今回は、飛鳥時代の貴公子、あの有名な聖徳太子について紹介します。
「聖徳太子って有名だけど何をした人なの?どんな人なの?」というのをわかりやすく丁寧に紹介していきます。このブログでは既に聖徳太子について触れている記事も多くありますので、そんな記事も参考に紹介しながら解説してみます。
この記事を読んでいただければ、聖徳太子のことはだいたいわかると思います!
聖徳太子の家柄
聖徳太子は574年、用明天皇の子供として生まれます。天皇の息子なので次期天皇候補にもなりうる高貴な血筋の持ち主なんです。
「聖徳太子」は尊称であり、正式名称は「厩戸王(うまやとおう)」。
その名前から厩(うまや。馬小屋)で生まれたとか言われてますが、多分蘇我馬子の家で生まれたから厩戸王なんじゃないかな?と思います。
当時は、天皇制が未完成の時代。そもそも天皇制は、当初は豪族たちの連合体の長として登場します。
それが世襲化し、670年〜680年頃、天武天皇によって強力な権威・権力を持つようになり奈良時代以降に本格化したのが日本の天皇制。500年代後半の天皇制には、後の時代ほど強力な権力・権威はなく、政治の実権は皇族に加え、豊富な財を持つ蘇我氏にが握っています。
用明天皇は蘇我馬子と政治的に親しい関係だったので、厩戸王の名は蘇我馬子から来ている・・・と考える方が普通な気がします。「馬小屋で生まれた」説はイエスキリストが馬小屋で生まれたっていう話もあるので、それと結びついて後で作られた話なんじゃないでしょうかね。
聖徳太子、戦場へ
聖徳太子が歴史上に本格的に登場するのは丁未(ていび)の乱という戦いでした。丁未の乱は、
- 皇位継承問題
- 蘇我氏VS物部氏の豪族争い
- 排仏論・崇仏論問題
の3つの問題を包含した複雑な経緯のある乱。587年に起こります。聖徳太子は当時、10代前半の青年です。
「日本書紀」という史料によれば、聖徳太子はこの戦いに何らかの形で参戦したと言われています。当然、兵士としてではなく現場に駆けつけたぐらいの感じでしょう。
劣勢に立たされた蘇我軍を見た聖徳太子は、いきなり四天王像の木彫りを作り、こう祈願します。
「もしこの戦に勝利できたなら、四天王のためにお寺を建立しましょう。」
その甲斐あってか、丁未の乱は蘇我馬子の勝利に終わり、ライバルの消えた蘇我氏はその後645年の乙巳の変までの間、大繁栄を遂げます。
ちなみに、この時四天王のために建てられたお寺が大阪市にある四天王寺だと言われています。
ただし、日本書紀は日本の公式歴史書で都合の悪い部分は事実を捻じ曲げている可能性もあるので、このエピソードがどこまで正しいかはわかりません。
四天王寺も本当に聖徳太子が建てたのか謎ですが、いずれにしても四天王寺は聖徳太子ゆかりのお寺として有名になっています。
聖徳太子、皇太子になる
592年、日本では天皇暗殺という前代未聞の大事件が起こります。(これも天皇制が不安定だったことが遠因にある)
こうして突如として、後継者問題が勃発しますが、暗殺事件の後ということもあり情勢は不安定。男を天皇にすると天皇に選ばれなかった皇族たちが反乱を起こしかねないので、蘇我馬子ら有力者は「とりあえず女帝を即位させて、次の男性天皇まで繫ごう」と考えます。
こうして即位したのが女帝として有名な推古天皇。592年に即位します。
推古天皇即位の翌年(593年)、聖徳太子は皇太子選ばれ、摂政にもなります。摂政は天皇の補佐役。女帝や幼少天皇が即位した時にのみ現れる特殊な役職です。そして皇太子に選ばれたということは、次期天皇の最有力候補ということになります。
当時の皇位継承候補者は3人いました
- 聖徳太子
- 竹田皇子
- 押坂彦人皇子
の3人。押坂彦人皇子は時の権力者である蘇我馬子との関係が浅いため論外。竹田皇子は若くして亡くなってしまい、消去法的に聖徳太子が選ばれます(諸説あります)。
平安時代になると、藤原氏がこの摂政の座を利用して権力を手中に収めようと躍起になりますが、この頃は皇族限定の役職でした。
聖徳太子の活躍
推古天皇は、蘇我馬子・聖徳太子と共に共同で政治を行います。
ここでは、聖徳太子が関与したと思われる当時の政策についてハイライトで触れてみます。
遣隋使の派遣
聖徳太子が関与した数ある政策の中で国政への影響が一番大きかったのがおそらく遣隋使の派遣です。
およそ130年ぶりに中国との国交を持とうと派遣した使節団が遣隋使。聖徳太子がどこまで関与したかは不明ですが、おそらく遣隋使派遣には聖徳太子の意向が強く反映されています。
詳しくは以下の記事をどうぞ!
