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倭の五王(讃・珍・済・興・武)を簡単にわかりやすく徹底解説【宋書倭国伝と日本書紀から倭国を読み解く】

この記事は約7分で読めます。

今回は、『宋書』倭国伝に登場する倭の五王(さんちんせいこうについてわかりやすく丁寧に解説していきます。

最初に教科書風の概要を載せておきます↓

倭の五王とは・・・

5世紀初めから約1世紀の間、日本(倭国)は朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、『宋書』倭国伝に讃・珍・済・興・武と記されている倭の五王が、あいついで中国の南朝に朝貢していた。

この記事を読んでわかること
  • 倭の五王(讃・珍・済・興・武)って一体誰なの?
  • なぜ倭の五王は朝貢をしたの?
  • 5世紀(400年代)の日本はどんな様子だったの?
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4世紀のおさらい

本題に入る前に、4世紀の日本や朝鮮半島の情勢についておさらいしておきます。

4世紀の朝鮮半島

朝鮮半島は、百済・新羅・高句麗の三つ巴の時代に突入。

詳しい話は、以下の記事で紹介していますので合わせて読んでみてくださいね。

高句麗こうくり新羅しらぎ百済くだらの関係はその時々へ変化しますが、4世紀は高句麗と新羅が友好関係を結び、それに百済が対抗する「高句麗・新羅VS百済」という構図が続きました。

3国の場所
(南部の国境は諸説ある)

4世紀に日本(倭国)

4世紀の日本は当時の史料が全然残っていないため「謎の4世紀」とも言われ、当時の様子のことをはっきり知ることができません。

ただ、日本が朝鮮半島と密接な関わりを持っていたことはわかっています。

日本は朝鮮半島の南部に任那という拠点を持ち、朝鮮半島の情勢にも大きな影響を与えていました。

そんな中、朝鮮半島の三つ巴の争いで苦境に立っていた百済が日本に協力を求めてきました。

日本は、百済と協力して高句麗・新羅連合軍を打ち負かすことで、朝鮮半島の支配力をさらに高めようと考えて、百済からのSOSを受け入れます。というか、百済が弱体化するあまり、日本>百済と立場が逆転してしまいます。

そして400年前後に、日本・百済VS高句麗・新羅の本格的な戦闘が起こります。

日本ははるばる海を渡って朝鮮半島に向かいますが、結果は敗北。

この敗北によって日本の朝鮮支配は後退し、朝鮮半島南部の任那みまなをめぐって新羅と争うようになります。

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倭の五王はなぜ中国に朝貢したのか

そして5世紀(400年代)に入ると、日本(倭国)は中国に頻繁に使節を送り、朝貢関係を結ぶようになります。

朝貢とは?

中国の臣下になって、中国から役職を貰うこと。

臣下になると、定期的に中国へ貢物を送る必要があり、倭の五王はこのために頻繁に中国へ使節を送りました。

「臣下」と言っても、実際に中国と主従関係を結ぶこともあれば、形だけの関係で実質的な主従関係が存在しない場合もありました。(日本の朝貢は、後者に近いです)

日本が朝貢をした理由は主に「中国からゲットした役職を利用して、朝鮮半島への影響力を維持するため」でした。

倭の五王たちは、中国に対して朝鮮半島の軍事に携わる役職を要求することで、朝鮮半島での外交・軍事を有利に進めようとしたのです。

倭の五王がもらった役職の例

倭の五王がもらった役職が具体的にどんなものだったかというと、倭の五王の1人「武」は中国に対して次のような役職を求めています。

使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍

漢字ばかりで意味不明ですが、簡単にいうと「倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の七つの国の軍事を司る役職」のことです。

この時は、中国は百済を除外した上で、この役職を倭王武に与えています。

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『宋書』倭国伝に書かれている倭の五王って一体何者?

