今回は、倭王武の上表文についてわかりやすく丁寧に解説していきます。
倭王武の上表文は、古墳時代を代表する史料の1つです。この内容がわかると、古墳時代の倭国の様子がよーくわかるので、この記事を読んでバッチリ理解しておきましょう!
そもそも倭王武の上表文って何?
本題に入る前に、そもそも「倭王武の上表文」が一体何かを紹介しておきます。
見慣れない漢字ばかりでわかりにくいので、まずは「倭王武の上表文」を言葉ごとに分解してみると次のようになります。
倭王の武が書いた上表文
倭王の武とは誰か
倭王の武とは、『宋書』倭国伝に記されている倭の五王の一人です。
倭の五王は、讃・珍・済・興・武と漢字一文字で表された倭国の王のこと。
武は五人の中で一番最後に登場する倭国の王で、日本書紀や古事記に記録されている雄略天皇だと言われています。
上表文とは
上表文とは、「君主に送る文書」のことです。
・・・ここで1つ、疑問が生まれます。
武(雄略天皇)は倭国の王なんだよね?
その倭王が、君主に文書を送るっておかしくない?だって、王自身が君主なんだからさ。
ここでいう君主とは中国(宋)のこと。倭王の武は、朝鮮半島での外交や軍事を有利に進めるため、中国に対して朝貢を行い、主従関係を結んでいたのです。
当時の詳しい話は、以下の記事で解説しています。この記事の内容でわからない部分があったら、合わせて読んでみてください。
まとめると「倭王武の上表文」とは、「倭王の武が中国に対して送った文書」ってことです。
倭王武の上表文の内容
次に倭王武の上表文にはどんなことが書かれていたのか、見ていきます。
原文は漢字だらけで意味不明なので、ここでは簡単な概要を紹介します。
倭王武「倭国は中国のために頑張っているよ!」
まず最初に、倭国の頑張りをアピールします。
我が国(倭国)は、中国の臣下となり、中国とは離れた場所にあります。
ご先祖たちの昔からの活躍により倭国は、東に55国、西に66国、北に95国を平定する大国となりました。
こうして、中国の威光は倭国を通じて各地にも及ぶようになりました。
さらに、倭国は代々より中国に仕えており、朝貢も欠かさず行っております。
倭国が平定した国は、
東は関東や東北の蝦夷
西は九州南部などヤマト朝廷に属さない人々
北は朝鮮半島南部
だと言われています。
なぜ、こんなに頑張ってるアピールをするのかというと、中国にとあるお願いをするためでした。詳しくは続きを読んでいきましょう。
倭王武「中国に仕えたいのに、高句麗が邪魔をするのです」
話は、倭国の国内情勢、そして朝鮮半島の外交問題へと変わります。
愚かな私ですが、私は暗殺された弟の安康天皇の代わりに倭国の王となり、百済を経由して朝貢を行っております。
ところが最近、高句麗が百済に侵略を始めたせいで、百済から出港する船が高句麗に邪魔され、朝貢にも支障が生じております。
私の父である允恭天皇(済)は高句麗の悪行に憤慨して、これを討伐しようと出兵の準備を進めますが、その途中で命を落としてしまいました。
そして、私は現在、父と兄の喪に服しておりますので、軍を動かすことができず、高句麗の悪行を見ているしかありません。
まとめると、「高句麗が百済に侵攻して、朝貢の邪魔をする。だから高句麗と戦おうと思うんだけど、いろいろあって上手く進んでないよ」という現状を説明しています。
倭王武「百済を救うために、助けをくれませんか」
ここからが倭王武の上表文の本題です。
倭王武は、「中国に忠誠を尽くしたいのに、高句麗が邪魔するんですよ・・・」という理屈で、中国に協力を求めます。
準備さえ整えば、私(武)は高句麗と戦争をするつもりです。私はひるむことなく前だけを向いて全力で高句麗と戦う決意です。
もし中国皇帝のご威光のもとで、強敵の高句麗を倒すことができましたら、先代倭王からの悲願を達成することができます。
そのためにも、皇帝から、高句麗と戦うにふさわしい役職を賜わって、忠誠を尽くしてまいる所存です。
倭王武の上表文の一番大事な部分は上の赤線部分。
倭王武が望んだのは高句麗と戦う大義名分。その大義名分を、中国から与えられる役職に求めたわけです。倭王武の上表文にはいろいろ書いてありますが、この話以外はすべて前置きにすぎません。
倭王武の上表文の結果
上で登場した「高句麗と戦いにふさわしい役職」を具体的に見ていきます。
実は武(雄略天皇)の先代たちの努力によって、倭王はすでに中国から以下のような役職を与えられていました。
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東将軍倭国王
漢字だらけで意味不明かもしれませんが、要するに 「6国の軍事に携わる役職」のことです。
倭王武は、これに百済を追加した七国の軍事権を中国に要求しました。
百済での軍事行動について中国からのお墨付きをもらうことで、百済をめぐる高句麗との戦いを有利に進めようとする魂胆です。
・・・しかし、倭王武の目論見は失敗に終わります。中国は倭王武の役職を「安東将軍」から「大安東将軍」に少し格上げしただけで、百済での軍事権を認めませんでした。
中国は高句麗との関係を良好に保つため、高句麗と戦う倭国を公式に支援することができなかったのです。
中国からすれば、遠く離れ海で隔たれた倭国よりも陸続きで近い高句麗との関係を重視したわけですね。
その後の倭国の情勢
結局、倭国は高句麗に対抗できませんでした。そして、高句麗の攻勢で困った百済が逃げるように朝鮮半島南部で勢力拡大を図ります。
朝鮮半島の南部は、倭国が最も影響力を持つ地域です。そこに百済の勢力がやってきて、朝鮮半島南部の情勢は不安定になってきます。
最終的に、高句麗に攻め込む余裕もなくなり、朝鮮半島南部を隣国の百済・新羅から守ることで精一杯に。そしてついに、500年代半ば(6世紀半ば)には、朝鮮での影響力を失った・・・と言われています。
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