
今回は、1864年に起きた第一次長州征討(長州征伐)について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!なぜ幕府は長州藩に兵を向けたのか、西郷隆盛はどんな役割を果たしたのか、長州藩はどんな条件をのんだのか、そして第二次とは何が違うのか。幕府側の判断やお金の事情まで、順番に見ていこう。
幕末の全体像はYouTubeでも解説しています◎
📚 この記事のレベル:中学歴史 / 高校日本史
📖 山川出版社『詳説日本史』準拠
🎯 定期テスト・大学受験(共通テスト・国公立二次)に対応
第一次長州征討は、「幕府軍が攻め込む前に話し合いでまとまり、戦わずに終わった事件」として紹介されることがよくあります。
しかし実は、その「戦わずに終わった」の裏側では、長州藩の家老3人が切腹し、藩の参謀4人が処刑されるという重い処罰が行われていました。さらに幕府の中枢も、この結末に納得しきれていなかったとされています。
この記事では、第一次長州征討がなぜ起き、どのように収まり、なぜ二度目の出兵へつながる火種を残したのかを、順番に解説します。
第一次長州征討(長州征伐)とは?読み方・時期・結論
- 第一次長州征討(長州征伐)は、禁門の変を受けて、幕府が1864年に長州藩へ兵を向けた出来事。7月に朝廷が長州藩を討つよう命じ、12月に撤兵した
- 幕府軍は総督の参謀・西郷隆盛らの交渉もあって大規模な戦闘をせず、長州藩が家老の切腹などの条件を受け入れて収まった
- 戦闘は避けられたが処罰は重く、幕府内にも不満が残った。1866年の二度目の出兵(第二次)では幕府が敗れる
第一次長州征討は、1864年に江戸幕府が長州藩(今の山口県)へ兵を向けた出来事です。きっかけは、同じ年の7月に長州藩が京都で幕府側の軍と衝突した禁門の変でした。
読み方は「だいいちじちょうしゅうせいとう」です。教科書や問題集では、算用数字を使って「第1次長州征討」と書かれることもあります。
期間は、朝廷が長州藩を討つよう命じた1864年7月から、幕府側が撤兵を命じた同じ年の12月までとされています。
このとき長州へ向かった幕府側の軍を征長軍と呼びます。「長州を征討する軍」という意味で、征討軍ともいいます。
「征討」とは、朝廷や幕府が、反逆者とみなした相手を兵を出して討つことです。つまり長州藩は、このとき「討たれる側」に立たされていたのです。
征長軍の参謀として長州藩との交渉にあたったのが、薩摩藩士の西郷隆盛でした。

授業では「長州征討」って習ったのに、ネットだと「長州征伐」って書いてあることも多いんだよね。征討と征伐って、何が違うの?

指しているのは同じ出来事だよ!高校の教科書では「長州征討」と書かれることが多くて、「長州征伐」は昔からの呼び方として今もよく使われているんだ。迷ったら「名前がちがうだけで、中身は同じ」と覚えておけば大丈夫だよ。
「長州征討」と「長州征伐」は、どちらも幕府が長州藩へ兵を向けた出来事を指す呼び方です。高校の教科書では「長州征討」、一般向けの本などでは「長州征伐」と書かれることがよくあります。
「征伐」には「悪い者をこらしめる」という響きがあり、幕府の側から見た呼び方だとする見方もあります。研究書などでは「長州出兵」と書いたり、とくに二度目の出兵を「幕長戦争」と呼んだりすることもあります。
また長州藩の側では、二度目の出兵をさらに別の名前で呼んできました。こちらは、第二次との違いを扱う後の章で紹介します。
では、なぜ長州藩は朝廷から「討たれる側」になってしまったのでしょうか。次の章では、その原因を時系列で見ていきます。
なぜ起きた?八月十八日の政変から禁門の変・追討令へ
第一次長州征討の原因は、一つの事件だけでは説明できません。京都の政治から追い出された長州藩が、武力で巻き返そうとして衝突を起こし、ついに朝廷から討伐を命じられる――という流れを順に追っていきましょう。
長州藩は、天皇を敬い外国を打ち払う尊王攘夷を強く唱えた藩でした。1863年5月には、下関の海峡を通る外国船を砲撃しています。
ところが同じ1863年の8月、京都で八月十八日の政変が起こります。会津藩・薩摩藩と、朝廷と幕府の協調をめざす公武合体派の公家たちが手を組み、長州藩の勢力を京都から追い出したのです。
このとき、長州藩と親しい公家の三条実美ら7人も京都を追われ、長州へ逃れました。これを七卿落ちといいます。

