

今回は九州征伐(九州平定)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!豊臣秀吉と島津氏の激突、戸次川の戦いから根白坂の戦い、そしてバテレン追放令まで、まとめて押さえていこうね!
「30万対5万で豊臣秀吉の圧勝だった」——そう思っている方も多いかもしれません。
実は、九州征伐は決して「楽勝」ではありませんでした。豊臣軍は戸次川の戦いで島津軍に大敗し、四国から参戦した長宗我部信親(長宗我部元親の嫡男)が戦死するほどの苦戦を強いられます。決着をつけたのは圧倒的な兵力差だけではなく、根白坂での戦術的勝利と、秀吉ならではの巧みな外交力でした。
この記事では、九州征伐の背景・経緯・経過を、戦いの現場から戦後処理(バテレン追放令)までまるごと解説します。
九州征伐とは?わかりやすく3行でまとめると
- 1587年(天正15年)、豊臣秀吉が九州の島津氏を制圧した戦い。「九州平定」とも呼びます。
- 30万の豊臣軍が九州に侵攻し、島津義久が剃髪して降伏。薩摩・大隅は島津家に安堵されました。
- 征伐直後、博多でバテレン追放令が出され、秀吉のキリスト教政策が大きく転換することになります。

九州征伐とは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が九州の島津氏を屈服させ、九州全土を豊臣政権下に組み込んだ戦いのことを言います。
戦いそのものは1586年(天正14年)の戸次川の戦いから始まり、1587年4月の根白坂の戦いでの豊臣軍の勝利で決着がつきました。同年5月、島津義久が剃髪して秀吉に降伏し、薩摩・大隅・日向の一部を安堵される形で戦後処理が進められたのです。
九州征伐は、秀吉が天下統一を完成させるうえで決定的な意味を持つ戦いでした。小牧・長久手の戦いで徳川家康と和解し、四国を平定したあとに残された最後の大勢力が、九州の島津だったからです。

「九州征伐」は豊臣側が攻め込んだ視点、「九州平定」は天下統一を進めた視点から呼ぶことが多いんだよ。どちらも同じ出来事を指すから、どちらの表記も同じものを指すと覚えておこう!
九州征伐の背景——なぜ秀吉は九州へ向かったのか
九州征伐の背景には、九州内部の激しい勢力争いと、それに干渉せざるを得なくなった秀吉の事情がありました。順番に見ていきましょう。
■ 九州三強(島津・大友・龍造寺)の抗争

1580年代の九州は、薩摩の島津氏・豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏という三大勢力が覇を競う「九州三国志」の様相を呈していました。
しかし1584年(天正12年)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津軍に敗れて戦死すると、勢力バランスは一気に崩れます。島津氏はそのまま北上を続け、大友氏の本拠地・豊後(現在の大分県)に迫る勢いを見せたのです。
■ 大友宗麟の救援要請と惣無事令
1586年(天正14年)、追い詰められた大友宗麟は、自ら大坂に上って秀吉に救援を求めました。すでに関白の座にあった秀吉にとって、これは九州に介入する絶好の名目となります。
秀吉は島津義久に対して、大友氏との戦いをやめるよう命じる惣無事令(停戦命令)を発します。しかし、すでに九州統一目前まで迫っていた島津氏はこの命令を事実上無視し、大友領への侵攻を続けました。

「惣無事令」って、なんかカタい用語だね。具体的にはどういう命令なの?

惣無事令っていうのは、秀吉が「大名どうしで勝手に戦争するのを禁止!」って命じた法令だよ。今でいう「内戦停止令」みたいなイメージに近いかな。これを島津が無視したから、秀吉は「それなら力で制圧するしかない」と判断したんだ。
惣無事令は、秀吉が天皇(朝廷)の権威を背景に「大名間の私的な戦争を停止せよ」と命じた指令の総称です。違反者は「天下の敵」として征伐対象になりました。同年(1587年)末には関東・奥羽にも広げられ、北条氏が拒否したことが小田原征伐の口実になります。
九州征伐の経緯——開戦までの動き
島津氏が惣無事令を無視したことで、秀吉の九州出兵は決定的になりました。ここでは、開戦までの動きを段階的に整理していきます。
■ 毛利・長宗我部を「先陣」として送り込む
1586年(天正14年)、秀吉はまず毛利輝元・長宗我部元親・仙石秀久らを「先陣」として順次九州に派遣しました(毛利輝元らは秋に豊前へ上陸、仙石秀久・長宗我部元親らは豊後に入りました)。これは単純に兵力を投入したというだけではなく、深い政治的意図を含む人事だったのです。

毛利や長宗我部って、ちょっと前まで秀吉の敵だったよね?なぜわざわざ先陣にしたの?

