今回は奈良時代末期の女帝、孝謙(こうけん)天皇・称徳(しょうとく)天皇について紹介します。2回天皇になっているので孝謙天皇と称徳天皇の2つの名前がありますが同一人物。
これはすごーく個人的な意見が入ってますけど、孝謙・称徳天皇の時代は奈良時代で最も狂気に満ちた時代。政治の腐敗化が進んでヤバイ感じです。
問題山積の孝謙天皇即位
749年、孝謙天皇は女帝として即位するわけですが、実はもうこの時点から幸先が超不安です。
孝謙天皇は聖武天皇の娘。本来なら男子を即位させたかったのですが、聖武天皇は男子に恵まれませんでした。日本は男系の血筋を重んじるので、女帝の即位までは認めても女帝との間に生まれた子を正当な後継者とは認めませんでした。(これは現代も同じ!)
なので、女帝は子を産むことができず、結婚も許されていなかったんです。息子に後を託せない孝謙天皇は、次期天皇を他の親族から選ぶことになりますが、その親族の多いこと多いこと。
皇族の多くの者がこう思いました。「孝謙天皇に子が産まれないの確定なら、今は傍系の俺らにも天皇即位のチャンスあるんじゃね?」と。
皇位継承を巡ってみんながバチバチ火花を散らしている状態で孝謙天皇は即位しました。一生独身確定で、即位した瞬間から皇位継承問題が勃発した孝謙天皇の治世は、お世辞にも好調なスタートとは言えません。
孝謙天皇と光明皇后・藤原仲麻呂
【系図です。人間関係がわからなくなったら参考に使ってください!】
孝謙天皇はワンマン君主ではなく、父の聖武天皇・母の光明皇后、そして光明皇后の絶大なる信頼を得た頭脳明晰の藤原仲麻呂のサポートによって支えられていました。みんなで女帝の政治をフォローしていたんですね。
756年に聖武天皇が亡くなった後は、光明皇后と藤原仲麻呂が孝謙天皇を支えます。ただ、逆に言えば孝謙天皇は、光明皇后と藤原仲麻呂の意見抜きに自由な政治は行えなかったということ。
政治の実権は光明皇后と藤原仲麻呂が握っていたと言っても良いかもしれません。
孝謙天皇「道祖王は麻度比(まどい)に改名なw」
756年に亡くなった聖武天皇は、後に起こるであろう皇位継承問題を憂い、次期後継者について「道祖(ふなど)王を皇太子にせよ」と遺言を残しています。
ところが757年3月、聖武天皇の喪中にも関わらず女官と交わって、機密情報を漏らしたとして道祖王を皇太子には不適格だと孝謙上皇が言い始めます。
こうして道祖王の皇太子を廃止して、新たに大炊王を立太子させます。
なぜこんなことが起こるかというと、大炊王は藤原仲麻呂と親密であり、道祖王の皇太子を廃止の裏では藤原仲麻呂が暗躍していたからだと言われています。藤原仲麻呂は自分の言うことをなんでも聞くような人物を天皇即位させ、政治を思うがままに支配しようと考えたのです。
さらに同じ757年の7月、大炊王の立太子に納得できない人々が謀反を起こそうと企みます。繰り返しですが、当時は皇位を巡って多くの皇族がぶつかり合っていました。
首謀者は橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)と言う男。ちょっと前まで聖武天皇のブレインとして働いていたのに、讒言によって失脚した橘諸兄の息子です。
橘奈良麻呂は、同じく大炊王の立太子に不満を持つ多くの皇族たちと共にクーデターを計画したのですが、その計画があっけなく藤原仲麻呂に露呈。行動に移す前に捕まり、尋問を受けます。
この時、橘奈良麻呂と共に謀反を起こした者の中には道祖王の名前もありました。激おこ状態の孝謙天皇は、道祖王の名前を麻度比(まどい=惑う者の意味)に強制改名。そして麻度比となった道祖王は拷問を受けた上で獄中で亡くなりました。すげーの世の中・・・。
この事件の翌年(758年)、孝謙天皇は大炊王に譲位。大炊王は淳仁天皇となり、孝謙天皇は上皇となります。
孝謙上皇「仲麻呂はもういいわ。私は道鏡が好きなの」
淳仁天皇は藤原仲麻呂の傀儡であり、政治の実権は藤原仲麻呂が握りました。
ここでは詳しく触れませんが、藤原仲麻呂は次々と政策を打ち出します。また、藤原仲麻呂の政治スタイルは「邪魔者はとにかく潰す」と言うストロングスタイルだったので、恐怖政治と言われることもあります。
藤原仲麻呂は当時の官僚制で一番高い官位の太政大臣にまで昇格しご満悦ですが、その藤原仲麻呂を脅かす人物が突如として現れます。それが僧侶の道鏡(どうきょう)と言う人物。