京都から追い出されたのはわかったけど……そこから、どうして朝廷に「長州を討て」とまで言われることになったの?

ざっくり言うと、長州藩は「力ずくで京都に戻ろう」としたんだ。兵を率いて京都に向かい、天皇の住む御所のまわりで戦いになってしまった。御所に向かって発砲したとされたことで、長州藩は「天皇に弓を引いた朝敵」という立場に追いこまれてしまったんだよ。
1864年6月には、京都の旅館で長州藩士らが襲撃される池田屋事件が起きていました。長州藩の中では「京都へ兵を出して名誉を取り戻すべきだ」という強硬な意見が勢いを増し、藩は京都へ兵を進めます。
そして7月19日、長州軍は御所の門の一つである蛤御門のあたりなどで、会津藩・薩摩藩などの軍とぶつかり、敗れました。これが禁門の変(蛤御門の変)です。長州藩の中心人物だった久坂玄瑞も、この戦いで命を落としています。

戦いのあと、朝廷は長州藩を朝敵として討つよう幕府に命じました。これが追討令(長州追討の勅命)で、1864年7月23日に出されたとされています。
当時の天皇は孝明天皇です。朝廷は、過激な攘夷を進める長州藩に強い警戒を抱いていたといわれます。
さらに8月には、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4か国の艦隊が下関を攻撃する四国艦隊下関砲撃事件が起こります。長州藩は外国にも敗れ、幕府と外国の両方から追いつめられることになりました。
📅 日付の読み方:この記事の月日は、教科書と同じく旧暦(当時の暦)で書いています。たとえば禁門の変の7月19日は、今の暦(新暦)では8月20日ごろにあたります。なお、戦いは18日の夜から動き始めたため、資料によって日付が18日・19日と分かれることがあります。
こうして朝廷の命令を受けた幕府は、長州藩へ兵を向ける準備に入ります。
征長軍の編成と幕府の目的
朝廷から長州追討を命じられた幕府は、全国の大名に出兵を命じ、征長軍を組織しました。ここでは、その顔ぶれと、幕府が何をめざしていたのかを見ていきます。
■総督・副総督・参謀
征長軍のトップである総督には、尾張藩の元藩主・徳川慶勝が任じられました。尾張藩は、徳川将軍家の親戚にあたる御三家の一つです。総督には当初紀州藩主が任じられていましたが、のちに慶勝へ交代したとされています。

副総督には、越前藩(福井藩)の藩主・松平茂昭がつきました。最終的に動員されたのは35藩、総勢約15万人とされ、長州藩を四方から取り囲む大軍でした。
そして、総督を支える参謀の一人に選ばれたのが、薩摩藩士の西郷隆盛です。禁門の変では、西郷も薩摩藩の兵を率いて長州軍と戦っていました。