冠位十二階
遣隋使が見聞した隋や朝鮮の制度を参考に作られた朝廷内の官位制度です。冠の色でそれぞれの人の偉さがわかる仕組み。
当時の朝廷は、豪族単位でランク付けを行い、その豪族内で個々人がどんな身分になるかは一族の中の意思決定に委ねられていました。(つまり朝廷は個人の身分にまで干渉しない)
朝廷「ヤマダ氏に〜〜な仕事任せたいから人出してくれな」
ヤマダ氏「了解っす。じゃあ一族の中から山田太郎君選ぶわー」
こんな感じ。
これを、朝廷「田中太郎と山田次郎が優秀だから、あいつら採用するわ」と朝廷と個人を直接結びつけたのが冠位12階制度。
朝廷が個人の身分に関与した画期的な制度でした。優秀な人物ならばどんな一族でも重用するよ!という新しい国づくりを目指す朝廷の心意気がわかる制度です。
冠位十二階に関しては聖徳太子がどれだけ関与しているかは不明ですが、聖徳太子は政治の中枢人物ですから無関係ではないはず。
17条の憲法
次に紹介するのは有名な17条の憲法です。「憲法」という言葉がついてますが、現代に例えるならば、「社則」に近いもの。朝廷官僚の仕事に置ける心得を17つまとめたものです。
17条の憲法の制定理由などについては、以下の記事をどうぞ。簡単に言えば、冠位12階位によって様々な人々を朝廷が直接採用するようになると、組織内で決まりみたいなものが必要になったんです。以前までは朝廷で働く人は豪族から派遣されてる感じで人々の管理は豪族に委ねられていたので、既存のルールはありません。すると、新規に決まりごとを定める必要があるわけで、それが17条の憲法になります。
17条の憲法の具体的な条文解説は以下の記事をどうぞ!
17条の憲法は、仏教と儒教の教えが色濃く反映されており、日本の仏教振興に計り知れない貢献をした聖徳太子が作ったものだと考えられていますが、「いや、別に聖徳太子はそこまで関与してないんじゃね?」って説もあり、現在進行形で様々な議論が進められています。
私が学生の頃は「17条の憲法=聖徳太子!」みたいな覚え方でしたけど、今後はどうなるのでしょうか。
聖徳太子と法隆寺
聖徳太子が日本でここまで有名になった一番の理由はおそらく仏教を本格的に日本に広めた人物だからです。実際に聖徳太子の逸話は仏教に絡んだ話が多いです。
「聖徳太子無くして日本仏教なし」と言っても良いほどだと思います。仏教は590年頃に本格的に日本に輸入され始め、聖徳太子の活躍した600年頃から人々に仏教信仰が広まっていきます。
そんな仏教の普及における聖徳太子の大きな功績の1つが法隆寺の建立です。
聖徳太子の父である用明天皇はお寺の建立しようとしますが、建設に着手する前に用明天皇は亡くなってしまいます。法隆寺はそんな父の意志を受け継ぐため聖徳太子が建てたと言われています。なんて父想いな聖徳太子なんでしょう!!
現存する法隆寺は大きく東エリアと西エリアの2つのエリアに分かれています。この時建てられたのは西エリア。有名な五重の塔が今でも建てられています。
東エリアは、今でこそ夢殿という建物が建てられていますが昔は斑鳩宮(いかるがのみや)と言って聖徳太子の家がありました。
法隆寺は聖徳太子の仏教信仰を象徴するお寺であると共に、聖徳太子と非常に縁深いお寺なんです。
聖徳太子と仏教
聖徳太子は高句麗の慧慈(えじ)という僧侶から仏教を教わったと言われています。そして、聖徳太子は慧慈から隋や朝鮮の話を多く聞いていたため、大陸の事情にも詳しかったと考えられます。(これが上述部分で遣隋使派遣に聖徳太子が大きく関与したと考えられる理由です)
なぜ慧慈はわざわざ遠い高句麗からやってきたのでしょうか?実は慧慈は日本に仏教を伝来することで日本と友好的関係を結ぼうとした高句麗の外交官的ポジションだったと言われています。詳細については以下の記事が詳しいです。
三経義疏(さんぎょうぎしょ)
聖徳太子は、
- 法華経
- 勝鬘経(しょうまんぎょう)
- 維摩経(ゆいまぎょう)
という3つのお経の注釈書を書き残したと言われています。この3つを合わせて三経義疏(さんぎょうぎしょ)と言ったりします。
お経とは、仏教の教えの載った経典のことを言います。仏教は開祖であるブッタが自らの教えを経典として残さなかったため、後世の人々がいろんな考えをめぐらし様々な経典を作りました。(キリスト教の聖書やイスラム教のコーランのような唯一無二の経典は仏教には存在しません)
私たちに身近なお経だと、般若心経がありますね!
三経義疏のうち法華経は聖徳太子直筆と思われる書が現存しています。(本当に聖徳太子の直筆なのかは諸説ありますが、古い時代の書物であることは間違い無いようです)
聖徳太子は10人の話を同時に聞けたか?
