今回は、4代続いた奥州藤原氏の中でも特に有名な3代目の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)について紹介しようと思います。
藤原秀衡は、朝廷には服従せず、独立国家の様相を呈していた奥州の王者として君臨した人物。後世の人々の評価も高く、「名君」なんて呼ばれることも。
一体藤原秀衡ってどんな人物なんでしょうか?わかりやすく紹介してみようと思います。
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藤原秀衡と平安京
藤原秀衡は1157年、父基衡の家督を継ぎ奥州藤原氏の三代目となります。
1157年と言えば、平安京ではその前年の1156年に保元の乱が起こったばかり。保元の乱によって朝廷の権力構図が大きく塗り替えられ、朝廷内は混迷を極めました。
保元の乱は、朝廷の権力争いに初めて公に武力が投入された事件。保元の乱により、武士が朝廷権力に大きく介入できることが周知の事実となり、平清盛が栄華を誇るきっかけとなった事件でもあります。
さらに1159年、平治の乱が起こります。朝廷内は、天皇・上皇・貴族・武士による複雑な権力闘争が繰り広げられていたのです。
そんな複雑な権力闘争の中、平安京の有力者たちは、藤原秀衡氏の強大な財力と武力の存在をはっきりと認識しており、官位などを餌に藤原秀衡に接近しようと試みます。
しかし、藤原秀衡は平安京のどの勢力にも与することなく、独立した勢力として君臨し続けます。これは先代から続く奥州藤原氏の外交指針でもありました。
朝廷から軽蔑される奥州藤原氏
朝廷は、奥州藤原氏の財力・武力を認めた一方、蝦夷の血の混じった奥州藤原氏のことを北方の蛮夷などと言って侮蔑していました。
これは、前九年の役の経過を見てもよくわかります。
奥州藤原氏が朝廷のどの勢力にも組みしなかった理由には、「俺らのことを馬鹿にする朝廷なんかと関わりたくないわ!!」という想いもあったのでは?なんて言われています。
藤原秀衡と平清盛
しかし、そんな平安京と藤原秀衡の関係も平清盛が朝廷内に台頭することで、少しずつ変わり始めることになります。
平清盛は、1167年に朝廷の最高官位である太政大臣にまで昇進します。それまで貴族から蔑まされていた武士の身分としては前代未聞の昇進であり、武門の平家はいよいよ朝廷を本格的に支配しようとしていました。
1170年、藤原秀衡は朝廷から鎮守府将軍という官位を授けられました。これまでの奥州藤原氏は強大な財力・武力を背景に、朝廷に取り込まれることを頑なに拒んできました。だから、これまでも朝廷からの官位などを拒んできたのです。しかし、同じく強大な財力と武力を持つ平清盛の登場により藤原秀衡も朝廷との外交方針を軟化します。
藤原秀衡と源義経
藤原秀衡は、平清盛との関係を軟化させる一方で源氏との関わりも強めていきます。
1174年、出家を拒み、親戚を頼って奥州にやってきた源義経を受け入れます。源義経は、清和源氏として皇族の血を引く貴種。藤原秀衡は、源義経の源氏の血を利用し、奥州の権威をより一層高めようと考えました。
藤原秀衡は源氏と平氏という武士勢力の台頭を受け、それまでの「朝廷断固拒否!」方針を軟化し、両者の間で柔軟な関係を築こうとしたわけです。とは言っても、両者との間に深い関係を持つことは決してなく、あくまで奥州の独自勢力として君臨し続けました。
このあたりの微妙なさじ加減から、藤原秀衡の狡猾さが伺えます。
藤原秀衡と源平合戦
平氏と源氏の台頭のみならず、日本はさらに混沌とした時代へと突入します。源平合戦の始まりです。
1180年の以仁王の挙兵により源平合戦が始まります。
源平合戦が始まったことで、源氏と平氏の藤原秀衡の懐柔策もますます露骨になり、藤原秀衡もそれを最大限利用しようと考えます。
1181年、藤原秀衡は陸奥守に任じられます。陸奥守は陸奥国の代表者ですから、朝廷が陸奥国は藤原秀衡が支配していると公式に認めたことになります。(これまでは、朝廷ガン無視で独自勢力として君臨していました)