総督は「現場の総責任者」、参謀は「総責任者のそばで作戦や交渉を考える補佐役」ってイメージだよ。会社でいえば、総督が社長で、参謀は社長の右腕の企画担当、という感じかな。西郷は、この右腕のポジションにいたんだ。
■幕府は何をめざしていたのか
幕府の目的は、京都で戦いを起こした長州藩に責任をとらせ、朝廷と幕府に従う姿勢をはっきり示させることでした。御所へ兵を向けた藩をそのままにしておけば、幕府の威信にかかわるからです。
一方で、長州藩を取りつぶすところまでめざしていたかどうかについては、幕府の中や出兵した藩の間で温度差があったとされます。大軍を動かせば、出兵する藩には大きなお金と人手の負担がかかるためです。
この温度差は、のちに幕府の中の不満となって表に出てきます。では、攻められる側の長州藩の中は、どうなっていたのでしょうか。
揺れ動く長州藩:降伏か抗戦かで割れた藩内
禁門の変で敗れ、続いて四国艦隊にも敗れた長州藩では、藩の進む道をめぐって意見が大きく割れていきました。
一つは、幕府に謝って藩を守ろうとする俗論派です。もう一つは、幕府に屈せず、藩の改革と抵抗を続けようとする正義派でした。「俗論派」という呼び名は、対立した正義派の側からの呼び方だとされています。
正義派には、前の年に奇兵隊をつくった高杉晋作や、のちに明治政府で活躍する木戸孝允・伊藤博文らが連なっていたとされます。

会社にたとえると、大きな失敗をしたあとに「まずは取引先に頭を下げて会社を守ろう」という派と、「ここで引いたら会社の方針が全部終わってしまう」という派が、経営会議で真っ二つに割れた状態だね。どちらも藩を守りたい気持ちは同じだったけど、守り方の考えがまったく違ったんだ。
1864年の秋になると、外国に敗れた衝撃もあって俗論派が勢いを強めます。正義派の井上馨が襲われて重傷を負うなど、藩内の対立は命がけのものになっていきました。
こうして10月下旬には俗論派が藩の政治を握ったとされ、長州藩は幕府に謝罪し、処罰を受け入れる方向へ進みます。高杉晋作は身の危険を感じ、いったん藩の外へ逃れました。
この恭順(つつしんで従うこと)の流れを見きわめ、征長軍の側から交渉に動いたのが西郷隆盛でした。
西郷隆盛の交渉と勝海舟との大坂会談
西郷隆盛は、征長総督の参謀という立場にありました。つまり、長州藩を攻める側の一員です。その西郷が、なぜ「戦わずに収める」道を探ることになったのでしょうか。

■勝海舟との大坂会談
1864年9月11日、西郷は大坂で幕臣の勝海舟と初めて会いました。このとき勝は、幕府の海軍を担う軍艦奉行の職にありました(同じ年の11月に罷免されたとされます)。
会談の中身をくわしく伝える記録は限られていますが、西郷はこの会談で勝の人物と見識に強く感心したとされ、その驚きを仲間への手紙に書き送っています。
もともと西郷は、長州藩に厳しい処分を求める立場だったとされています。それがこのころから、「長州を力で押しつぶすより、長州のことは長州の人々自身に始末をつけさせる」という方向へ考えを変えていったといわれます。

外国が開港を迫ってきているのに、国の中で争って力をすり減らしている場合じゃねえ……。このころのおれは、そんな危機感を抱いていたといわれているぜ。

長州を力でたたくより、長州のことは長州の者たちに始末をつけさせるほうがよいのではないか……。(会談のあと、西郷の考えはこう変わっていったとされています)
なお、西郷と勝はのちの1868年、江戸城無血開城の話し合いで、今度は新政府軍と旧幕府の代表として向き合うことになります。
■岩国での交渉と、幕府軍が総攻撃しなかった理由
西郷が交渉の相手に選んだのは、長州藩主・毛利家の一門で、岩国(今の山口県岩国市)を治めていた吉川経幹でした。経幹は、長州藩と幕府の間に立って、戦いを避けるための仲立ちをしていた人物です。
1864年11月初め、西郷は岩国で経幹と会い、長州藩が禁門の変の責任者を処罰して謝罪するなら、征長軍は総攻撃を見合わせる――という方向で話をまとめていきました。
総攻撃は11月18日に予定されていたとされますが、長州藩が処罰と謝罪を進めたことで、大規模な戦いは行われませんでした。
戦いが避けられた理由は、西郷一人の働きだけではありません。総督の徳川慶勝が処分をなるべく軽くすませる寛典の方針をとったとされること、出兵の負担を嫌って戦いに消極的な藩が多かったこと、そして長州藩の中で謝罪を受け入れる俗論派が実権を握っていたこと。こうした複数の条件が重なった結果だと考えられています。