するどいね!実は先陣を任せるって、「お前は俺の家来だから命令通り戦え」って踏み絵を踏ませる意味があるんだよ。毛利や長宗我部は秀吉に屈服したばかりだったから、ここで島津を相手に血を流させて「もう逆らえない関係」にする狙いがあったんだ。
■ 岩屋城の戦いと九州北部の崩壊
大友宗麟の要請を受けて、秀吉が九州に軍を送っている間も、島津軍の攻撃は続きます。

1586年7月、島津軍は北進を続け、大友方の高橋紹運が守る筑前の岩屋城を包囲します。圧倒的な兵力差にもかかわらず、紹運は約2週間にわたる籠城の末、城兵全員が玉砕する壮絶な最期を遂げました。
この岩屋城の戦いで島津軍は大きな時間を浪費することになり、秀吉が大軍を編成して九州に向かう余裕を生むことになります。少数の籠城兵による「時間稼ぎ」が、その後の戦局を大きく左右したのです。
■ 二方向からの大進軍計画
秀吉は九州攻略を二方面作戦で進めることを決定します。具体的には、豊臣秀長(秀吉の弟)が東路から豊後・日向方面を攻め、秀吉本隊が西路から筑前・肥後方面を南下するという挟撃の構えでした。
動員兵力は総勢約20万〜30万と伝わります。これは島津軍(約3万〜5万)の数倍に達し、当時の日本としては空前の規模の軍事行動でした。
九州征伐の経過——二段階の激戦
九州征伐は大きく「第一次・戸次川の戦い」と「第二次・根白坂の戦い」の2段階に分かれます。第一次では豊臣軍が大敗し、第二次で秀吉本隊が決定的な勝利を収める——という劇的な展開を見せました。
30万対5万という兵力差は事実ですが、九州の山岳地形では大軍が一度に展開できず、前線で戦うのは数千〜数万規模に留まりました。実際の戦闘では局所的に島津軍が優勢になる場面が何度もあったのです。

■ 第一次:戸次川の戦い(1586年12月)——豊臣軍の大敗

1586年12月、豊臣方の先鋒軍を率いていた仙石秀久は、四国勢の長宗我部元親・長宗我部信親父子や十河存保らとともに、豊後の戸次川(現在の大野川)を渡って島津軍と激突します。
このとき仙石秀久は、長宗我部元親らの慎重論を退けて強引に渡河を決断しました。しかし、川を越えた先で待ち受けていたのは島津軍の十八番である「釣り野伏せ」戦法だったのです。

「釣り野伏せ」っていうのは、わざと負けたフリをして敵をおびき寄せ、左右に伏せておいた別働隊と合わせて三方から一気に挟み撃ちにする戦法だよ!島津家のお家芸で、九州統一戦でもこの戦法で何度も勝ってきたんだ。
戦闘の結果、豊臣先鋒軍は壊滅。長宗我部信親・十河存保が討ち死にし、四国勢にとって取り返しのつかない損害となりました。仙石秀久は戦場から逃亡し、これが原因で後に改易されます。
戸次川の戦いは、九州征伐において豊臣軍が喫した唯一にして最大の敗戦でした。詳しくは 戸次川の戦いの解説記事で取り上げています。
■ 第二次:秀吉本隊の出陣と根白坂の戦い(1587年)

1587年(天正15年)3月、秀吉は大坂城を出発し、本隊を率いて豊前(小倉)に上陸して九州攻略の指揮を執ります。弟の豊臣秀長は2月から先行出陣しており、豊後・日向方面から南下を続けていました。

東から私が日向方面へ攻め上がれば、義久殿に逃げ場はない。兄上(秀吉)の挟撃の策、必ず成し遂げてみせよう。
豊臣秀長軍は順調に南下を続け、4月には日向の高城を包囲します。これに対して、島津義弘・島津家久らが救援部隊を率いて高城近くの根白坂に布陣し、夜襲をかけてきました。
しかし豊臣方の宮部継潤が事前に堅固な防御陣地を築いており、島津軍の突撃をことごとく撃退します。これが九州征伐の決定打となった根白坂の戦いです。
根白坂で精鋭部隊を失った島津方は、もはや豊臣軍の進撃を止める手立てを失いました。島津義弘ら主力は薩摩への撤退を余儀なくされ、戦況は一気に決着へと向かいます。
島津義久の降伏——剃髪して秀吉の前に出頭

