この記事は、古墳時代のことを高校日本史レベルでわかりやすくまとめたまとめ記事になります。
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古墳時代とは
古墳時代は、3世紀後半(西暦200年代の後半)から始まった時代で、その名のとおり古墳がたくさん作られた時代です。
弥生時代に稲作が始まると、集落の規模が大きくなり、集落の中に身分格差が産まれるようになりました。
大きくなった集落は歴史用語で『クニ』と言い、クニのボスたちが埋葬されたのが古墳です。
古墳時代の始まり
もともと弥生時代の頃から、クニのボスたちの墓は墳丘墓と呼ばれる小高い丘みたいになっていました。
弥生時代の後半になると強いクニが、弱い集落やクニを従えるようになって、強いクニはさらに強くなっていきます。
ボスがどんどん強くなると、それに比例して墳丘墓もどんどん大きくなり、ついには墳丘墓とは呼べないほどの超特大サイズのものまで現れました。
そして、この超特大サイズの墳丘墓のことを古墳と言います。
各地でいろんなタイプの古墳が作られましたが、特に巨大だったのが前方後円墳と呼ばれるタイプの古墳でした。
その名のとおり、前側が方形(四角)で後ろが丸い、鍵穴みたいな形をした古墳です。
巨大な前方後円墳は、大和地方(奈良県周辺)で多く見られるため、大和地方には強いボスたちがたくさんいたと考えられています。
古墳は大きければ大きいほど、作るのに多くの人を動員しなければならないので、「古墳が大きい」=「たくさん人を集めれる人の墓」=「強い奴の墓」と考えることができるんだよ。
さらに、大和地方の古墳の形がおおむね前方後円墳で統一されていることから、強いボスたちは争い合うというよりも、お互いに協力しながらクニを治めていたと考えられています。
大和地方を中心として、強いボスたちが協力し合って成り立っていた政治体制のことをヤマト政権と言います。
強くなった各地のボスとその一族は、歴史用語で豪族と呼ばれているよ。この記事でもここから先は豪族っていうことにするね!
古墳のいろいろ
古墳はただ巨大なだけではなくて、いろんなデコレーション(装飾)も行われました。
埴輪
そんなデコレーションの中でも、古墳の代名詞となっているのが埴輪という粘土で作った置物です。
古墳時代の人々は、古墳の上にいろんな形(人・動物・家具など)をした埴輪をたくさん置くことで、死者を弔っていたのです。
埴輪には、可愛らしいデザインのものも多くて今でもグッズ化されていたりするものもあります。
時代 | 用途 | |
---|---|---|
埴輪 | 古墳時代 | 死者を弔うために古墳に飾られた |
土偶 | 縄文時代 | 祭儀のために用いられた道具 |
竪穴式石室と横穴式石室
もう一つ古墳で特徴的なのは、豪族たちの遺体を納めるため、立派な石室が作られるようになったことでした。
最初は、石室の上に入り口を作って上から遺体を安置する竪穴式石室が流行りました。
・・・が、古墳時代の後半になると、石室も進化して、古墳の横から穴を掘って遺体を運ぶ横穴式石室が作られるようになりました。
竪穴式石室は1回棺を入れたらもう使えないけど、横穴式石室なら横の入口から何度も出入りできるので、例えば親子で1つの石室を使うことができる・・・というメリットがありました。
さらに石室には、豪族の遺体と一緒にいろんなものが埋葬されました。
埋葬された物の中には、呪術や儀式で使うような怪しげなアイテムがたくさん見つかっています。
そのため当時の偉い人(豪族)に求められた力は、呪術のパワー、つまり人を心酔させるカリスマ性だったとも言われています。
埋葬物でも特に有名なのが、三角縁神獣鏡とかいう厨二病っぽい名前が付けられた鏡です。
古墳時代の中期に入ると、武器が埋葬されることが多くなっていきました。
これはつまり、豪族たちの求められるものが、カリスマからパワーに変化したことを意味しています。
大王の登場
古墳はただでさえ巨大なのに、古墳時代中期になると、超ド級の規格外みたいな古墳が登場しました。
実は、見つかっている古墳を大きい順にランキング化すると、ランキング上位のほとんどを中期の古墳が占めています。
特にランキングNo1の大仙陵古墳、No2の誉田御廟山古墳は、古墳の代名詞ともいえる存在なので、最低でもこの2つの古墳の名前はしっかり覚えておきましょう!