これは、各地で起こる源氏の反乱を抑えるために平家側が考えた苦肉の策の1つです。「奥州藤原氏の奥州支配を公式に認めるから、その代わりに平家に協力して源氏に圧力かけてくれない?」という算段。しかし、藤原秀衡は陸奥守という役職だけをもらい、平家の言うとおりに動くことはせず、源平合戦にも「我関せず」で静観を決め込んでいました。
藤原秀衡は源平合戦という動乱を利用し、ほとんど何もしないまま奥州藤原氏の奥州支配を朝廷に公式に認めさせたことになります。ほんと、藤原秀衡は賢い。
藤原秀衡と源頼朝
ここまでの藤原秀衡の対応は完璧。鎌倉を拠点とする源頼朝とも、持ちつ持たれつの関係を維持します。
ところが、ここまで完璧だった藤原秀衡の外交政策も、源義経によって大きな転換を迫られます。
1180年、源頼朝と平家軍は富士川付近で対峙します。有名な富士川の戦いです。
当時、源義経は藤原秀衡の下に居ましたが、兄の源頼朝を助けるため富士川へ馳せ参じることを藤原秀衡に願い出ます。
しかし、藤原秀衡は次の2つの理由によりこれを良く思いませんでした。
- 源義経、兄頼朝の下に行ってしまうと源氏の力を利用できなくなってしまう
- 源義経が、頼朝と行動を共にするようになると、いずれ義経と頼朝で家督争いが起こるのではないか?という懸念(義経の身を案じているということ)
最終的には、源義経の強い気持ちに負け、藤原秀衡は源義経が頼朝の下へ向かうことを認めてしまいます。そして1185年、壇ノ浦の戦いにて平家は滅亡。源平合戦は源氏の勝利に終わります。
戦いが終わると、藤原秀衡の予想通り、源義経と源頼朝の間に軋轢が生じます。理由は主に以下の2つでした。
- 兄の頼朝の言うことを聞かなくなった
- 源頼朝が、政治折衝のため後白河法皇と距離を置こうとしてたのに、源義経が後白河法皇に懐柔され、義経の存在が頼朝にとって邪魔になってしまったこと
源義経は、源氏の本拠地である鎌倉から追放され各地を転々と彷徨い続けます。そして最終的に義経が頼ったところが、故郷である藤原秀衡のいる奥州でした。奥州に入ったのは1187年の話です。
迫り来る源頼朝
1186年、源頼朝は藤原秀衡を牽制しようとこんな露骨な文章を秀衡に送ります。
「秀衡が朝廷に送る貢物。この頼朝が間に入り仲介いたしましょうぞ(超訳)」(奥州藤原氏は朝廷に定期的に貢物を送り続けることで、朝廷に奥州藤原氏の奥州の自治権を黙認させていました。要は金の力で丸め込んでいたわけです)
これは、藤原秀衡と朝廷との直接の関係を経ち、頼朝がその間に入ることで秀衡を牽制しようとする意図があります。
しかも、藤原秀衡も源平合戦に勝利し強大な力を持つようになった頼朝の提案を無下にすることはできません。藤原秀衡は、しぶしぶ頼朝に貢物を送りました。
さらに頼朝は、「焼けた東大寺の大仏作り直すから、砂金三万両よろしくな!」と秀衡にとんでもない重税を課そうともします。流石にこれは秀衡が丁重に断りを入れ、実現しませんでした。
平家を滅ぼした頼朝にとって、唯一邪魔な勢力は奥州藤原氏のみ。その頼朝の魔の手がいよいよ奥州にも迫ろうとしていたのです。
しかし、頼朝も秀衡の才知と奥州の財力・武力を恐れており、露骨な行動まではできませんでした。頼朝の牽制も上述したような微妙な嫌がらせに終わっています。
そんな頼朝の圧力が決定的になった1186年の翌年の1187年、義経が奥州に舞い戻ってきました。
藤原秀衡の英断
藤原秀衡にとって、源頼朝と敵対する義経を受け入れることは、政治的に非常に重要な決断でした。
何故ならば、「源義経を受け入れる」=「源頼朝に対して明確な敵対関係を意思表示する」という意味なので、義経を奥州に迎えた時点で藤原秀衡と源頼朝の対立が決定的なものとなるのです。1174年に義経を快く向かい入れたのと事情は大きく変わっていました。
そんな事情を理解していた藤原秀衡は「義経を受け入れても受け入れなくてももはや頼朝との衝突は避けられない・・・」と考え、あえて義経を受け入れて頼朝に対して敵対関係を明確にしたのです。
源頼朝は法皇や貴族らにも圧力を掛けており、頼朝を快く思わない有力者も数多く存在していました。そのようなアンチ頼朝派の人々は、義経に同情の気持ちを持つ者も多く、義経を受け入れることでそれらの人々の協力も得られると秀衡は考えました。特に義経を親しい後白河法皇の存在は秀衡にとってとても大きい存在だったはずです。