1587年5月、豊臣軍の進撃が薩摩に迫ると、島津義久はもはや組織的な抵抗が不可能と判断しました。義久は鹿児島に戻って剃髪し龍伯と号し、薩摩川内の泰平寺で秀吉と会見して正式に降伏したのです。
剃髪は単なる出家ではなく、戦国武将にとって「武装解除」「政治からの引退」を意味する最大級の恭順の意思表示でした。義久は自らの命と引き換えに、島津家の存続と本国・薩摩の保全を勝ち取ろうとしたのです。

降るしかない……だが、薩摩だけは守る。これが武士としての最後の務めじゃ。秀吉殿、この首はくれてやる。されど島津の家名と国はお頼み申す。
■ 戦後処理——薩摩・大隅は安堵された
秀吉の戦後処理は、義久の予想を超えて寛容なものでした。島津家には薩摩・大隅の二か国と日向の一部が安堵され、義久の弟である島津義弘・島津歳久・島津家久にもそれぞれ領地が認められたのです。
義久は出家したまま実弟の島津義弘に実権を委ね、以後は政治の表舞台からは一歩退きます(正式な家督相続は後年とされますが、降伏後は義弘が事実上の当主として機能しました)。一方で島津家としては、結果的に戦国の終わりまで領地を保ち続けることに成功しました。

勝ったのに、なんで秀吉は島津をそのまま潰さなかったの?反乱とか怖くなかったのかな?

理由はいくつかあるよ!①薩摩まで深追いすると兵站(補給)がパンクする、②島津をいきなり滅ぼすと九州の他の大名が怯えて逆に反発する、③この時点で秀吉は早くも明国遠征を構想していて、九州の大名を残しておく方が便利だった——とかね。「寛容」というより「合理的判断」だったんだよ。
なぜ30万 vs 5万で決着がついたのか——勝敗の要因
九州征伐は表面的には「30万 vs 5万」という圧倒的な兵力差での豊臣勝利に見えますが、実際には地形・戦術・外交の三つの要素がかみ合って初めて決着がついた戦いでした。ここでは勝敗の要因を3つに整理して解説します。
勝因①:圧倒的な兵力による包囲戦
秀吉が動員した兵力は、本隊と東路軍を合わせて20万〜30万規模に達しました。この数は当時の日本では空前であり、島津軍(約3万〜5万)の数倍に達します。
たとえ局地戦で島津が善戦しても、複数方面から包囲されてしまえば、いずれは戦線を維持できません。秀吉は常に「物量で押しつぶす」戦略を選び、島津に短期決戦で勝てる隙を与えなかったのです。
勝因②:博多商人を巻き込んだ外交・兵站戦略
秀吉は単に兵を集めただけではなく、九州での補給網を緻密に組み立てました。とくに博多の豪商であった島井宗室・神屋宗湛といった豪商たちと結んで物資輸送を確保し、長期遠征を可能にしたのです。
これに対して島津方は、長年の戦争で領内が疲弊しており、長期戦に耐えるだけの経済力を欠いていました。「兵站」という見えない戦線で、勝負はすでについていたのです。
勝因③:根白坂での戦術的勝利
戸次川では「釣り野伏せ」に翻弄された豊臣軍ですが、第二次戦役では宮部継潤らが堅固な野戦陣地を築き、島津軍の突撃を真正面から撃退しました。
根白坂の戦いでの豊臣軍の防御成功は、戦力差以上に重い意味を持ちました。これによって島津方は「勝てる戦い」が完全に消え、降伏以外の選択肢を失ったのです。

「30万人」って聞くと圧勝に思えるけど、険しい九州の山岳地形では大軍が一気に動けないんだよ!しかも食料や弾薬を運ぶのが大変で、実際の前線は数千〜数万規模になる。だから島津も最後まで粘れたんだ。秀吉が勝ったのは、「兵力」だけじゃなく「兵站」と「外交」のトータルの強さだったってことだね。
こうして九州征伐は豊臣方の勝利で幕を閉じましたが、この戦いはただの軍事的勝利では終わりませんでした。征伐直後、博多で発令されたバテレン追放令や、その後の刀狩・小田原征伐への流れまでを含めて初めて、九州征伐の歴史的意義が見えてきます。続けて、九州征伐が日本史に与えた影響を見ていきましょう。
九州征伐が変えたもの——天下統一とバテレン追放令