※ちなみに、大仙陵古墳も誉田御廟山古墳も、古墳のタイプは前方後円墳となります。
超ド級の古墳の登場は、日本に圧倒的権力者が現れたことを意味しています。
この圧倒的権力者は、先ほど紹介したヤマト政権のメンバーの中でもあたま一つ抜けた存在で、豪族たちの頂点に立つヤマト政権のリーダー的存在だったのだろうと言われています。
この超ド級の古墳に埋葬された圧倒的権力者のことを他の豪族たちとは区別して、大王と言います。
豪族たちは、それぞれが独自の勢力として力を持っていましたが、大王が豪族を統率することでヤマト政権はなんとなく国っぽい感じに成長していきました。
大王たちの外交政策
大王たちは、血気盛んな豪族たちを束ねるため、積極的な外交政策を行っていました。
具体的に何したかというと、鉄資源を求めて朝鮮半島南部にあった小国の集まり『伽耶諸国』と密接な交流を持つようになったのです。
もともと朝鮮半島は中国の支配下に置かれていました。ところが、300年頃になると中国の力が弱まり、朝鮮半島では新羅・百済の2国が独立を果たし、さらに北方の高句麗が南下していきて朝鮮半島の北側を支配下に置きました。
朝鮮半島では、覇権をめぐって高句麗・新羅・百済の三つ巴の争いが続き、朝鮮半島の南部では独立しきれなかった伽耶諸国が百済・新羅に挟まれる形で存在していました。
400年頃、高句麗が領地を求めて百済へ侵攻し、朝鮮半島で戦争が起こります。
百済は高句麗にフルボッコにされ、伽耶諸国と交流のある日本(ヤマト政権)にヘルプを求めました。
百済「倭国さん助けて!俺がやられたらきっと伽耶諸国もやられちゃうけど本当にいいの!?」
助けを求められた日本は、熟慮の末、百済を助けることにしました。日本は、鉄をくれる伽耶諸国が滅びてしまうと困るので、この争いを傍観することができなかったのです。
日本は、船で朝鮮半島へわたり、高句麗と同盟を組んでいた新羅へ攻撃を仕掛けました。
さらに伽耶諸国も百済・日本サイドに加わり、
高句麗・新羅 VS 百済・倭国・伽耶諸国
という構図の大乱が400年頃に起こりました。
大乱の結果は、高句麗・新羅軍の勝利。日本は敗北喫することになりました。
高句麗の王だった広開土王(好太王)は、勝利を記念した石碑を立てて、勝利の記録を石碑に刻みました。この石碑のことを広開土王碑と言います。
石碑は今もなお残っていて、石碑に刻まれている記録は、当時の朝鮮や日本の歴史を知るとても貴重な史料となっています。
倭の五王
古墳時代には文字としての記録がほとんどないため、日本にどんな大王がいたのか詳しいことはわかっていません。
・・・が、少なくとも5人だけ、実在したであろう大王の名がわかっています。
この5人の王はそれぞれ、讃・珍・済・興・武と言い、合わせて倭の五王と言います。
なぜ5人だけ大王の名がわかっているかというと、中国の歴史書「宋書倭国伝」に5人の名が記されているからです。
倭の五王が活躍していた時代は、だいたい400年〜500年の間。つまり、日本が高句麗・新羅に敗北した後に活躍した人物たちと言えます。
宋書倭国伝には、この倭の五王が貢物を持って定期的に中国(当時は宋)に来ていた・・・と記録されています。
倭の五王は、宋を君主とする主従関係を結ぶことで、朝鮮で軍事行動を起こせるような高い役職を宋から手に入れようと考えたのです。
高句麗・新羅に敗れた日本は、朝鮮半島での力を誇示するために宋の力を利用しようと考えたってことだね!