これは、今までの奥州藤原氏の外交方針を大きく変えた藤原秀衡の英断であり、当時の義経を取り巻く情勢を冷静に分析した結果でもありました。
藤原秀衡の死
ところが、こんな超重要な決断をした直後、藤原秀衡は亡くなってしまいます。義経を受け入れたのと同じ1187年でした。
秀衡には2人の息子がいました。泰衡と国衡です。藤原秀衡は、自分が亡き後、後継者争いにより息子同士が争うことを強く恐れました。後継者争いの隙を狙われれば奥州はあっという間に源頼朝の手に落ちかねないからです。
藤原秀衡は死ぬ間際、2人の息子に「息子たちは皆協力し、源義経を主君として頼朝に対抗するように」と誓約書を息子たちに書かせます。さらに巧みな縁組を行って泰衡と国衡を親子関係にしてしまい、対立関係が起こらないよう配慮します。
後三年の役のように清原氏の内紛に源義家が介入し、事態をメチャクチャにした事例もありますので、秀衡の不安は決して杞憂ではなかったわけです。
4代目、藤原泰衡
父秀衡の緻密な配慮もあって、泰衡と国衡の間に軋轢はなかったものの、叡智溢れる秀衡の死は源頼朝にとって奥州制圧の絶好の機会となります。運は頼朝に味方したのです。
源頼朝は、後白河法皇に圧力を掛け「義経追討」の命令を出させます。そしてそれを利用し泰衡を脅しました。
「法皇から義経追討の命令が出てるし奥州に攻め行ってもいいんだけど、あんま事を荒立てたくないじゃん?泰衡の方で、義経を始末してくれたら、事を穏便に済ませてあげても良いけど?(奥州を攻めないとは言ってない)」
泰衡は父秀衡の意思を受け継ぎ、頼朝との徹底抗戦の姿勢を崩しませんが、執拗に脅しをかけてくる頼朝に次第に屈するようになってしまいます。外交スキルMAXの頼朝にとって泰衡を騙すことなど朝飯前なのでした。
泰衡「義経の首一つで、奥州の平和が保たれるならば・・・」
1189年、泰衡は頼朝の「義経の首を差し出せば、事を穏便に済ませてやる」という甘い言葉に屈し、義経の首を刎ね、その首を頼朝に差し出しました。兄頼朝のために源平合戦を戦った義経ですが、その最期はなんとも悲しいものでした。
奥州合戦へ
しかし、頼朝の真の目的は義経を消すことだけではなく、自分に唯一抵抗しうる力を持った奥州藤原氏を潰す事です。
源頼朝が泰衡の奥州支配をやすやすと認めるわけがありません。義経が亡くなったのと同じ1189年、源頼朝は「長い間義経を匿い続けたことは許しがたい罪は、実際に反逆を起こすこと以上に重大な罪である。だから奥州藤原氏ぶっ潰す!!!」と一気に攻勢を仕掛けます。泰衡に持ちかけた話は完璧なるはったりだったことになります。
こうして藤原泰衡軍と源頼朝軍が衝突。藤原泰衡は敗北し、4代に渡って続いた奥州平泉の栄華はここに尽きることとなるのです。
藤原秀衡まとめ
以上、藤原秀衡の生涯をハイライトで紹介しました。
保元・平治の乱や源平合戦など混沌とした情勢の中、藤原秀衡は奥州の平和を維持するための外交に努めました。そして秀衡は非常に頭の切れる人物で、その時その時の情勢に合わせとても的確な判断ができる男でした。
平家勢力が台頭すれば、それまでの外交方針を曲げて平家と歩み寄る柔軟さ。平家に良い顔する一方で、平家のための具体的行動は一切せず、源義経を受け入れ源氏の力を利用しようとする狡猾さ。そして、頼朝との対立が避けられないと見るや義経を匿い、突如として源頼朝に対する敵意を明確にした勇敢さ。
平安時代末期の動乱の中、奥州は驚くほど平和でした。それも藤原秀衡の知略があってこそだと言えます。そして秀衡の存在それ自体が、源頼朝などの抑止力になっていた面も否めません。戦いなどの目立ったイベントはありませんが、秀衡に限って言えば、目立たなかったことこそが藤原秀衡が王者たる所以であったと私は考えます。「真の王者は無駄な戦いをしない」そんな風に秀衡は考えていたんじゃないかな?と思っています。
コメント
藤原氏の落人が栃木県の粟野町辺りに隠れ住んだという話はありませんか?
かなりの山奥で、特別な理由が無いと人が住み着きそうも無い場所なのですが、その辺は「斎藤」姓がとても多く、聞くところによると何百年も前に先祖が源氏から追われてやって来たと言うことなのです。
「稲葉」と「隠岐」という言葉もある老人から聞きました。
何か因縁がありそうですね。