この時点の西郷は、まだ薩摩藩の一人の藩士。のちの明治維新の主役というより、「現場の調整役」だったんだ。総督の慶勝や、長州側の吉川経幹とつながりながら、戦わずに着地させる道を探していた――そんなイメージで押さえておくといいよ。
では、長州藩にはどんな条件が突きつけられ、誰がどのような処罰を受けたのでしょうか。
降伏の条件と処罰:戦わずに終わったのは本当か
先に結論を言うと、第一次長州征討では大規模な戦闘こそありませんでしたが、「誰も処罰されずに終わった」わけではありません。長州藩は、藩の重臣たちの命と引きかえに、征長軍の矛先をおさめたのです。
■長州藩が受け入れた条件
まず求められたのは、禁門の変の責任者の処罰でした。京都へ兵を率いた三家老、すなわち福原越後・益田右衛門介・国司信濃の3人は、1864年11月11日から12日にかけて切腹したとされています。
同じころ、禁門の変にかかわった宍戸左馬之介ら4人の参謀も処刑されました(四参謀)。三家老の首は、謝罪の証しとして征長軍の総督府へ届けられたとされます。
そのうえで長州藩には、次のような条件が示されました。藩主の毛利敬親とその子・定広の父子が謝罪文を出すこと、京都から逃れてきていた公家たち(五卿)をほかの藩へ移すこと、そして山口の城を壊すことです。
藩主父子の謝罪文は、12月5日に征長軍へ提出されたとされています。山口の「城」は実際には藩が新しく置いた政庁(藩の役所)で、その破却は形式的な条件だったとする見方もあります。
五卿は、七卿落ちで長州へ逃れた公家のうち、このとき長州に残っていた5人です。のちに筑前(今の福岡県)の太宰府へ移されることになりました。
- ① 禁門の変の責任者である三家老の切腹(1864年11月)
- ② 四参謀の処刑
- ③ 藩主・毛利敬親父子による謝罪文の提出(1864年12月)
- ④ 山口の城(藩の政庁)の破却
- ⑤ 長州に逃れていた五卿の他藩への移転
①②は、総攻撃を前に長州藩が自ら示した恭順の証しで、③〜⑤はそのうえで求められた条件だとされます。どれも、長州藩が幕府に従う姿勢を目に見える形で示すためのものでした。

戦場で多くの人が命を落とす事態は避けられた。でも、その一方で、責任を負わされた家老や参謀たちが命を絶たれている。第一次長州征討は「平和に終わった事件」ではなく、「大きな戦闘を避けるかわりに、重い処罰を伴って収まった事件」なんだ。この両面をセットで覚えておいてね。
つまり「戦わずに終わった」を正確に言いかえると、「大規模な戦闘は避けられたが、処罰を伴う形で収まった」ということになります。
こうして12月、幕府側は撤兵を命じます。ところが、この結末は新しい火種を残しました。次の章では、撤兵の命令のあとに何が起きたのかを見ていきます。
解兵令のあとに残った火種:幕府の不満と元治の内乱
1864年12月27日、征長軍の総督から解兵令が出されました。解兵令とは、集めた兵を解散させ、それぞれの藩へ引き揚げさせる命令のことです。
これで第一次長州征討は、形のうえでは終わりを迎えます。ところが、幕府の側にも長州藩の側にも、次の争いにつながる火種が残っていました。

処罰もして、条件ものんでもらって、兵も引き揚げた。それで終わったはずなのに、どうしてまた戦争になってしまったの?