いきなりですが、聖徳太子は10人の話を同時なんて聞けなかったと思います!(断言)
聖徳太子は、その聡明さから豊聡耳(とよとみみ)と呼ばれることもありました。「豊かで賢い耳」=聡明な人という連想ゲーム的な発想でしょう。
そしてこの豊聡耳という尊称からさらに連想ゲームが進み、後世の人々が「そんなにすごい耳があるんなら10人同時に話聞けるんじゃね?」ってデマが広がった結果が現在なのだと思います。
デマと言ってもこれは聖徳太子が長年人々に親しまれてきている証拠なのであの世にいる聖徳太子も喜んでいるのではないでしょうか。
聖徳太子の最期
聖徳太子は病に倒れ、622年に若くして亡くなります。この時、推古天皇は在位しています。崇峻天皇暗殺事件の後、つなぎ役として即位した推古天皇はようやく聖徳太子を皇太子に定めましたが、622年に聖徳太子が亡くなったことでこれまでの計画が水泡に帰してしまいます。
天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)
聖徳太子が亡くなると、聖徳太子の奥さんは聖徳太子を偲び、天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)という染織物を作ります。
この絵の意味するものは定かではありませんが、天寿国とは阿弥陀如来の住む極楽浄土を意味するというのが一般的な解釈で、
「亡くなった聖徳太子は極楽浄土で平穏に暮らしてるよ!」っていうのを表現した絵だと言われています。ただ、日本に阿弥陀信仰が本格的に普及したのは平安時代末期なので「この時代にそんなこと考えるかな?」みたいな説もあります。
いずれにせよ天寿国繍帳は何らかの仏教的意味が込められた作品であり、聖徳太子が仏教を深く信仰していた証拠の1つでもあります。
聖徳太子の息子、山背大兄皇子の悲劇
聖徳太子には息子がいました。山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)と言います。この息子が実に悲劇的な死を遂げます。
蘇我馬子と聖徳太子は良好な関係を保っていたのに、世代が代わり蘇我入鹿と山背大兄皇子の代になると両者は考え方の違いから対立。
強大な力を持つようになり山背大兄皇子が邪魔になった蘇我入鹿は、なんの大義名分もなしに山背大兄皇子が住む斑鳩宮を襲撃。
こうして山背大兄皇子は亡くなり、ここに聖徳太子の血筋は完全に途絶えることになります。山背大兄皇子を殺害した蘇我入鹿はこの事件によって一気に人望を失い、中臣鎌足や中大兄皇子が立ち上がり645年、乙巳の変で蘇我入鹿は命を落とすことになります。
詳しい経緯は以下の記事で紹介しています。
聖徳太子の人物像を考える
以上、聖徳太子の生涯をハイライトで紹介しました。
聖徳太子は、逸話は多いのですが生きていた時代の具体的なエピソードが少なくどうも人物像に迫りにくい感があります。そのため「実は聖徳太子という人物は存在しなかったのでは!?」なんて説もあるほど。
しかし、奈良時代の頃から聖徳太子信仰は始まっているので聖徳太子は死後間も無く民衆からの人気を得たわけで、超いいやつだった説が濃厚です。
聖徳太子は日本仏教の祖と言っても良いほどに日本仏教に大きな影響を与えた人物です。「聖徳太子無くして日本仏教なし」と言っても良いかもしれません。(ちなみに、蘇我馬子も仏教の不況に大貢献しましたが、崇峻天皇殺害疑惑で評判が悪すぎるので、あまり話題になりません。一応馬子のフォロー!)
人々が仏教を学ぼうとすればおそらくほとんどのケースで聖徳太子の話が耳に入ったはず。仏教の普及と共に聖徳太子の知名度は上がり、「こんな素晴らしい教えを普及してくれた人なんだから超いいやつなんじゃね?」的な感じで次々といろんな逸話が生まれたんじゃないかと思います。
さらに、聖徳太子の息子の山背大兄皇子の悲痛な最期とそれにより聖徳太子の血が途絶えたことが聖徳太子に悲劇性を持たせ、聖徳太子の人気をより一層高めている気がします。
- 推古天皇の下で政治に勤しんだ忠勤ぶり
- 日本仏教の祖のような存在として認識されていること
- 仏教が普及するのに合わせて聖徳太子も有名になったこと
- 息子が悲劇的な死を遂げたこと
- 生きてる間の聖徳太子が超いいやつだったこと
あたりが聖徳太子人気の秘訣というところでしょうか。なんかこう戦いとかで目立った大活躍をしたわけでもないのに、ここまで人気な歴史的人物も珍しいと思います。やっぱ日本仏教の礎を作ったのが大きいのかなと個人的には思う。日本の歴史ってその多くは仏教が関係してますからね。聖徳太子は、昔にお札の人物にも選ばれています。愛されてるね聖徳太子!
以上、聖徳太子の人物紹介でした!
コメント
すごくわかりやすかったです。
すごい