九州征伐は、ただ一つの戦いが終わったというだけの出来事ではありませんでした。豊臣秀吉の天下統一を一気に押し進め、さらに日本の宗教政策・社会制度までを大きく塗り替える分岐点となった戦いだったのです。
■ 天下統一への大きな一歩
1585年に四国を平定し、九州も制圧した秀吉に残された敵は、関東の北条氏と東北の諸大名だけとなりました。九州征伐は、秀吉の天下統一が「もはや時間の問題」だと全国の大名に印象づけた決定的な戦いだったのです。
実際、九州征伐の3年後にあたる1590年、秀吉は小田原征伐で関東の北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を完成させます。九州征伐から小田原征伐までの流れは、秀吉の権威が日本全土に及ぶプロセスそのものでした。
天下統一の流れ:小牧・長久手の戦い(1584年) → 四国平定(1585年) → 九州征伐(1587年) → 小田原征伐(1590年) → 奥州仕置(1590年)
■ 博多で発令されたバテレン追放令(1587年)
九州征伐の最大の副産物——それがバテレン追放令です。秀吉は島津を降伏させた直後の1587年7月(天正15年6月19日)、筑前箱崎(現・福岡市東区)において宣教師(バテレン)の国外退去を命じる五か条の文書を発布しました。

バテレン追放令って、なんでわざわざ九州征伐の直後に博多で出されたの?タイミングがちょっと急じゃない?

偶然じゃないんだよ!秀吉は博多に入って、九州での南蛮貿易とキリシタン布教の実態を初めて自分の目で見たんだ。大友宗麟・有馬晴信・大村純忠といったキリシタン大名が領内の神社仏閣を破壊していたり、日本人が奴隷として海外に売られていたりしていて、「これは放っておけない!」と判断したんだよ。
秀吉のキリスト教政策はそれまで比較的寛容で、ルイス・フロイスら宣教師とも個人的に良好な関係を築いていました。しかし九州で目撃した現実は、その認識を一変させたのです。バテレン追放令は、その場の感情ではなく「九州征伐で博多に滞在した経験」がもたらした政策転換でした。
もし島津義久が降伏を拒み、薩摩で徹底抗戦に持ち込んでいたら、戦況はどうなっていたでしょうか。秀吉の補給網は薩摩までは届きにくく、ゲリラ戦が長期化した可能性が高いと考えられます。秀吉が小田原征伐や朝鮮出兵に進む時間が大幅に遅れ、東北の伊達政宗が動く余地も生まれていたはずです。
また、博多滞在期間が短くなれば、バテレン追放令の発令も先送りされた可能性があります。義久が「降る」という決断をした瞬間、その後の日本の宗教政策・対外政策まで含めた大きな歴史の流れが動き出したわけです。1人の大名の判断が、これほどまでに広範囲な影響を持った例は珍しいといえるでしょう。
■ 刀狩・太閤検地への流れ
九州征伐が引き金となって動いた政策は、バテレン追放令だけではありません。翌1588年には農民の武器を没収する刀狩令が発令され、すでに進行していた太閤検地と合わせて「兵農分離」という日本社会の大原則が固まっていきます。
九州征伐で全国の大名を従えた秀吉は、もはや軍事的な勝利だけでは満足しませんでした。「武士と農民を完全に分離し、武装解除した社会を作る」という、より根本的な国づくりへと突き進んだのです。さらに5年後の1592年、秀吉は明国征服を目指す文禄・慶長の役(朝鮮出兵)を開始します。九州征伐は、秀吉政権の絶頂期と、その後の暴走の起点でもあったのです。
九州征伐・島津・豊臣秀吉をもっと詳しく知りたい人へ
①【入門向け】豊臣秀吉と秀長のタッグを知ろう!

九州征伐の東軍総大将・豊臣秀長を主人公にした不朽の名作!秀吉の天下統一を支えた「名補佐役」の視点から、九州攻略の内幕が見えてくるよ。歴史小説の入門書としても最高の一冊だね。
②【島津義久を深掘りしたい人向け】九州を席巻した智将の実像に迫る!