※ただし、宋は倭の五王たちに高い役職を与えることはなく、この試みは失敗に終わりました。
古墳時代の文化
最新の文化・技術
朝鮮半島との交流が盛んになると、大陸の最新の文化・技術がたくさん倭国にもたらされるようになりました。特に有名なのが漢字と仏教です。
日本で文字が普及したのはこの頃で、漢字が刻まれた剣なんかも見つかっています。
また、日本では飛鳥時代(500年代後半〜)から仏教の信仰が本格化しますが、その仏教が伝来したのも古墳時代でした。
これまで使われていた弥生土器も大きく進化しました。
弥生土器の薄型化に成功した土師器が開発され、さらに朝鮮半島から須恵器という最新の土器も伝わりました。
作り方 | 色 | 特徴 | |
---|---|---|---|
土師器 | たき火で焼いて作る (約800℃) | 赤褐色 | 弥生土器の改良版。 耐熱性はあるが、須恵器より柔らかい。 |
須恵器 | 窯で高温で焼く (約1000℃) | 灰色 | 土師器より薄くて硬い上位互換だけど、耐熱性は土師器の方が優れている。 |
祭儀の多様化
時代が進むと祭儀も多様化しました。
弥生時代に稲作が始まって以来、人々にとって大事なのは豊作でした。
そのため豪族たちは、春には豊作を祈る祈年の祭りを、秋には収穫に感謝する新嘗の祭りを行いました。
祈年の祭り・新嘗の祭りは、宮中行事として現代まで受け継がれているよ。
さらには、ことの吉凶を占う太占の法や、発言の真偽を判断する盟神探湯という儀式も行われるようになりました。
太占の法:鹿の骨を焼いて亀裂入れ、その亀裂の形で吉凶を占う。
盟神探湯:トラブルが起こった時に、物事の真偽を判断するため、熱湯に手を入れて、その火傷具合でその人が嘘をついているかを判断する。
正直、熱湯に手を入れれば誰でも火傷をします。なので盟神探湯というのは、実際には「嘘をついたら盟神探湯をさせられる・・・」とみんなに思わせることで、揉め事が起こった際に嘘をつかないように牽制する意味合いが強かったようです。
古墳時代の終わり
500年代に入ると、大王率いるヤマト政権の力はさらに強大になっていきます。
ヤマト政権は、豪族たちを効率的に支配する氏姓制度というシステムを編み出し、支配を拒む豪族に対しては武力によってこれを制圧しました。
500年代の前半には、九州北部で大規模は反乱(磐井の乱)が起こりますが、その後は大きな反乱は起こらず、ヤマト政権は九州から東北地方南部までの広大な地域を支配下に置くようになりました。
もともと豪族たちの協力体制で始まったヤマト政権でしたが、古墳時代後半になると、協力体制というよりも豪族たちが大王の支配下に入る大王の一強体制へと変わっていきました。
そして、こうした体制の変化に呼応するかのように、古墳時代後半になると大きな古墳が姿を消していきました。
古墳が作られなくなった理由ははっきりわかっていませんが、大王の一強体制になると、豪族たちが古墳の大きさで強さを誇示する必要がなくなった・・・とか、大王が豪族たちに「古墳は作るな!」と規制をかけたとも言われています。
・・・ただ、この大王の一強体制は完全ではありませんでした。
なぜなら、一部の豪族は依然として大王に劣らない力を持ち続けていたし、そもそもヤマト政権は豪族の協力体制として始まったため、「大王は全てを支配する!」っていう政治システムには対応していなかったからです。
グダグダのまま大王がなんとなーくヤマト政権を統治し続けても良かったのですが、当時の国際情勢がそれを許しませんでした。
・・・581年、中国で新たに「隋」が建国し、分裂していた王朝を統一して超大国に変貌を遂げたのです。
やべぇ、お隣にめちゃくちゃ強い国ができてしまった・・・。
日本もちゃんとした政治体制にしないと隋に飲み込まれてしまう・・・。
こうしてヤマト政権は、500年代後半から大王が豪族たちをちゃんと支配できるような政治改革に乗り出します。
この改革の転機となったのが592年でした。崇峻天皇が暗殺されて新たに推古天皇が即位したのです。
推古天皇が即位した後、ヤマト政権は冠位十二階や十七条憲法などを定め、大王を中心とする政治システムを作り上げていくことになります。
そして、古墳がだんだん小さくなって、政治システムも変わろうとしていた592年を区切りとして、それ以降の時代のことを飛鳥時代と呼ぶようになりました。
こうして古墳時代は終焉を迎え、新しい時代(飛鳥時代)が到来するのでした。
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