面白ほどわかる白村江の戦い!わかりやすく解説【その後の日本への影響を考える】

この記事は約9分で読めます。

今回は、663年に起こった白村江はくそんこうの戦いについてわかりやすく解説します。「白村江」は「はくすきのえ」と呼ぶことも。

最初に教科書風に白村江の戦いを簡単にまとめておきます。

白村江の戦いの簡易版まとめ

朝鮮半島では、唐と新羅が結んで660年に百済を滅した。倭(日本)は斉明天皇の下で、百済の再興を支援するため大軍を朝鮮半島に派遣したが、663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した。

この記事では白村江の戦いについて以下の点を中心に解説します。

  • 当時、朝鮮半島は一体どうなっていたの?
  • なぜ、日本は百済を支援しようとしたの?
  • 白村江の戦いの原因・経過は?
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1分でわかる当時の朝鮮半島情勢

白村江の戦いは、日本・百済VS唐・新羅という国際戦争です。なので、最初に当時の朝鮮半島の情勢について簡単に整理してみました。

この記事の主役となる国々
  • 日本
  • 百済くだら
  • 新羅しらぎ
  • 高句麗こうくり
(参考)五世紀末の朝鮮半島の様子 出典:wikipedia

上の図は、5世紀末の朝鮮半島の様子。白村江の戦いが起こった663年(7世紀中頃)には、伽耶かやが新羅に併合されていたので「伽耶=新羅」として見てくださいね。

そして以下のやりとりは、4国の関係のイメージです。

唐

唐は618年に腐敗した隋を滅して、新しくできた国だ。

この勢いで、隣接する高句麗を攻撃するぞ。

高句麗
高句麗

唐と戦うため、背後の百済・新羅とは仲良くしときたい・・・

新羅
新羅

私は朝鮮半島の統一を考えている。

そのためには百済と高句麗が邪魔だ。私だけでは、この2国に勝てないから、「打倒高句麗」で利害の一致する唐と連携するわ。

唐

いいねいいね。

百済を滅ぼせば、高句麗を南北から挟み撃ちにできるしぜひ協力しよう。(落ち着いたら新羅も倒して朝鮮半島全部俺のものにする予定だけどなw)

百済
百済

新羅が攻め込んでくるんだが・・・。

高句麗と手を組んで新羅をボコボコにしてやる。

高句麗
高句麗

OK。唐に味方する新羅は俺にとっても敵だからな。

ここまでの流れを年表にしてまとめておきます。

  • 618年
    隋が滅び、唐が建国

    唐は高句麗とたびたび争うことになる。

  • 654年
    新羅で武烈王ぶれつおうが即位。

    武烈王は「新羅による朝鮮半島統一」を目指す。

  • 659年
    百済・高句麗連合軍が新羅をフルボッコ

    窮地に陥った新羅は唐に援軍を要請。

  • 660年
    百済、滅亡

    唐の援軍により戦況は一変し、百済は唐・新羅に攻め込まれ滅亡する。

滅ぼされた百済では難民が続出。日本へ亡命する者も多く、日本はこれを受け入れました。さらには、百済の再興を望む人々までもが来日し、日本にこう懇願します。

百済
百済

日本さんお願いだ。百済再興のため、私と一緒に戦ってくれないか・・・!

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日本の英断、白村江の戦いへ

660年10月、百済再興のため抵抗運動を続けていた鬼室福信きしつふくしんの使者が日本にやってきて、朝廷に支援を求めます。

朝廷「まさか、あの百済が滅びるとは・・・」

情勢を知った朝廷には衝撃が走りました。朝廷では対応について議論が行われますが、日本にとって百済支援は大きく次のようなメリット・デメリットがありました。

メリット

百済は日本の友好国であり、日本と朝鮮半島の架け橋となる大切な国でした。

日本は新羅との関係が微妙だったので、ここで百済が滅びると日本と朝鮮半島の国交が絶えて、東アジアで孤立してしまう可能性がありました。

百済を助ければ、日本の国際的な立場が守られる・・・というのが百済支援のメリット。

デメリット

百済を支援するということを、百済を滅した唐・新羅と敵対関係になるということ。

新羅はともかく唐は超大国でした。唐のターゲットにされたら、日本も滅ぼされるかもしれない・・・というのがデメリット

660年12月、朝廷のトップに立つ斉明天皇は百済支援を決断。上のメリット・デメリットを踏まえると、

唐に攻められるリスクを覚悟してでも、朝鮮半島との国交を守りたかった。

ということになります。

こうして、日本の命運をかけた戦いが始まろうとしていました。

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斉明天皇、無念の崩御・・・

この非常事態に斉明天皇は、軍を指揮するため自ら九州へ赴きます。異国と戦うために天皇が都を離れたのは、日本の歴史上この時のみです。白村江の戦いはそれほどの大事業だったのです。

しかし661年、斉明天皇は遠征の途中、九州の地で崩御してしまいます。68歳という高齢での崩御でした。道半ばでの死に、斉明天皇はさぞ無念だったことでしょう・・・。

斉明天皇が崩御した後、その意思は息子の中大兄皇子なかのおおえのおうじが受け継ぐこととなりました。中大兄皇子は、称制しょうせい(天皇代理となって国を治めること)して朝鮮半島遠征の準備を進めます。

中大兄皇子は、なぜか自分が天皇になろうとはしませんでした。その理由はわかっていませんが、「天皇即位したら行為をめぐって国内で争いが起きて、遠征どころではなくなる」あたりの理由なんじゃないかと、個人的には思います(諸説あります。)