九州全土を席巻しながら秀吉に敗れ、それでも薩摩を守り抜いた島津義久の生涯を描いた伝記小説。「なぜ降伏しても滅ぼされなかったのか」という謎も深掘りされていて、九州征伐に興味がある人には必読だよ!
③【読み物として楽しみたい社会人向け】学術的視点で島津兄弟の真実に迫る!

「島津最強」の通説を覆す、島津研究の第一人者による角川新書。義久(智)と義弘(勇)という兄弟が対照的な道を歩みながら、なぜ幕末まで生き残れたのか。九州征伐から関ヶ原まで、幕後の政治的駆け引きが面白いほどわかる一冊だよ!
よくある質問(FAQ)
九州征伐とは、1587年(天正15年)に豊臣秀吉が九州の島津義久を降伏させ、九州全土を制圧した戦いです。「九州平定」とも呼ばれます。秀吉の天下統一における重要な一段階で、戦後すぐに博多でバテレン追放令が発布されました。
九州で勢力を拡大していた島津氏が、秀吉の出した「惣無事令(大名同士の私戦禁止令)」を無視し、大友宗麟への攻撃を続けたためです。大友宗麟の救援要請を受けた秀吉は、天下統一を進めるためにも島津を制圧する必要があると判断し、約20万〜30万ともいわれる大軍を動員して出陣しました。
どれも同じ出来事を指す呼び方です。「九州征伐」は攻め込んだ豊臣方の視点、「九州平定」は天下統一を進めた中立的な視点、「九州の役」は明治期以降の歴史用語として用いられました。
豊臣方では、東路軍を率いた弟の豊臣秀長、根白坂の戦いで島津軍を撃退した宮部継潤、博多入りに先立って活躍した黒田官兵衛などが知られています。島津方では、当主の島津義久と、九州統一戦から名を馳せていた弟の島津義弘・島津家久が中心人物です。一方、戸次川の戦いで大敗した仙石秀久は戦後改易されました。
1587年5月、島津義久が剃髪して秀吉の本陣(薩摩の泰平寺)に出頭し降伏したことで、軍事的な戦いは終結しました。秀吉はその後博多に入り、戦後処理として九州各地の大名配置(国分け)を進め、7月にはバテレン追放令を発布しています。
1587年は「いちごパンツ(1587)の島津、剃髪して降伏」と覚えるのが有名です。同じ年にバテレン追放令も博多で発令されているので、「1587年=九州征伐+バテレン追放令のセット」として押さえておくと理解が深まります。
まとめ
九州征伐は、ただ一地方の戦国大名を屈服させた戦いではなく、豊臣秀吉の天下統一とその後の宗教・社会政策を方向づけた歴史の転換点でした。30万対5万という兵力差の裏に、地形・補給・外交・戦術が複雑に絡んでいた事実を押さえることで、教科書の一行が立体的に見えてくるはずです。
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1577年島津、九州統一に向けて北上を開始
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1584年沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津に敗れ戦死
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1585年秀吉が惣無事令を発布、私戦禁止を命じる
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1586年7月岩屋城の戦いで高橋紹運が壮絶に討死、島津が筑前へ進軍
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1586年12月戸次川の戦いで仙石秀久が大敗、長宗我部信親戦死
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1587年3月豊臣秀吉、本隊を率いて豊前(小倉)に上陸し九州攻略を指揮
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1587年4月根白坂の戦いで宮部継潤が島津の反撃を撃退(決定打)
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1587年5月島津義久、剃髪して秀吉に降伏——薩摩・大隅を安堵
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1587年7月博多でバテレン追放令を発布、宣教師の国外退去を命令
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1588年刀狩令を発令、兵農分離が本格化

以上、九州征伐のまとめでした!戸次川・根白坂・島津義弘の詳細は、それぞれの専門記事でもまとめているから、関連記事もあわせて読んでみてね!
📅 最終確認:2026年5月 / 参照:山川出版『詳説日本史』(2022年版)
Wikipedia日本語版「九州平定」(2026年5月確認)
コトバンク「九州征伐」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
コトバンク「バテレン追放令」(デジタル大辞泉・日本大百科全書)(2026年5月確認)
コトバンク「島津義久」(朝日日本歴史人物事典)(2026年5月確認)
山川出版社『詳説日本史』
記事の誤りを発見された場合はお問い合わせください。確認後、修正します。







