帥権の独立(第11条)→ 大本営の設置 → 軍部の暴走という流れは共通テストでも頻出。「天皇が直接命令できたが内閣が関与できなかった」構造を押さえておこう。

東京裁判でなぜ裁かれなかったのか

東京裁判(極東国際軍事裁判)
東京裁判(極東国際軍事裁判)の法廷(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

1945年(昭和20年)の敗戦後、連合国は戦争指導者を裁く東京裁判(極東国際軍事裁判)を開きました。東条英機ら28名のA級戦犯が裁かれ、7名が死刑判決を受けています。

しかし昭和天皇は、この裁判に起訴されることはありませんでした。なぜでしょうか。

■ GHQが「免訴」を選んだ理由

マッカーサー率いるGHQが昭和天皇を訴追しなかった理由は、大きく3つあります。

理由①:占領統治を円滑に進めるため

天皇は日本国民にとって絶大な権威を持つ存在でした。その天皇を処刑・投獄すれば、日本全土で反米感情が爆発し、占領政策が行き詰まる可能性がありました。マッカーサーはこのリスクを徹底的に避けようとしたのです。

理由②:天皇の証言価値と協力

昭和天皇自身が占領統治への協力を示し、全国巡幸ぜんこくじゅんこうなどを通じて国民に戦後復興への意欲を示しました。GHQはこの「象徴としての天皇」を積極的に活用したのです。

理由③:連合国内の意見対立

連合国の中でも、天皇訴追をめぐっては意見が割れていました。ソ連・中国・オーストラリアは訴追を主張する一方、アメリカ・イギリスは免訴を推進しました。結果的にアメリカの意向が通り、天皇は訴追を免れることになりました。

📌 試験ポイント:東京裁判(極東国際軍事裁判)は1946〜48年に開かれた。A級戦犯=「平和に対する罪」で訴追された者。天皇が訴追されなかった最大の理由は「占領政策の円滑化」という政治的判断。

■ 1975年訪米会見「言葉のアヤ」発言とは

東京裁判から30年後の1975年、昭和天皇は訪米の際の記者会見で戦争責任について問われました。このとき昭和天皇が答えた言葉は、後世まで語り継がれることになります。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりません」
——昭和天皇、1975年訪米記者会見(戦争責任を問われて)

この発言は、記者から「『私が深く悲しみとするあの戦争』というご発言は、戦争そのものに対して責任を感じているという意味ですか?」と問われたことへの答えです。昭和天皇は「言葉のアヤ」という言い回しで、戦争責任への問いに明確な返答を避けました。

この発言は当時も今も論争の的です。「答えたくなかったのか」「言葉を選んだのか」「そもそも質問が難しすぎたのか」——真意は明らかにされていません。ただ、この会見がきっかけで「昭和天皇は戦争責任を認めていない」という批判が国内外で強まったことは確かです。

マッカーサーとの会談——「責任は私にある」

東京裁判で訴追を免れた昭和天皇ですが、その直前にあたる1945年(昭和20年)9月27日、昭和天皇は自らマッカーサーを訪ね、初めての直接会談に臨みました。

この会談が、昭和天皇の免訴を実質的に決定づけたと言っても過言ではありません。

昭和天皇とマッカーサー 1945年9月27日
1945年9月27日、初会談時の昭和天皇とマッカーサー(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

写真を見ると、身長差が一目瞭然です。小柄な昭和天皇の隣に立つ長身のマッカーサー(身長約180cm)。この写真は翌日の新聞一面に掲載され、「神聖な天皇がアメリカ軍人と並んでいる」という衝撃を日本国民に与えました。

■ 天皇の言葉「すべて私の責任です」

会談の内容は長年秘密にされていましたが、マッカーサーの回顧録などにその一端が記されています。会談で昭和天皇は、通訳を通じてこう語りかけたとされます。

昭和天皇(裕仁)
昭和天皇(裕仁)

日本国民が戦争遂行において行った行為に対する政治上・軍事上の責任は、すべて私自身に帰するものです。

この言葉を聞いたマッカーサーは、深く感銘を受けたと回顧録に記しています。「私の前に立つ天皇は、他の誰かに責任を転嫁しようとせず、自ら戦争の一切の責任を引き受けようとしていた」——マッカーサーにとって、これは予想外の言葉でした。

