今回は、1867年10月に起こった大政奉還の上表についてわかりやすく解説していきます。
そもそも大政奉還って何?
最初に、「大政奉還」という言葉の意味について確認しておきましょう。
日本は古来より天皇を君主とする国です。
しかし、実際のところは江戸幕府が政治の大権を握っていました。
江戸幕府の歴代将軍は天皇から征夷大将軍という役職を授かり、天皇から政治の大権を任されている・・・という仕組みを採っていたのです。
征夷大将軍はもともと軍事を司る役職でしたが、鎌倉時代に源頼朝が鎌倉幕府を開いてからは、幕府のトップが任命されるようになり、政治の実権を握るようになりました。
幕府が天皇から任されていた政治の実権を、一度天皇に返しましょうね!っていうのが大政奉還です。
大政奉還までの流れ
- 1862年朝廷・幕府、公武合体を目指す
対立していた朝廷と幕府が政略婚を通じて結びつく。
朝廷と幕府が、互いに互いを牽制するのが目的。
- 1863年〜幕府・朝廷・薩摩藩を中心に駆け引き続く
- 1866年1月薩長同盟、成立
弱体化する幕府を見限った薩摩藩が、倒幕を目指す長州藩と同盟を結ぶ。薩摩藩は倒幕思想へ傾く。
- 1866年第二次長州征討
倒幕を目指す長州藩に幕府が攻め込むが敗北。幕府の権威は失墜。
- 1867年10月幕府、大政奉還を表明する。←この記事はココ!
「朝廷の下に幕府も含めた雄藩連合政権」を目指した土佐藩が力を失った幕府に大政奉還を提案。幕府はこれを受け入れ、雄藩連合政権へ動き出す。
公武合体、遂に完成へ。
- 1867年12月
朝廷に幕府の持っていた権力を返上。これにより江戸幕府は滅亡し、天皇を中心とする新政府が樹立。天皇の下、雄藩連合が成立する。
ただし、倒幕を目指していた長州・薩摩の陰謀により、徳川家(旧幕府勢力)は雄藩連合から排除される。
- 1868年
長州・薩摩の陰謀に15代将軍の徳川慶喜が激怒。内乱へ。
大政奉還の立役者、山内容堂
大政奉還は、土佐藩が幕府に提案することで成立しましたが、幕府に直接説得をしたのが前藩主だった山内容堂という男。
当時の土佐藩主は16代目藩主の山内豊範。そして、その裏で土佐藩の最高権力を握っていたのが山内容堂でした。非常に頭の切れる男で、幕末に活躍した4大名の異名「幕末の四賢侯」の一人にも選ばれ、幕府に対して強い発言力を持っていました。
上の時系列の中で、幕府・朝廷・薩摩藩の考え方を以下のようにまとめました。
山内容堂は本心ではこのうちの「幕府派」の思想を持っていました。しかし、弱体化した幕府の有様からそれが非現実的であることを悟り、藩としては薩摩と同じ「雄藩連合政権」に近い思想を持っていました。
しかし、山内容堂は露骨な行動は控えます。幕府との関係は維持しながらも、薩摩藩や倒幕を目指す長州藩とも関係を持ち、どんな事態でも有利に動けるよう万全の準備を行い、時流を静観していました。周りから見れば、そんな山内容堂の態度は八方美人にも見えたことでしょう。
・・・ところが、1866年に強力な力を持つ長州藩と薩摩藩が倒幕のため、薩長同盟を結んだことで事態は動きます。
薩摩と長州が結べば、幕府にもはや勝ち目はない。
幕府を存続させたかったが、もはやこれまで。心苦しいが、土佐藩も薩摩藩らと共に土佐藩は倒幕に協力する。
「静」から「動」に転じた山内容堂でしたが、土佐藩士の坂本龍馬がこれにストップをかけました。
坂本龍馬「大政奉還、マジオススメ」
倒幕に転じた土佐藩では、過去に倒幕の過激分子として藩から追放された坂本龍馬や中岡慎太郎などの有力藩士が帰藩することになりました。
坂本龍馬と言えば、薩摩藩と薩摩藩を薩長同盟で結びつけた立役者です。
坂本龍馬は、今後の日本について壮大な政治思想を持っており、それを土佐藩のNo2の男だった後藤象二郎という男に熱く語りました。
日本は以下の8つ政策を実行し、新国家として再スタートしなければならない!!!
当時、「新しい政治を目指す!」と漠然と考えてはいても、「じゃあ、新しい政治って具体的に何をするの?」という点をこれほどまでにハッキリと言える者はほとんどおらず、後藤象二郎はこれに深く感心します。
国家の危機に対してこれほど明確なビジョンを持つとは、坂本龍馬というのはやはり非凡な男であるな・・・。しかし、容堂様はその案を受け入れぬであろう。
・・・いや、待てよ。龍馬の意見に変更を少し加えれば、最高の妙案が作れるかもしれない・・・!!
