今回は、室町時代中期に出された半済令について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
半済令とは?
半済令とは、戦時中の兵糧米を確保するため、守護に対して『荘園や公領の年貢の半分を徴収する権限』を与えた室町幕府による法令のことを言います。
この説明だけだとなんのことだかさっぱりだと思うので、少しだけ守護と地頭の仕事について確認しておきますね!
守護の仕事
守護は一国に1人が置かれ、もともとは大犯三か条と呼ばれる3つの仕事をメインにしていました。
※大犯三箇条とは、謀反人や犯罪人の逮捕など今でいう警察のような仕事です。詳細は以下の記事を読んでみてくださいね。
そして、戦時中になれば国内の御家人たちを動員する権限も持っていました。
つまり、守護は国内の警察・軍事の担当していたわけです。
地頭の仕事
地頭の仕事は、荘園・公領の年貢を代行して徴税すること。
地頭は所領ごとに置かれ、年貢を代行して徴収する見返りとして、様々な利益を得ることで生計を立てていました。
地頭は、御家人の生活を支えるとても大切な役職であり、守護も基本的に地頭を兼任する形を取っていました。
ただし、全ての所領に地頭が置かれていたわけではありません。
興福寺や東大寺など、強い力を持つ領主たちの中には、地頭の設置を拒否する者も存在したからです。
地頭はもともと、御家人の生活基盤を整えるために幕府が一方的に置いたもので、これを嫌う領主も多かったんだ。
なんせ、年貢の一部をマージン(手数料)として中抜きされてしまうわけだからね。
地頭・守護については、以下の記事でも詳しく紹介しているので、気になる方は合わせて読んでみてくださいね。
守護と地頭の関係はこんな感じだったので、いざ戦が起こると、
御家人の動員・統率は守護が担当しますが、
戦いに必要な戦費は、御家人自らが地頭として得た収入から捻出していました。
ところが、室町時代になって国内の戦乱が激しくなると、この役割分担に変化が生じるようになります。
室町時代に入って南朝と北朝が争うようになり、戦いが長期化すると、地頭の蓄えだけでは兵糧米を確保しきれなくなってきたのです。
地頭は、守護からの動員があると、地元を離れて戦地に赴きました。
そのため戦いが長期化すると、地頭が地元から持ってきた蓄えが枯渇してしまい、戦いに大きな支障が生じるようになったわけです。
そこで、『兵糧米に困っているようなら、守護の権限で年貢の半分に限って現地調達してOKだぜ!』という命令が幕府から出ました。この命令が半済令です。
半済令が出された時代背景
1352年、室町幕府は日本初の半済令を発布します。
1352年というのは、ちょうど観応の擾乱が終戦し、南北朝の争いが泥沼の第2ラウンドに入ろうとしていた頃でした。
半済令の内容
1352年に出された半済令の内容は、次のようなものでした。
少しだけ補足しておくね。
範囲が近江・美濃・尾張の3国に限定され、かつ一年かぎりしか効力がないのは、荘園・公領に強いる負担がとても重いものだったからだよ。
もう1つ。
対象が『地頭が置かれていない寺社など荘園』とされているのは、地頭には半済令が不要だったからなんだ。
地頭は幕府と主従関係を結んでいるから、幕府が地頭に命令すれば済む話。
一方、地頭が置かれていない荘園は、幕府から直接命令を下すことができないし、いきなり『年貢の半分をよこせ!』なんて言ったら猛反発が予想されるから、半済令という法令を作ったんだ。
一方、半済令は守護に大儲けをする大チャンスを与えました。
今なら、これまで手を出せなかった公家や寺社の所領からガッポガッポ年貢を強制徴収できるな。
この乱世では、金と力こそが全て!奪えるものはとことんの奪ってやんよ!!
守護はこの大チャンスを逃しません。
守護は次第に、半済令を無視して寺社などの所領を好き放題に荒らすようになります。
当時、幕府は北朝と協力して南朝に対抗していたから、守護の強奪行為は、この協力関係を崩壊させかねない危険な行為でした。
そのため室町幕府は、北朝に味方する公家や寺社から激しいクレームを受けると、守護の暴走を止める必要に迫られました。
半済令は戦いに勝つために必要だったとはいえ、幕府にとっても諸刃の刃だったんだ・・・。
【悲報】室町幕府、守護の暴走を止められない
1355年〜1357年にかけて、幕府は新たな半済令を発布。
この半済令には次のようなことが書かれていました。
1352年の半済令と違って、「戦いに勝利するため」というよりも「守護の暴走を抑える」ことが目的になっていることがはっきりとわかります。
特に大きな問題だったのは、守護が年貢ではなく、他人の土地そのものを奪い取っていることでした。
土地を奪ったら幕府から厳重処分?
幕府にそんな力あるの?俺たち守護に頼りっきりで自分では何もできないのにそんなことできるわけないっしょww
残念ながら、この半済令では守護の領地略奪を食い止めることはできず、幕府は難しい舵取りを迫られます。
1368年になると、これまでとは違った画期的な半済令が出されます。
この半済令に書かれていたのは、次のような内容でした。
・・・あれ?
戦争のために出された半済令だったのに、守護がやりたい放題できる法令に変わってない・・・?
そうなんだ。
北朝・寺社と守護の間で板挟みにあっていた幕府だったんだけど、結局、バサラを謳歌する有力守護たちを抑えきることができず、半済令は略奪を合法化する守護にとって都合の良い法令に変わってしまったんだよ。
これは北朝・寺社のブチギレ案件で、幕府も困ってしまうのでは・・・?
と思うかもしれませんが、意外にも公家などの荘園領主たちはこの半済令をすんなりと受け入れた・・・と言われています。
というのも、逆に考えれば、幕府がはっきり合法化してくれたことで『奪われる土地が半分で済む!』と考えたからです。
守護に自分の領地を好き勝手に蹂躙されていた領主たちの中には、
やったー!領地は半分になったけど、これで守護に怯えずに済む!!
と考える人が一定数いたということです。
守護の略奪行為が相当エグかったことを物語っているね・・・
半済令が日本に与えた影響【守護請の開始・守護大名の登場】
守護は、半済令によって荘園や公領の半分を強制的に奪い取ることに成功しました。
さらに守護は、半済令で奪った領地を地頭たちに分け与えることで、武士たちを自由に従えることにも成功します。
※中には守護の支配に反発する人もいたので、全ての地頭らが守護に従ったわけではありません。
こうして強大な権力を得た守護は、『幕府から認められた荘園の半分の土地』だけでは満飽き足らず、その勢いに乗じて荘園全てを支配下に置いてしまおうと新しい試みを始めます。
そこで登場したのが守護請という仕組みです。
守護請とは、守護が荘園領主(公家や有力寺社など)の代わりに農民からの年貢の徴収を請け負う仕組みのことを言います。
守護は、集めた年貢の一部を代行手数料(マージン)として懐に入れて、残った分を荘園領主に収めます。こうすることで、守護はマージンで金儲けができる上、農民たちとの主従関係ができるため、荘園一帯を実効支配することも可能でした。
守護請を通じて、荘園支配を強めると、守護は国衙の機能も果たすようになり、一国全体を支配する強大な権力を持つようになります。
※国衙:地方行政を行う拠点(今でいう県庁的なもの)
半済令・守護請などによって荘園一帯を管理下に置き、一国全体を支配するようになった守護のことを、それ以前の守護と区別して守護大名と言います。
半済令は、守護大名が登場するきっかけを作ったという点で、歴史を大きく動かしたとても重要な法令だったのです。
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