もぐたろう
もぐたろう

マッカーサーはこの会談の印象を「英雄的・騎士道的な自己犠牲の精神だった」と表現したんだ。この会談が実質的に「天皇免訴」の流れを決定づけたとも言われているよ。

もっとも、この会談の記録は長年にわたって日本政府・宮内庁・GHQによって非公開とされていました。マッカーサーの回顧録(1964年)やその後の研究者の調査により、徐々に内容が明らかになってきたのです。

昭和天皇が本当に「一切の責任は私に」と言ったのか、それとも外交的な表現として使われたのか——史料批判の観点からは慎重な判断が求められますが、マッカーサーが感銘を受けたこと自体は複数の記録に残っています。

なぜ退位しなかったのか

昭和天皇(正装・1935年ごろ)
1935年ごろの昭和天皇(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

敗戦後、昭和天皇の退位をめぐる議論は日本国内でも海外でも盛んに行われました。「道義的責任を取って退位すべき」という意見は、当時の知識人や宗教界からも出ていました。

それでは昭和天皇自身はどう考えていたのでしょうか。

■ 「道義的責任を取って退位すべき」論

1945〜46年(昭和20〜21年)の時期、退位論は複数の方向から起こっていました。

国内では、カトリック神父の石川三四郎や作家の高見順らが「昭和天皇は退位して責任を示すべきだ」と主張しました。海外では、オーストラリア・ソ連が強硬に退位・訴追を求める立場を取っていました。

しかしGHQは退位を認めませんでした。理由は前述の通りです——退位によって昭和天皇の「象徴としての価値」が失われ、占領統治が不安定になることを、マッカーサーは何よりも恐れていたのです。

■ 昭和天皇が選んだ道——「象徴」として生きる

1946年1月1日、昭和天皇は「人間宣言にんげんせんげん」を発表しました。自らの神格性を否定し、「日本国民と共に生きる人間としての天皇」を宣言したのです。

その後、1946年11月には日本国憲法が公布されました。新憲法の第1条では「天皇は日本国の象徴」と定められ、昭和天皇は「象徴天皇」として新しい役割を担うことになります。

1946年から昭和天皇は全国巡幸ぜんこくじゅんこう(全国を直接訪問する旅)を始めます。1954年まで8年半をかけて、当時米国統治下にあった沖縄を除く46都道府県を訪問しました。廃墟となった街を歩き、被災した国民と直接触れ合う昭和天皇の姿は、「人間天皇」として国民に受け入れられていきました。

あゆみ
あゆみ

退位しなかったのは、周りに止められたから?それとも本人が望んで「象徴として生き続けよう」と決意したの?

もぐたろう
もぐたろう

実はどちらの説も根拠があってね。「退位したかったが周囲(GHQ・宮内庁)が止めた」という説と、「昭和天皇自身が国民のために生き続けることを選んだ」という説が対立しているんだ。側近の日記(木下道雄侍従次長の記録)には「陛下は退位を覚悟されていたが、GHQが認めなかった」という趣旨の記述もある。でも最終的に昭和天皇自身は、全国巡幸などで「象徴天皇」として積極的に動き続けた——その姿が答えを示しているのかもしれないね。

退位問題の核心にあるのは、「責任の取り方は退位だけではない」という考え方です。昭和天皇は退位する代わりに、戦後の廃墟の中で国民と共に生き、復興を見届けることを自らの責任の取り方とした——その解釈が、今日最も広く受け入れられています。

📌 試験ポイント:「人間宣言」(1946年1月1日)→「日本国憲法公布」(1946年11月3日)→「象徴天皇制」確立の流れを押さえる。全国巡幸は1946〜1954年(沖縄除く46都道府県)。

晩年の昭和天皇「戦争責任のことを言われるのはつらい」

二・二六事件(1936年)
二・二六事件(1936年)——昭和初期の軍国化が戦争への道を開いた(出典:Wikimedia Commons / パブリックドメイン)