日本が中国と頻繁に朝貢を行っていたことは『宋書』倭国伝という史料に記されています。

昔から、『宋書』倭国伝に書かれている倭の五王(讃・珍・済・興・武)は一体誰のことなのか?は大きな謎とされていました。

讃・珍・済・興・武は、本名ではありません。

倭の五王たちは中国に国書を渡す際に、中国の慣しに合わせて自分の名前を一文字の漢字で表しました。

だから、「讃を使った日本の王は誰なのか?」というような疑問が生まれるのです。

日本には、天皇の歴史を書き残した日本書紀古事記という史料があります。この2つの史料と『宋書』倭国伝を比べることで、倭の五王の正体がわかってきます。

ヒントになるのは、倭の五王の系図。『宋書』倭国伝と日本書紀、それぞれに記された倭の五王の関係が下の図になります。

左:日本書紀の天皇系図
右:宋書倭国伝の倭の五王の系図

この系図に加えて、それぞれが活躍した年代や他の史料の内容も合わせた結果、

  • 済→允恭いんぎょう天皇
  • 興→安康あんこう天皇
  • 武→雄略ゆうりゃく天皇

ってところは、ほぼ確実だろうと言われています。系図も日本書紀・宋書倭国伝でピッタリ一致します。

一方で残りの2人については、どの天皇に該当するのか今でもはっきりとしたことがわかっていません。上に載せた二つの系図を単純に重ね合わせれば、

讃→履中りちゅう天皇

珍→反正はんぜい天皇

(そして???の部分は仁徳にんとく天皇

となりますが、『宋書』倭国伝の系図には疑問の声もあり、実際には以下のような説があります。

  • 讃→応神天皇・仁徳天皇・履中天皇の誰か
  • 珍→仁徳天皇・反正天皇のどっちか

日本書紀や古事記は、内容に神話的な要素が多く「そもそもそんな天皇本当にいたの?」って天皇まで載っています。

ですが、『宋書』倭国伝に記された倭の五王の存在から、少なくとも允恭天皇・安康天皇・雄略天皇は確実に存在していたことになります。

天皇の歴史を知る上でも『宋書』倭国伝は大事な史料の1つなのです。

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倭の五王が活躍した頃の日本の様子

最後に、倭の五王が活躍した頃の日本の様子をサラッとだけ紹介しておきます。

当時の日本は、各地の有力豪族たちが集まって構成されるヤマト朝廷によって政治が行われていました。

そして、ヤマト朝廷の中でも特に力の強い筆頭の豪族のことを大王おおきみと言いました。

大王と天皇

大王は時代が進むと「天皇」と呼ばれるようになる存在です。

日本書紀・古事記なんかでは昔の大王をすべて天皇と読んでいるので、この記事でも人物名は天皇という表記で統一します。

15代天皇の応神おうじん天皇も、そんな大王の1人でした。応神天皇は、任那を含む朝鮮との交易を通じて、日本でとても貴重な資源とされていた鉄を大量に手に入れることで、圧倒的な力を持つようになります。

応神天皇

そして、応神天皇ー仁徳天皇ー履中天皇と3代に渡って天皇は強大な力を持ち続けます。

その強大な力を物語るかのように、応神・仁徳・履中の古墳は日本でも屈指の大きさを誇り、日本の古墳の大きさランキングTOP3はこの3天皇の古墳で占められています。

日本の古墳の大きさランキングTOP3
  • 第一位:大山古墳だいせんこふん(仁徳天皇)
  • 第二位:誉田御廟山古墳こんだごびょうやまこふん(応神天皇)
  • 第三位:ミサンザイ古墳(履中天皇)

*誰がどの古墳に入っているかは宮内庁の公式見解によります。もしかすると、事実は少々違うかもしれません・・・

ところが、反正天皇→允恭天皇(済)→安康天皇(興)・・・と時代が進むにつれて、次第に天皇家の内部で皇位継承をめぐる争いが増えていきます。

それを象徴するのが安康天皇(興)です。安康天皇は、在位中に皇位継承をめぐるライバルに暗殺されてしまいます。これは他殺されてしまうほど、大王の力が弱まっていたことを意味しています。

安康天皇が殺されると、その弟の雄略天皇が即位。雄略天皇は、武勇とカリスマを備えた人物だったと言われ、自分に反対する勢力を徹底的に潰しました。

雄略天皇によって、天皇家は再びヤマト朝廷のトップに立つにふさわしい力を持つようになります。

雄略天皇

この頃の日本は鉄だけではなく、織物の技術や漢字など様々な技術・文化も朝鮮から取り込んでいました。大王は、鉄資源やその最先端の文化・技術を掌握・独占することで、他の豪族よりも圧倒的に有利な立場に立つことができました。

これが応神〜雄略天皇が、ヤマト朝廷のトップに君臨し続けることができた大きな理由の1つです。

各地の豪族たちは倭王に逆らえば、鉄資源や最新技術などを利用できなくなります。だから、みんな倭王に従わざるを得ないわけですね。

これは逆に、朝鮮への影響力を失えば、倭の五王の力も失墜してしまうということ。

倭の五王の力と朝鮮支配は、表裏一体の切っても切り離せないものだったのです。こうやって考えてみると、倭の五王が中国との朝貢を通じて朝鮮への影響力を保持しようとしたのは、当時としては自然な成り行きだったことがわかります。



古墳時代
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この記事を書いた人
もぐたろう

教育系歴史ブロガー。
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