理由は大きく2つあるんだ。1つ目は、幕府の中に「こんな軽い処分ですませていいのか」という不満が残ったこと。2つ目は、謝罪を受け入れたはずの長州藩の中で、すぐにまた主導権がひっくり返ったこと。幕府の側と長州の側、両方で「話がついていなかった」んだよ。
■「処分が甘い」という幕府の不満
総督の徳川慶勝が選んだのは、戦わずに条件をのませる寛典の道でした。しかし江戸の幕府中枢では、この結末を「長州に甘すぎる」と受け止める声が強かったとされています。
京都で朝廷の守りを担う禁裏御守衛総督の地位にあった徳川慶喜も、長州の処分のゆくえに深くかかわる立場にありました。慶喜はのちの第二次で、亡くなった将軍の名代として休戦を進めることになります。
1865年1月、幕府は藩主の父子と五卿を江戸へ連れてくるよう総督に命じました。けれども慶勝は、すでに兵を解いた後でもあり、これを実行できないと答えたとされます。
こうして「処分は済んだ」とする総督の側と、「まだ済んでいない」とする幕府中枢の間に、方針のずれが残りました。このずれが、のちに幕府が二度目の出兵を決める下地になっていきます。
■高杉晋作の挙兵と元治の内乱
一方の長州藩では、解兵令が出される少し前から、次の動きが始まっていました。1864年12月15日、藩の外へ逃れていた高杉晋作が下関の功山寺で兵を挙げたのです。
高杉に従ったのは、当初はわずかな人数だったと伝えられます。しかし奇兵隊などの諸隊が次々に加わり、藩の政治を握る俗論派との間で戦いになりました。
この長州藩の内部での争いを、元治の内乱といいます。翌1865年の1月から2月にかけて正義派が勝利をおさめ、俗論派は藩の政治から退けられたとされています。
つまり、幕府に謝罪した俗論派の政権は、わずか数か月で倒れてしまったのです。新しく藩を率いることになった正義派は、表向きは恭順の姿勢を見せながらも、幕府との戦いに備えて軍備を整えていきました。
📝 ここがポイント:第一次長州征討で幕府に謝罪したのは、俗論派が握っていた長州藩でした。その俗論派が元治の内乱で敗れたことで、幕府から見れば「謝ったはずの相手」がいなくなったことになります。のちの薩摩藩と長州藩の提携も、この正義派の政権のもとで進んでいきました。
1865年4月、幕府は長州藩をふたたび討つ方針を示し、やがて将軍みずから兵を率いて大坂へ向かいます。次の章では、こうして始まった二度目の出兵と、第一次との違いを見ていきます。
第二次長州征討との違い:なぜ結果が逆になったのか
先に結論を言うと、1864年の第一次は「大規模な戦闘をせず、長州藩が処罰を受け入れて収まった出兵」、1866年の第二次は「実際に戦いが起こり、幕府軍が敗れた出兵」です。同じ「長州征討」でも、結果はまったく逆になりました。

■第二次長州征討の流れ
1866年1月、薩摩藩と長州藩は、ひそかに薩長同盟を結びました。第一次では長州を攻める側にいた薩摩藩が、今度は長州藩を支える側に回ったのです。
交渉が決裂したのち、1866年6月7日、幕府の艦隊が周防大島を砲撃して戦いが始まります。戦いは、大島口・芸州口・石州口・小倉口の4つの方面で行われました。
藩の四方の境で戦ったことから、長州藩の側ではこの戦いを四境戦争と呼んできました。今でも山口県では、この呼び方が使われています。
兵の数は資料によって異なりますが、幕府側は10万人規模、長州側は約3,500〜4,000人とされ、数のうえでは幕府側が大きく上回っていました。それでも長州軍は各地で幕府側の軍を押し返しました。
そのさなかの1866年7月20日、大坂城にいた14代将軍徳川家茂が亡くなります。これをきっかけに幕府は戦いをやめる方向へ動き、8月には朝廷から戦いをやめるよう命じる勅命が出されました。
9月2日には、勝海舟と長州藩の代表が宮島(今の広島県)で会い、停戦の合意が成立しました。ただし小倉方面では争いが続き、小倉藩と長州藩の和約が結ばれたのは1867年1月のことだったとされています。
■第一次と第二次を比べると
| 比較項目 | 第一次長州征討 | 第二次長州征討 |
|---|---|---|
| 時期 | 1864年(7月〜12月) | 1866年(6月に開戦、9月に停戦合意) |
| 大規模な戦闘 | なし | あり(4つの方面で戦う) |
| 長州藩の政権 | 俗論派が実権を握り、幕府に謝罪 | 正義派が実権を握り、抗戦を選ぶ |
| 薩摩藩の立場 | 藩士の西郷が征長軍の参謀として寛典に動く | 薩長同盟を結び、出兵しない |
| 結果 | 長州藩が処罰を受け入れ、幕府側が撤兵 | 幕府軍が敗れ、撤退する |
■結果が逆になった理由
第二次で幕府が敗れた理由は、一つにはしぼれません。いくつもの要因が重なっていたと考えられています。
第一に、薩長同盟によって薩摩藩が出兵に応じなかったことです。長州藩は薩摩藩の協力も得ながら、イギリスの商人から新しい小銃を買い入れていたとされます。
第二に、元治の内乱を経て正義派が藩をまとめ、奇兵隊などの諸隊を中心に戦う体制を整えていたことです。長州藩の中は、第一次のときのように割れてはいませんでした。
第三に、幕府の側の足並みがそろわなかったことです。出兵を命じられた藩の中には戦いに消極的な藩も多く、広島藩のように先鋒の役目を辞退し、出兵の命令に応じなかった藩もあったとされます。そこへ将軍の死去が重なりました。
洋式の装備を取り入れた部隊を送りながらも、幕府は長州一藩を屈服させることができませんでした。この敗北で幕府の権威は大きく揺らぎ、翌1867年の大政奉還、そして1868年からの戊辰戦争へと時代は進んでいきます。