東京裁判で免訴となり、「象徴天皇」として全国巡幸を続けた昭和天皇でしたが、心の中に戦争責任への苦悩が消えることはありませんでした。

1988年(昭和63年)——崩御のわずか1年前のことです。長崎市の本島等もとしまひとし市長が「天皇に戦争責任がある」と発言しました。この発言が引き金となり、日本社会では「天皇の戦争責任」をめぐる議論が再燃します。

その騒動を聞いた昭和天皇は、側近にこう打ち明けました。

昭和天皇(裕仁)
昭和天皇(裕仁)

……戦争責任のことを言われるのは、つらい。

この言葉は、侍従の小林忍が記した日記に残されています。昭和天皇が戦争責任について公の場でほとんど沈黙を守り続けてきたにもかかわらず、その内面では生涯にわたって苦しみ続けていたことを示す、数少ない「本音の記録」です。

もぐたろう
もぐたろう

この本島市長発言のあと、長崎市に右翼団体が押し寄せ、本島市長は1990年に銃撃されて重傷を負ったんだ。「天皇と戦争責任」という話題がいかにデリケートだったか、この事件が物語っているよね。

昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日に崩御しました。享年87歳。昭和という時代が終わり、翌日から「平成」が始まりました。

■ 昭和100年と戦争責任論の現在

2025年は「昭和100年」にあたります。昭和天皇の戦争責任をめぐる評価は、この100年でどのように変化してきたのでしょうか。

2014年(平成26年)、宮内庁は『昭和天皇実録しょうわてんのうじつろく』全61巻を公開しました。これは宮内庁が24年をかけて編纂した昭和天皇の公式伝記で、一次資料にもとづく膨大な記述を含んでいます。この公開によって、昭和天皇が戦争中にどのような発言をしていたか、開戦・終戦の判断においてどのような役割を果たしたかが、より詳細に検証されるようになりました。

かつて「天皇と戦争責任」の議論は、日本社会において長年タブー視されてきました。しかし近年の歴史学では、史料の蓄積と研究の進展により、この問いを冷静に学術的に論じることができるようになってきています。「断罪か免罪か」という単純な二項対立を超え、歴史的文脈の中で複層的に評価しようとする動きです。

昭和天皇の戦争責任——3つの視点で整理する

ここまでの話をふまえて、昭和天皇の戦争責任を「法的責任」「政治的責任」「道徳的責任」の3つの視点から整理してみましょう。

ゆうき
ゆうき

法的・政治的・道徳的……難しいなあ。それぞれどう違うの?

もぐたろう
もぐたろう

今でいう「社長が責任を取るべきか、現場の部下の暴走か」問題に似ているよ!法律で罰せられるかどうか・経営判断として失敗したかどうか・人間として後悔・苦しんでいるかどうか——これら3つはそれぞれ別の話なんだ。

■ 法的責任:東京裁判での免訴

「法的責任」とは、裁判で有罪・無罪を問われる責任のことです。この観点では、昭和天皇は東京裁判(極東国際軍事裁判きょくとうこくさいぐんじさいばん)で免訴——つまり訴追すら受けませんでした。

ただし、重要な点があります。「訴追されなかった=法的に無実が証明された」わけではありません。訴追されなかったのは、GHQの政治的判断によるものであり、昭和天皇の行為が法的に問題ないと認定されたからではないのです。

法的責任:東京裁判で訴追されず(GHQの占領政策上の政治的判断による)

■ 政治的責任:戦争を止められなかった

「政治的責任」とは、指導者としての判断・決定にともなう責任のことです。この観点では、昭和天皇は明治憲法下の最高権力者として統帥権とうすいけんを握り、開戦・作戦・終戦に関わる最終的な決定に関与していました。

「もっと早く終戦を決断すれば、何十万人もの命が失われずに済んだのではないか」——この問いは今も歴史家の間で議論が続いています。軍部の暴走を止められなかった、あるいは止めようとしなかった点は、政治的指導者としての責任として問われ続けています。

政治的責任:軍部を抑えられなかった/終戦の早期決断ができなかった

■ 道徳的責任:晩年まで続いた苦悩

「道徳的責任」とは、法律や政治とは別に、一人の人間として良心の問題として感じる責任のことです。この観点では、昭和天皇は生涯を通じてこの責任を深く感じていたと考えられています。