561年、病に倒れた孝謙上皇は、治癒のため僧侶を呼び呪術的治療を依頼します。そこで孝謙上皇を看病したのが道鏡と言う僧侶。
孝謙上皇は、この道鏡にメロメロとなり身も心も道鏡に委ねてしまいます。天涯孤独が確定している孝謙上皇にとって、俗世とかけ離れ、ミステリアスなオーラを放つ道鏡は魅力的に映ったのでしょう。
こうして孝謙上皇は道鏡を好きになっちゃうのですが、その溺愛ぶりがそれはもう常軌を逸脱したものでした。孝謙上皇は当時40歳ぐらいですが、その立場上、これまで男性と関係を持つことなどなかったのだろうと思います。
これに藤原仲麻呂がビビります。
「おいおい、ただの僧侶のくせに寵愛っぷりがマジヤバイぞ・・・。道鏡が『孝謙ちゃん!俺、高い官位欲しいんだけどなんとかしてくれないかな?言うこと聞いてくれたら気持ちいいことたくさんしてあげるからさ!(意味深)』なんて言い始めたら俺の天下おわるんじゃね?」
これを憂いた藤原仲麻呂は、傀儡の淳仁天皇を通して孝謙上皇に苦言を呈します。
が、愛する道鏡との関係を指摘された孝謙上皇は大激怒。
「これからは使えない淳仁天皇はどうでもいい些細な仕事しかしなくていいから。私が国家の大事を担うわ」
と淳仁天皇の権限を剥奪。これに伴って淳仁天皇を通じて政治を支配していた藤原仲麻呂の権勢にも陰りが見えてきます。
孝謙上皇の暴れっぷりが凄まじいですが、これは実話です。念のため。
孝謙上皇と藤原仲麻呂の乱
この一件の後、政治の世界でも異変が起こります。これまで藤原仲麻呂の派閥で埋め尽くしていた役職に、孝謙上皇の圧力でポツポツと孝謙上皇派の人間が送り込まれるようになったのです。
この時、藤原仲麻呂にぶっ飛ばされていた吉備真備も平城京に生還しました。
さらには、水面下で軍隊も動くようになり、孝謙上皇と藤原仲麻呂の関係は悪化の一途を辿ります。
そして764年、遂に両者の間で武力闘争が起こりました。先に動いたのは藤原仲麻呂・・・でしたが、藤原仲麻呂の計画を事前に察知した孝謙上皇側が先手を打ちます。
孝謙上皇側は吉備真備の巧みな戦術で藤原仲麻呂を追い詰め、この反乱を鎮圧します。これが藤原仲麻呂の乱と呼ばれる事件。
こうして藤原仲麻呂は消えて無くなり、淳仁天皇は淡路へ流され謎の死を遂げ、孝謙上皇は称徳天皇として2度目の天皇即位を果たします。
愛する道鏡の邪魔をする者はこれでいなくなり、ここから道鏡と道鏡を溺愛する称徳天皇の二人三脚で無茶苦茶な政治が始まります。
称徳天皇と権力欲に溺れた道鏡
藤原仲麻呂の乱の後、称徳天皇と道鏡による政治が行われますが、これがもう酷い。道鏡はなんのキャリアもないままに突如として太政大臣禅師に選ばれ、官僚トップに躍り出ます。さらに、朝廷の要職の多くを道鏡に親しい者が占めるようになり、政治は腐敗しました。
官僚になるには能力もキャリアも不要!道鏡に気に入られさえすれば要職についてウハウハできちゃうわけです。
藤原仲麻呂の場合も似たようなことをしていましたが、それでも藤原仲麻呂自身とても頭が良く政治スキルを持ち合わせていました。しかし、道鏡にそのようなスキルはありません。そんな意味では恐怖政治と言われた仲麻呂時代より酷いかもしれない。
765年には、道鏡は法王となり、日本仏教界の頂点へ。凄まじい出世。称徳天皇は出家していましたが、仏教界においては法王は天皇を超越する存在。トンデモナイ地位に道鏡は立つことになります。
やろうと思えば、皇位簒奪も夢ではない・・・というか本当に皇位簒奪を試みました。
道鏡は権力欲に溺れ、すでに僧侶としての本懐を忘れ去ってしまいます。権力を手に入れたら人が変わってしまった・・・そんな典型例でしょう。
称徳天皇と宇佐八幡宮神託事件
769年、称徳天皇に下に「宇佐八幡宮で道鏡を天皇にすれば、天下は泰平であろう」とのお告げがあったとの報告が届きます。
称徳天皇はこの真偽を確かめるため、和気清麻呂(わけのきよまろ)という信頼できる部下を派遣。宇佐八幡宮は今でいう大分県にあるので遠旅になります。
さて、和気清麻呂が宇佐八幡宮から戻ってきます。これで天皇になれるぞ!とワクワクする道鏡。
ところが、和気清麻呂が伝えた報告は、当初の報告とはまるで真逆のものでした。