第一次と第二次、授業だと続けて出てくるから混ざっちゃうんだよね。結局、何が一番違うの?年号とセットで整理したい!

ひとことで言うと、1864年の第一次は「戦わずに長州が頭を下げた」、1866年の第二次は「戦って幕府が負けた」だよ。その間に何があったかというと、1866年1月の薩長同盟。薩摩が長州の味方についたかどうか――ここが決定的な違いなんだ。
幕府の判断と財政負担:大河「逆賊の幕臣」の予習として
2027年のNHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』は、幕府の側に立って近代化を進めた幕臣・小栗忠順を主人公とする作品です。ドラマを見る前に、長州征討を「幕府の側から」見ておくと、幕末の流れがぐっとつかみやすくなります。
■幕府が守ろうとしたもの
幕府にとって長州征討は、朝廷の命令に応えて、全国の大名を従える力がまだあることを示す場でもありました。御所に兵を向けた藩をきちんと処分できなければ、幕府の威信は保てません。
第一次で幕府中枢が「処分が甘い」と不満を抱き、第二次へ踏み切ったのも、この威信を守るためだったと考えられます。ところが結果は、その威信を自ら傷つけることになってしまいました。
■出兵にかかったお金と社会への影響
大軍を動かすには、兵の食料や武器、移動の費用など、ばく大なお金がかかります。江戸時代には、出兵を命じられた大名が自分の兵の費用を負担するのが基本で、諸藩にとっても重い負担でした。
第一次の出兵にかかった費用の総額は、辞典などでははっきりとした数字が示されていません。ただ、大きな戦闘をせずに年内に兵を引き揚げたことで、負担がそれ以上ふくらまずにすんだ面もあったと考えられます。
重くのしかかったのは、第二次のほうでした。将軍の家茂は1865年に大坂城へ入り、1866年7月に亡くなるまで大坂を拠点に長州と向き合います。大軍が長く大坂の周辺にとどまったことは、幕府財政を大きく圧迫したとされています。
さらに、戦いに備えて兵糧米が買い集められたことなどから米の値段が大きく上がりました。1866年には、各地で「世直し」を求める一揆や打ちこわしが相次いだとされます。長州征討は、戦場から遠く離れた庶民の暮らしにも影響を及ぼしていたのです。

2回も大軍を出したら、お金もかなりかかったはずよね。幕府のお財布は大丈夫だったのかしら?