人間宣言・全国巡幸・晩年の「戦争責任のことを言われるのはつらい」という言葉——これらはすべて、昭和天皇が内面で道徳的責任を自覚していたことを示しています。法的に裁かれなくても、政治的に否定されなくても、人間として「あの戦争に自分はどう関わったのか」という問いに向き合い続けたのが昭和天皇という人物でした。

道徳的責任:「つらい」という晩年の言葉に込められた、生涯消えることのなかった自覚

あゆみ
あゆみ

結局のところ、昭和天皇を「悪い人」と断言できるの?それとも「被害者」なの?

もぐたろう
もぐたろう

どちらでもないし、どちらでもある——それが正直な答えだと思う。昭和天皇は「加害者か被害者か」という単純な二項対立では語れない人物なんだ。戦争という巨大な歴史的力の中で、個人がどこまで責任を持てるのか——昭和天皇の問題は、そういう「歴史の難しさ」そのものを問いかけているんだよ。

テストに出るポイント(共通テスト・高校日本史対策)

この記事のテーマのうち、共通テスト・高校日本史の定期テストで問われやすいポイントをまとめます。

テストに出やすいポイント
  • 明治憲法下の「統帥権の独立」とは何か——軍の指揮権(統帥権)が天皇に直属し、議会・内閣が口出しできなかった制度。軍部の暴走を招いた要因として頻出。
  • 東京裁判(極東国際軍事裁判)の概要——1946〜48年開催。A級戦犯28名を「平和に対する罪」で訴追。昭和天皇は訴追されず(免訴)。
  • 人間宣言(1946年1月1日)——昭和天皇が自らの神格性を否定し、「日本国民と共に生きる人間としての天皇」を宣言した詔書。
  • マッカーサーと天皇制存続の関係——GHQが天皇制を廃止せずに存続させた理由は、占領統治の円滑化という政治的判断によるもの。
  • 全国巡幸(1946〜1954年)——昭和天皇が全国46都道府県(米国統治下の沖縄を除く)を直接訪問した旅。「人間天皇」として国民に受け入れられる大きなきっかけとなった。

よくある質問(FAQ)

GHQの占領政策上の判断によるものです。マッカーサーは「天皇を訴追すれば日本国民の反発を招き、占領統治が困難になる」と判断し、天皇制の存続と天皇の免訴を選択しました。これは昭和天皇の行為が法的に問題ないと認定されたわけではなく、あくまでも政治的・軍事的な戦略判断でした。

単純に「望んでいた」とも「望んでいなかった」とも言い切れません。開戦前後の日記・記録によれば、昭和天皇は対米開戦に消極的な発言をしていたとされる一方、戦中には積極的に作戦を指示した記録も残っています。「平和主義者だった」という見方も「戦争推進者だった」という見方も、一面だけを捉えた評価です。昭和天皇実録などの一次資料の研究が進む中で、より複雑な実像が明らかになってきています。

大きく2つの理由があったとされます。ひとつはGHQが退位を認めなかったこと——退位によって天皇の「象徴としての統治価値」が失われることをマッカーサーが恐れたためです。もうひとつは昭和天皇自身が「退位よりも国民と共に歩むことが自分の責任の取り方だ」と考えたとされることです。侍従の記録には「退位を覚悟されていた」という記述もあり、両方の側面が絡み合っています。

明治憲法下で、軍の指揮権(統帥権)が天皇に直属し、議会・内閣が軍の作戦・人事に口出しできなかった制度のことです。今でいう「軍の総司令官が政府から完全に独立して動ける状態」です。この制度が、軍部が内閣を無視して暴走できる構造を生み出し、日中戦争・太平洋戦争への道を開く一因となりました。共通テストでも頻出のキーワードです。

マッカーサーは回顧録(1964年)の中で、1945年9月の初会談での昭和天皇について「英雄的・騎士道的な自己犠牲の精神」と称えています。「すべての責任は私にある」という昭和天皇の言葉に深く感銘を受けたとも記しています。マッカーサーは昭和天皇を、占領統治を成功させるための最重要パートナーとして高く評価しており、天皇制存続の最大の推進者でもありました。