和気清麻呂によると宇佐八幡宮の神託は、「我が国は開闢以来、君臣の身分は決まっています。臣下が君主になったことは未だありません。天皇には必ず皇族を即位させよ。これに背くものは排除せよ」(意訳)というもの。
これに道鏡は怒ります。「ふざけるな!そんなの嘘だ!和気清麻呂は神託を偽ってるんだ!!」
こうして和気清麻呂は別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)という酷い名前に改名させられた上で左遷させられてしまいます。
この事件のことを宇佐八幡宮神託事件と言いますが、中々闇の深い事件で、事件の裏では色々とあったんじゃないか?と言われています。
宇佐八幡宮には道鏡の息のかかった人物がいたので、最初の「道鏡が天皇になるべき!」っていうのは道鏡が裏で仕組んでいた!っていうのが一般的な説ですが、一方で、称徳天皇が権力欲に溺れ皇位簒奪を目論む道鏡を失脚させるために仕組んだ自作自演では?なんて説も。ただ後者については、称徳天皇って猪突猛進なところがありそうなので、こんな小細工するのかな?って気はします個人的には。
称徳天皇と天武天皇の血
宇佐八幡宮神託事件によって、道鏡の皇位簒奪は失敗し、道鏡は失脚します。道鏡を愛した称徳天皇も流石に権力欲に溺れ目が眩んだ道鏡を許すことはできませんでした。
道鏡と称徳天皇の色恋沙汰で行われた760年代の政治は、奈良時代の他の治世と比べてかなり異質です。恋愛と宗教を政治の世界に持ち込むと国は乱れる・・・という反面教師的な前例を道鏡は作りました。
そんな大事件の翌年の770年、称徳天皇は病に倒れ崩御します。この時称徳天皇の看護したのは道鏡ではなく別の人物。宇佐八幡宮神託事件を通して称徳天皇と道教の関係は終焉を迎えていたいました。
称徳天皇「私は道鏡を愛していた。でも、道鏡が愛したのは私ではなくて私の持つ権力だったのね・・・」って感じだったんじゃないかと思います。
称徳天皇は、次期天皇について何も明言せずに亡くなります。
称徳天皇の治世は、橘奈良麻呂の乱・藤原仲麻呂の乱・宇佐八幡宮神託事件ととにかく皇位をめぐるトラブルが多い!しかし、当の称徳天皇は最後の最後まで自分の意見を言うことはありませんでした。
この後、臣下たちで議論が行われ光仁天皇が即位。後に桓武天皇が即位し正当な天皇家の血統は天武系から天智系へ。そして血統が大きく変わることを象徴するかのように平城京から平安京への遷都(長岡京は省略)が行われるのです。
孝謙天皇・称徳天皇まとめ
以上、孝謙天皇・称徳天皇の生涯を紹介してみました。その生涯からは破天荒な人柄が伺えます。
孝謙(称徳)天皇には、他の天皇にはないある独特のクセがありました。それは自分に逆らった者に卑しい名前をつけて改名してしまうクセです。
例えば
- 道祖王:麻度比(まどひ=惑い者の意)
- 黄文王 : 久奈多夫禮(くなたぶれ=愚か者の意)
- 和気清麻呂:別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
- 和気広虫:別部狭虫(わけべのさむし)
などなど。wikipediaなんかだと
その性格の元には、名前や言の葉(=言葉)は一つ一つ、思いがこもった霊であり、大切にしなければならない、という孝謙天皇の考えがあった
とありますが、実際のところはどうなんでしょうか。道祖王も和気清麻呂も改名された理由がそもそも理不尽すぎて私には孤独に飢えた女性の卑しい趣味にしか見えない・・・(汗
さらには、これは私のカンですが、孝謙(称徳)天皇は、感情のままに己の道を突き進む衝動的な性格だったんじゃないかと思います。その下で働く官僚たちはさぞかし大変だったに違いない・・・。
孝謙(称徳)天皇の治世は政治腐敗で国が乱れ、天武天皇系の血筋が断絶した歴史的にはとても重要な時代です。794年に平安京に遷都が行われますが、政治腐敗・血統断絶・宗教腐敗などなど遷都の種が撒かれたのは間違いなく称徳天皇の時代でした。
それと、寵愛していた道鏡を最後の最後で突っ放した称徳天皇の心の内はどのようなものだったんでしょうかね。すごい気になる。政治史を語ると自然とラブストーリーになる称徳天皇はやっぱ凄い。いろんな意味で。
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