第一次でいくらかかったかは、辞典などにもはっきりした数字が載っていないんだ。でも第二次に向けて大軍を長く動かすうちに、幕府の台所事情はどんどん苦しくなっていったとされているよ。しかも、お金をかけたのに負けてしまった。お金と権威を同時に失ったのは、幕府にとって本当に痛かったんだ。
■幕府の立て直しを図った幕臣たち
こうした苦しい状況のなかで、幕府を立て直そうとした幕臣もいました。勘定奉行などを務めた小栗忠順は、フランスの技術を取り入れて、1865年に横須賀製鉄所(のちの横須賀造船所)の建設に着手しています。
第一次で西郷と会った勝海舟、第二次の停戦をまとめた勝海舟、そして幕府の近代化を進めた小栗忠順。同じ幕臣でも、立場や考え方はそれぞれ違っていました。大河ドラマの予習としては、逆賊の幕臣のおすすめ本7選もあわせて読んでおくと、小栗の人物像がつかみやすくなります。
テストに出るポイント
ここからは定期テスト・共通テスト・大学受験で押さえておきたいポイントをまとめます。試験直前の見直しにも使ってください。
📌 暗記のコツ:順番は「八月十八日の政変(1863年)→禁門の変(1864年)→第一次長州征討(1864年)→薩長同盟(1866年1月)→第二次長州征討(1866年)」。第一次は「禁門の変の後始末」、第二次は「薩長同盟の後」と、前後の出来事とセットで覚えると混ざりません。

ポイントはわかったけど、テスト前に1つだけ覚えるなら、どこが一番大事?

一番よく問われるのは「出来事の順番」だよ!禁門の変→第一次長州征討→薩長同盟→第二次長州征討の並べ替えは定番なんだ。それから「第一次は戦わずに終わったけど、処罰はあった」「第二次は幕府が敗れた」という結果の違いもセットで押さえておこう。
第一次長州征討についてもっと詳しく知りたい人へ

