今回は1862年に起きた生麦事件(なまむぎじけん)についてわかりやすく解説していきます。
まず最初に、教科書をベースに生麦事件の概要をまとめておきます。
この記事では生麦事件についてもっと詳しく、そしてわかりやすく見ていくことにします。
生麦事件までの流れ
次に生麦事件が起こった当時の時代背景と流れを確認しておきましょう
- 1862年公武合体!
・幕府に対して攘夷を求めたい朝廷
・その天皇に接近することで幕府へ攻撃する攘夷派の矛先を反らせて、あわよくば天皇の攘夷の意思を抑え込みたい江戸幕府
両者の思惑が合致し、政略婚を通じて公武合体が行われる。
- 1862年5月薩摩藩の島津久光、公武合体を推し進めるため江戸に向かう
攘夷を強く主張していた島津久光は公武合体をきっかけに朝廷と連携。安政の大獄以降政界から遠ざけられていた攘夷派を幕府の要職に就ける。
- 1862年8月生麦事件←この記事はココ!
任務を終えた島津久光は京へ向かう。京に向かう久光の大名行列にイギリス人が乱入。
大名行列の際は馬に乗らないのが礼儀。礼儀を無視するイギリス人に薩摩藩士がブチギレ。イギリス人4名を滅多刺しにする。
- 1863年
生麦事件当日の経過
事件が起こったのは1862年8月21日の午後2時ごろ。島津久光の大名行列が生麦村に差し掛かった時に生麦事件は起こります。
乗馬していた4名のイギリス人が、400名を率いる久光の大名行列の正面からやってきました。
大名行列の前では馬に乗ってはならないのが日本の常識。というわけで、薩摩藩士たちはこのイギリス人たちに「無礼だから馬から降りて、脇に避けろ!」と中止します。
・・・が、イギリス人に日本が通じるはずがありません。
オーケーオーケー。邪魔だから横にどけろってことね。
こうして、道脇に移動して先へ進みます。そうするうちに、ボスの島津久光が乗る籠は近づいてきます。ここでまた注意を受けるも・・・
オーケーオーケー。あの籠に乗ってる人は偉い人だから、引き返せって言ってるのね。
引き返した結果、大名行列と乗馬したイギリス人が一緒に進むこととなります。これに大名行列の中の薩摩藩士がブチギレ。
馬から降りてどけろって言ってるんだよ!!
主人(島津久光)の前で無礼な行為をするとはもう許せん。その命もらった!
こうして、数名の薩摩藩士がイギリス人に斬りかかります。1名は死亡。2名は重体で、残り1名は奇跡的に逃げることができました。これが有名な生麦事件です。
攘夷派だった島津久光はこれを黙認。無視したまま京へと向かいます。
生麦事件、外交問題へ
この事件を知った幕府は島津久光に大大激怒。島津久光に犯人を捕まえるよう命令しますが、島津久光はこれをあしらいます。
なんか、岡野新助ってやつが犯人らしいけど、そのまま逃げて行方不明だから捕まえるの無理だわ。ごめんなww
(岡野新助なんてやついないけどなーww)
と架空の人物をでっち上げて、テキトーなことをいう始末。幕府は完全に舐められています。
1863年2月、一方のイギリスは、横浜港に軍艦を次々と入港させて軍事的な圧力をかけながら、外交官のニールという人物が幕府に対して巨額の賠償金を求めてきます。
10万ポンド払え。わかったな。払うかどうか20日間だけ返答を待ってやるけど、良い返事を聞けなかったら戦争だから覚悟しとけ。
話はこれだけで終わらず、薩摩藩に対しても犯人の確保を強く要求します。
幕府が生麦事件の犯人を捕まえられないようだから、イギリスが薩摩藩と直接交渉しよう。
薩摩藩よ、早く生麦事件の犯人を捕まえて処分しろ。そして、それとは別に賠償金として2,5000ポンドを払え。逆らったら戦争だ。
幕府は回答期限の延長をしてもらった末の1863年5月、遂にイギリス軍艦の圧力に負け、賠償金を払うことをイギリスに認めました。
薩英戦争始まる
一方、事件の張本人である島津藩は断固としてこれに応じません。
幕府との交渉を終えたニールは1863年6月、横浜港に停泊していた軍艦を率いて鹿児島へ向かいます。
そして、薩摩藩の最後通牒(さいごつうちょう。最後の交渉のこと)を叩きつけます。
繰り返す。犯人を引き渡し、賠償金を払え。
24時間以内にどうするか回答しろ。これは最後通牒である。ここでイギリスの要求に応じなければ、軍艦の砲門が火を吹くだろう。
これに対して薩摩藩はこう答えました。
生麦事件で薩摩藩士のやったことは、日本のルールでは普通のことである。だから、これからちゃんと幕府と薩摩、そしてイギリスで話し合いをして対応を決めましょうや。
これは最後通牒だと言ったはずだが、つまり、イギリスの要求を拒否するということだな。よろしい、ならば戦争だ!!!
こうして1863年6月、イギリスと薩摩藩の間で薩英戦争が勃発します。
薩摩藩はこうなることを事前に予想し、海岸の防衛を万全にしていました。むしろ、「やっと攘夷を実行するチャンスが訪れたぜ!」ぐらいに思っていた人もいたかもしれません。
その甲斐もあってか、イギリス軍艦の圧倒的な火力の前に手も足も出ないかと思われましたが、大半の予想を反して、薩摩藩はイギリスと互角の戦いをすることになります。
生麦事件から得られる教訓
最後におまけ話を少しだけ。
「郷に入れば郷に従え」ということわざがあります。
生麦事件の悲劇は、まさに郷に入ったのに郷に従わなかったことによって起こってしまった事件の典型例でした。
襲撃されたイギリス人4人は、日本の習慣にあまりにも無知・無関心でした。彼らは、事前に「今日は偉い人がやってくる日だから外出しない方が良い」という忠告を受けていながら、それを無視していたとも言われています。
それに加えて、「郷に入れば郷に従え」の精神でしっかりと下馬して道を譲る外国人もいたので、今回のイギリス人の行動は「外国人だからしょうがない」で許されるものではありませんでした。
もちろん、斬りかかった張本人である薩摩藩にも非はあるでしょう。しかし、イギリス人側でも日本の習慣・文化を熟知せず、しかもそれを軽視してしまったことは非難されて然るべきかもしれません。
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