この時の坂本龍馬と後藤象二郎のやりとりは船の上で行われたことから、坂本龍馬の目指す新国家の8政策は「船中八策」と呼ばれています。
後藤象二郎は「2 上下両院の設置による議会政治」のうち、上院の議長の役職を徳川家に当てることで、徳川家を守りつつ新政府を樹立するという朝廷・幕府に対する妥協案を作成。
これを倒幕へと動きつつあった山内容堂に打ち明けます。
容堂様、今一度、幕府へ大政奉還を呼びかけてみてはいかがでしょう。
列藩会議を作り徳川家をその議長にすれば、江戸幕府は無くなりますが、徳川家は存続しその権威も保たれます。こうすれば、幕府を存続させたい容堂様の意見に合致しましょう。
少し前の幕府ならこれに反対したかもしれません。しかし、長州征討に敗北して以降の幕府は弱体化の一途。しかも、大政奉還が実現すれば長州・薩摩の倒幕運動の大義名分は失せ、幕府は戦争を回避できます。
今なら、幕府もこれに応じるかもしれません。
それは妙案である。
薩摩と長州が倒幕運動を本格化する前に、急ぎ江戸幕府へこの腹案を伝えるぞ・・・!
倒幕を目指しながらも、本心では幕府を存続させたい山内容堂はこの案を受け入れ、幕府の存亡を大政奉還に賭けることにしました。
徳川慶喜の決断
1867年10月3日、山内容堂の大政奉還の意見が幕府に提出されました。
15代将軍の徳川慶喜は悩んだ末に、大政奉還を実行することを決意。後藤象二郎の策略が見事に的中しました。
当時、徳川慶喜は江戸幕府について以下のようなことを考えていました。
この現状を踏まえ、徳川慶喜はこんなことを考えました。
大政奉還をすれば江戸幕府は消滅し、薩長が戦う理由も消える。こうすれば、フランス・イギリスに付け入る隙を与えずに済むだろう。
江戸幕府は無くなるが、徳川家は列藩会議の議長として形は変われど同様の地位を保つことができる。
まさに「名を捨てて実を取る」である。幕府としても今の状況を打破するには大政奉還の他に方法はない。この大博打、乗ってやろうではないか。
10月14日、幕府は朝廷に対して遂に大政奉還の上表を提出しました。これが朝廷で受け入れられれば、260年続いた江戸幕府は滅亡することになります。
虚を突かれた薩摩と長州
ちょうど同じ頃、薩摩藩と長州藩は朝廷から倒幕の許可をもらうため、公卿の岩倉具視を通じて裏で動いていたところでした。
10月14日、遂に朝廷からの許可をもらい倒幕運動を開始しようとした矢先、幕府が大政奉還の上表を提出し、倒すべき幕府そのものが無くなろうとしていました。
薩摩藩と長州藩は、この大政奉還に強く反対します。なぜなら、江戸幕府が無くなっても、徳川慶喜が「列藩会議の議長」として残るなら、形を変えて旧幕府勢力が生き残ることになるからです。
長州・薩摩は、幕府関係者を排除しなければ新しい政治は不可能であると考えていたのです。
そこで、長州藩・薩摩藩、そして岩倉具視は政治クーデターを計画します。
1867年12月9日、御所を長州・薩摩の兵で囲み部外者の進入を禁じ、幕府の知らない間に新政府樹立を宣言(王政復古の大号令)。
そして、新政府における会議メンバーから徳川慶喜は除外され、さらには「新政府では徳川家は所領の一部を朝廷に返上し、官職も失う」という決定が強引に下されることになります。徳川を排除したい岩倉具視らのクーデターは成功したのです。
勝手な決定を知った徳川慶喜は「話が違う!」とこれに激怒。兵を京都に送り込み、1868年1月、京都市南部で鳥羽・伏見の戦いが起こることになります。
結果的に山内容堂と徳川慶喜が望んだ大政奉還は失敗しました。
山内容堂はクーデター以降、徳川家のために朝廷と交渉を続けました。山内容堂は粘り強く交渉を進めますが、交渉が終わるまで我慢できなかった徳川慶喜が京へ進攻。鳥羽・伏見の戦いが起こったため、交渉は決裂しました。
鳥羽・伏見の戦いから始まった新政府VS旧幕府の戦い(戊辰戦争)で徳川慶喜が敗北することで「徳川家を議長とする大政奉還」は儚い夢の如く散りさることになるのです。