今回は、1864年7月〜12月に起こった第一次長州征討について、わかりやすく丁寧に解説していくね!
第一次長州征討とは
第一次長州征討は、1864年7月に長州藩士が御所を襲った事件(禁門の変)に対して、幕府が報復攻撃を企てた出来事のことを言います。
ただ、実際に幕府が長州藩へ攻撃することはありませんでした。
・・・というのも、薩摩藩の西郷隆盛が、長州藩と幕府の仲介役となり、話し合いで問題が解決したからです。
さっそく、第一次長州征討の解説に入っていきます!
第一次長州征討が起こるまでの流れ
1864年7月、幕府から攻められることになった長州藩ですが、実は戦う前から疲労困憊のボロボロの状態とでした
というわけで、まずは第一次長州征討までの流れをチェックしておきます。
- 1863年5月長州藩、外国船を砲撃
攘夷のため外国船を砲撃。しかし、報復攻撃で長州藩は大ダメージを受ける。
- 1864年8月
過激な攘夷思想を持つ者たちが京から追放される。長州藩の人たちもこの時に追放。
- 1864年7月
朝廷に長州藩の攘夷の考えを認めてもらうため、兵を率いて朝廷との交渉に望む。交渉は決裂し、戦闘へ。ここでも長州藩は敗北。
- 1864年8月
長州藩、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの艦隊からフルボッコにされる。
- 1864年
7月〜12月第一次長州征討←この記事はココ禁門の変の報復として、幕府が長州藩に攻め込む。連戦連敗でズタボロの長州藩は、幕府軍の一人だった薩摩藩の西郷隆盛と交渉。和平交渉が成立する。
揺れ動く長州藩
幕末の初期の頃から攘夷を強く推していた長州藩でしたが、禁門の変→四国艦隊下関砲撃事件と続く挫折で、長州藩では正義派と俗論派の2つの派閥の対立が深まっていきます。
ちなみに、後に明治維新で活躍する長州藩出身の木戸孝允・伊藤博文・井上馨・山県有朋なんかはみんな正義派に属しています。
四国艦隊下関砲撃事件で欧米諸国の脅威を目の当たりにした長州藩では、俗論派の意見が優勢となり、幕府への歩み寄りの可能性が浮上してきました。
西郷隆盛「戦いたくないから俗論派と交渉するぞ」
この俗論派に目をつけたのが薩摩藩の西郷隆盛です。西郷隆盛は、長州に攻め込む幕府軍の参謀。戦局を左右する重要なポジションにいました。
西郷隆盛は幕府の命令で参戦していますが、心の内ではこの戦いに否定的でした。
戦争は、藩の人々と財政に大きな負担を強いるからです。西郷隆盛は「欧米諸国の脅威が目の前にある中で、無駄な浪費は避けなければならない・・・」と考えていたのです。
西郷隆盛は長州へ向かう途中、大阪で幕府の元海軍トップだった勝海舟と出会います。
今は国内で戦っている場合ではない。幕府は無能となってしまったから、これからは雄藩(勢力のある藩)が連携し、国を動かさなければならぬ。
幕府の中には、私と同じような考えの者もいるのだな・・・。
西郷は、勝海舟の考え方に深く関心し、この2人は三年後(1867年)に江戸城の無血開城で活躍することになります。
西郷隆盛は1864年11月ごろから長州藩との交渉をはじめ、長州藩が次の条件を飲むことで戦争を回避できることになりました。
12月中頃にこれらの条件がすべて満たされると、12月下旬には長州征討軍はあっさりと解散してしまいます。参戦していた多くの藩も西郷隆盛と同じことを考えていたのです。
一方でどうしても長州藩に一撃を与えたい幕府の中枢は、西郷隆盛の勝手な和平に強い不満を持ちました。
しかし、長州藩が謝罪を含めしかるべき対応をして筋を通してきた以上、西郷隆盛を強く責めることもできませんでした。
こうして西郷隆盛のナイスプレイで、誰も被害を被ることなく第一次長州征討は終わりました。
第二次長州征討へ
第一次長州征討は西郷隆盛の活躍で未然に防ぐことができました。しかし、幕府は長州征討を諦めませんでした。幕府に反抗し続ける長州藩をこらしめて、幕府の威厳を保ちたかったのです。
1865年、幕府はすぐに2回目の長州征討計画を企てます。
しかし、藩をこれ以上疲弊させたくない多くの藩主はこれに反対。薩摩藩の西郷隆盛もこれに反対し、1866年には長州藩と薩長同盟を結んでしまいます。
すると幕府は、諸藩ではなくフランスを頼るようになり、最新鋭の武器を揃えて長州に攻め込みますが、1866年に敗北。(これを第二次長州征討と言う)
幕府の二度にわたる長州征討の失敗は、「幕府のくせにたった1つの藩にすら勝てない」ということを公に知らしめることとなり、幕府の権威は地の底に落ちることになりました。
そして幕府の権威失墜によって倒幕運動が一層盛んとなり、幕末はいよいよクライマックスへと進んでいくことになります。
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