第一次の次に起きた第二次長州征討まで続けて知りたい人や、幕末全体の流れの中で位置づけたい人向けに、本を3冊選んだよ!
野口武彦『長州戦争 幕府瓦解への岐路』は、2006年刊の中公新書です。出版社の紹介では、幕府はなぜ戦争に踏み切り、どう戦って負けたのかを、開戦前夜から敗戦処理まで描く一冊とされています。この記事で見た第一次の収束が、のちの幕府の命運にどうつながるのかを追うのに向いています。
第一次の「戦わずに終わった」あと、幕府がなぜ第二次へ踏み切り、負けることになったのかまで、一冊でじっくり読みたい人。大河ドラマで幕府側の判断に興味を持った人にも合います。
第一次長州征討だけを短く確認したい人。紹介文は幕府が敗れた戦争を軸にしているため、第一次の解説に絞った本ではない可能性があります。購入前に目次の確認をおすすめします。
半藤一利『幕末史』は、新潮文庫の幕末通史です。新潮社の内容紹介によると、黒船来航から西郷隆盛の死までの激動の25年間を描いています。禁門の変から長州征討、薩長の接近、戊辰戦争へという流れを、一本の物語として読めます。
長州征討を、禁門の変や薩長同盟、戊辰戦争とつなげて理解したい人。出来事の順番を、読み物として頭に入れたい社会人や高校生に合います。
第一次長州征討だけを詳しく調べたい人。文庫で500ページを超える通史なので、一つの事件の細部は多く載っていません。
中村彰彦『幕末入門』は、中公文庫の入門書です。尊王と佐幕、攘夷と開国が入れ替わる幕末の政情を読み解く本で、目次は会津藩・新選組・長州藩・薩摩藩・土佐藩など、藩や勢力ごとの章立てになっています。長州藩が幕府と向き合うまでの立場を、ほかの藩と並べて確かめられます。
薩摩・長州・会津など、藩ごとの立場の違いから幕末をつかみたい人。第一次長州征討で長州と向き合った薩摩や、幕府側に立った藩の動きも、あわせて整理できます。
年代順の通史を求める人。藩別の構成なので、出来事の順番を追うなら②の通史を先に読むほうが合います。
よくある質問(FAQ)
第一次長州征討は1864年の出来事です。7月19日の禁門の変で朝敵とされた長州藩に対し、7月23日に朝廷が追討を命じ、幕府が諸藩に出兵を命じました。長州藩が条件を受け入れたため、12月27日の解兵令で兵が引き揚げられ、終わりを迎えました。
読み方は「だいいちじちょうしゅうせいとう」です。「長州征討」と「長州征伐」は同じ出来事を指す呼び方で、高校の教科書では「長州征討」、一般向けの本などでは「長州征伐」と書かれることがよくあります。研究書などでは「長州出兵」と呼ぶこともあります。
大規模な戦闘は行われませんでした。ただし、処罰がなかったわけではありません。長州藩は三家老の切腹・四参謀の処刑・藩主父子の謝罪文の提出・山口の政庁の破却・五卿の移転といった条件を受け入れ、1864年12月に征長軍は撤兵しました。
西郷隆盛は、征長総督の参謀(薩摩藩士)として交渉にあたりました。1864年9月に大坂で勝海舟と会い、11月初めには岩国で吉川経幹と会うなどして、戦わずに収める道を探ったとされます。ただし戦いが避けられたのは、西郷一人の働きだけによるものではありません。
複数の要因が重なった結果だと考えられています。総督の徳川慶勝が処分を軽くすませる寛典の方針をとったとされること、出兵の負担を嫌って戦いに消極的な藩が多かったこと、そして長州藩の中で謝罪を受け入れる俗論派が実権を握っていたことなどが挙げられます。
第一次(1864年)は、大規模な戦闘をせず、長州藩が処罰を受け入れて収まりました。第二次(1866年)は、薩長同盟を背景に長州藩が抗戦し、4つの方面での戦いで幕府軍が敗れました。長州側では、第二次を「四境戦争」とも呼びます。
幕府の中枢には「処分が甘い」という不満が残りました。一方の長州藩では、1864年12月に高杉晋作が挙兵して元治の内乱が起こり、正義派が藩の主導権を取り戻します。こうして両者の対立は再び深まり、1866年の第二次長州征討へつながっていきました。
まとめ
第一次長州征討は、1864年の禁門の変をきっかけに、幕府が長州藩へ兵を向けた出来事です。
総督の徳川慶勝や参謀の西郷隆盛らの判断、そして長州藩内の俗論派の恭順によって、大規模な戦闘は避けられました。しかしその裏では、三家老の切腹や四参謀の処刑という重い処罰が行われています。
そして、幕府中枢の不満と元治の内乱という二つの火種が、1866年の第二次長州征討へとつながりました。「戦わずに終わった」の一言では片づけられない、幕末の大きな転換点だったといえます。
- 1863年8月八月十八日の政変
- 1864年7月禁門の変
- 1864年7月朝廷が長州追討を命じる
- 1864年8月四国艦隊下関砲撃事件
- 1864年9月西郷と勝海舟が大坂で会談
- 1864年11月西郷と吉川経幹が交渉・三家老が切腹
- 1864年12月藩主父子が謝罪・解兵令
- 1864年12月高杉晋作の功山寺挙兵
- 1866年1月薩長同盟
- 1866年6月第二次長州征討の開戦
- 1866年7月将軍徳川家茂の死去
- 1868年江戸城無血開城

以上、第一次長州征討のまとめでした。下の記事で、きっかけになった禁門の変や、流れを変えた薩長同盟もあわせて読んでみてください!大河ドラマの予習なら、おすすめ本の記事もどうぞ。

📅 最終確認:2026年10月 / 参照:Wikipedia日本語版「長州征討」/コトバンク「長州征伐」/Historist「長州戦争」
Wikipedia日本語版「長州征討」「禁門の変」「勝海舟」「薩長同盟」「広島藩」(2026年10月確認)
コトバンク「長州征伐」(日本大百科全書・世界大百科事典)「グラバー」(2026年10月確認)
Historist「長州戦争」(山川出版社『山川 日本史小辞典』改訂新版)(2026年10月確認)
北九州市公式サイト「長州藩との戦い」(2026年10月確認)
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