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白村江の戦い

日本の遠征軍は、662年と663年の二回に分けて百済に送られました。日本軍は総勢3万を超える大部隊となりました。ここまでくると、白村江の戦いはもはや国運をかけた大勝負と言っても過言ではないでしょう。

百済復興軍の本拠地は周留城するじょう。戦いの舞台となる白村江の近くに構えられたお城です。

ちなみに「江」とは「大きな川」を意味する言葉。白村江の戦いは、「白村という名前の江で起こった戦い」なので、水上戦だったことがわかります。場所は以下の地図を参考に。

日本の援軍に対抗するため唐・新羅連合軍も援軍を送り込みます。

663年8月17日、日本・百済連合軍の本拠地である周留城を水陸両方から包囲。白村江の河口は唐の水軍で埋め尽くされました。

8月27日、朝鮮南部で新羅軍と戦っていた2万の日本水軍が「周留城、包囲!」の知らせを聞いて帰還。そして、帰還途中に、白村江の河口に待ち構える唐水軍と衝突することになります。これこそが、白村江の戦いです。

準備万端で守備の陣形を敷いていた唐水軍に日本はコテンパンにやられます。

翌日の8月28日、日本軍が苦戦を強いられて船の隊列を崩したところを唐水軍に狙われ挟み撃ちにされ、壊滅的な被害を被ることとなりました・・・。

陸上戦でも百済・日本連合軍は唐・新羅連合軍に敗れ、百済再興の夢はここに散ることになりました。

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唐が攻めてきたら日本終了のお知らせ【悲報】

白村江の戦いでの敗北は、日本の最大級の国難へと陥れることになります。

唐・新羅連合軍に喧嘩を売った以上、次は日本が攻め込まれるかもしれません。白村江の戦いに敗れた日本は、休む暇もなく、大急ぎで国土防衛に明け暮れることになります。

国土防衛には主に以下の4つの政策が実施されました。

国土防衛政策その1:九州北部に築城する

朝鮮から海を越えて敵が攻めてきた場合、九州北部は真っ先に的に襲われる場所です。なので、お城を建てて守備を固めました。

今でも跡地が残っている有名なお城は水城みずき大野城おおのじょうの2つ。水城の跡地は福岡県太宰府市を中心に、大野城の跡地は福岡県大野城市を中心に残されています。

国土防衛政策その2:防人の登場

城が完成したら、そこを守る兵力が必要です。そこで作られたのが防人さきもりの制度。東国から人々を防人として派遣し、国境の守備に当たらせました。

国土防衛政策その3:各地の有力豪族の懐柔

白村江の戦いでの敗北に乗じて、朝廷に対して謀反を起こす有力豪族が現れることを危惧した中大兄皇子は、有力豪族の懐柔策を打ち出しました。

有力豪族のトップ(族長)を朝廷が氏上うじのかみと認定し、その身分を保証しました。こうしとけば、豪族の中で争いが起こっても、朝廷から公式に認められた現役の族長が有利な立場になります。そして、身分を保証された豪族自身が朝廷に対して謀反を起こす可能性も減るわけです。

国土防衛政策その4:大津宮へ遷都

中大兄皇子は、飛鳥にあった都を大津へと移しました。これは敵に攻め込まれた場合に、大津宮の方が防衛上有利だったからです。

しかし、急な遷都に飛鳥に住んでいた人々は猛反発し、この人々の不満は後の壬申の乱の遠因の1つとなりました。

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新羅のおかげで日本助かる【朗報】

急ピッチで進められた国土防衛策ですが、結局、唐が攻めてくることはありませんでした。

668年には百済に続いて高句麗も唐・新羅連合軍によって滅ぼされ、朝鮮半島は新羅によって統一されました。そして、百済・高句麗という共通の敵を失った唐・新羅は連携を解消し、逆に対立するようになります。

唐

新羅は、高句麗・百済を滅ぼすのに利用しただけで用済みだ。次は新羅を滅し、朝鮮半島全てを併合してやる。

新羅
新羅

唐の力を利用して、目標だった朝鮮半島統一を実現した。

もはや朝鮮半島を狙う唐は新羅の敵だ。

こうして新羅と唐が争っている間、日本は唐に使者を派遣して、唐との関係修復に努めていました。

余計な敵を増やしたくない唐も、新羅と日本が組む可能性を潰すため、日本との関係修復に同意。こうして、日本と唐との戦争は危機一髪のところで回避されたのでした。

そして、白村江の戦いの敗戦処理に目処がついた668年、称制して天皇代理のままだった中大兄皇子は、ようやく天皇即位して天智天皇となりました。

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白村江の戦いまとめ(年表)

白村江の戦いの年表
朝鮮半島の情勢をもっと詳しく知りたい方へ
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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コメント

  1. 久保山 昇生 より:

    時代の考察において日本と百済の連合軍と表現するのは違和感があります。
    唐や新羅は国際感覚としてどの国と戦ったと認識していたのでしょう…
    存続の危機に陥ったのは倭国であり次代を担ったのか日本国では?(政権交代)
    正確な歴史認識と時代考証は大切に表現してはしいです。

    • nx より:

      白村江負けましたからね
      でも正確な資料が沢山あればこうも曖昧にならないでしょうね

      • 久保山 昇生 より:

        正確な資料を焚書で失ってしまうことは 近代(明治)にもあります。(高良大社の焚書)
        とても残念な蛮行ですよね。私の思いは 倭国にしても日本国にしても国といぅ概念から
        国際紛争に突入していった経過をきちんと歴史に記すことで防げることを考えてほしいとの
        願いがあります。(倭国や日本国の国境の不思議も含めて)