昭和100年(2025年)を迎えた現在も、評価は分かれています。2014年に宮内庁が公開した『昭和天皇実録』によって一次資料の研究が進み、「タブー」から「歴史的検証の対象」へと変化しつつあります。「断罪か免罪か」という二項対立を超え、明治憲法という制度的枠組みの中での昭和天皇の役割を複層的に評価する研究が主流になってきています。

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もぐたろう
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まとめ

昭和天皇と戦争責任のポイントまとめ
  • 昭和天皇は東京裁判で免訴——GHQの占領政策上の政治的判断によるもの。「無実の証明」ではない。
  • マッカーサーへ「責任は私にある」と直接語った——1945年9月27日の会談。回顧録に残る史実。
  • 退位問題は複雑——GHQ・宮内庁の反対と、昭和天皇自身の「象徴として生き続ける」意志が絡み合う。
  • 晩年まで「つらい」と苦悩——1988年、崩御1年前に側近へ吐露。道義的責任は生涯消えなかった。
  • 3分類(法的・政治的・道徳的)で整理——それぞれ異なる答えが出る複雑な問題。1つの言葉で断罪できない。

昭和天皇 生涯年表
  • 1901年(明治34年)
    誕生——大正天皇の第一皇子として東京に生まれる
  • 1921年(大正10年)
    欧州訪問——日本の皇族として初の欧州訪問。民主主義・立憲君主制を目の当たりにする
  • 1926年(大正15年)
    即位・昭和元年——昭和天皇として即位。「昭和」の元号は「国民が平和に」という意味
  • 1931年(昭和6年)
    満州事変——関東軍が独断で満州を占領。軍部の台頭が加速する
  • 1941年(昭和16年)
    太平洋戦争開戦——対米英宣戦布告。昭和天皇が開戦の詔書に署名
  • 1945年8月(昭和20年)
    玉音放送・終戦——昭和天皇みずから録音した玉音放送でポツダム宣言受諾を国民に伝える
  • 1945年9月27日(昭和20年)
    マッカーサーと会談——「日本国民の行った行為の責任はすべて私にある」と直接語る
  • 1946年1月1日(昭和21年)
    人間宣言——天皇みずから神格性を否定する詔書を発表
  • 1946〜1954年(昭和21〜29年)
    全国巡幸——46都道府県(沖縄除く)を直接訪問。廃墟の中で国民と触れ合い「人間天皇」として定着
  • 1948年(昭和23年)
    東京裁判判決——A級戦犯7名に死刑判決。昭和天皇は免訴のまま
  • 1975年(昭和50年)
    訪米記者会見——「言葉のアヤ」発言。戦争責任への問いを明確に答えなかった場面が話題に
  • 1988年(昭和63年)
    「つらい」と側近に吐露——長崎市長の戦争責任発言に接し、晩年の苦悩を打ち明ける
  • 1989年1月7日(昭和64年)
    崩御——享年87歳。昭和64年間が終わり、翌日「平成」元年が始まる

もぐたろう
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以上、昭和天皇と戦争責任のまとめでした!「法的・政治的・道徳的の3分類」「東京裁判の免訴の理由」「マッカーサー会談のエピソード」をしっかり押さえておこう。下の関連記事もあわせて読んでみてください!

東京裁判について詳しく知りたい方はこちら:

📅 最終確認:2026年4月
📖 本記事は山川出版『詳説日本史』(2022年版)に基づいています。中学歴史・高校日本史どちらにも対応しています。

参考文献

Wikipedia日本語版「昭和天皇の戦争責任論」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E8%AB%96 / 2026年4月確認)
Wikipedia日本語版「昭和天皇」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87 / 2026年4月確認)
コトバンク「昭和天皇」(デジタル大辞泉・日本大百科全書 / 2026年4月確認)
山川出版社『詳説日本史』(2022年版)
宮内庁『昭和天皇実録』全61巻(2014〜2019年公開)
ダグラス・マッカーサー著(津島一夫訳)『マッカーサー回想記』(朝日新聞社、1964年)

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この記事を書いた人
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