今回は、第二次世界大戦のきっかけになったポーランド侵攻について、わかりやすく丁寧に解説していくよ!
ポーランド侵攻とは
ポーランド侵攻とは、1939年9月にドイツがポーランドへ侵攻して、ポーランド領地を奪い取った事件のことを言います。
ドイツの勢力拡大を恐れたフランス・イギリスは、ポーランド侵攻をきっかけにドイツに対して宣戦布告。
こうして1945年まで繰り広げられた第二次世界大戦の火蓋が切られました。
戦火はヨーロッパからアフリカへと広がり、さらに1941年には太平洋戦争をきっかけに東アジア・アメリカ・太平洋一帯にまで戦火が拡大し、第二次世界大戦の名のとおり世界大戦へと発展していくことになります。
ポーランド侵攻の時代背景【ドイツの歴史】
まずは、ドイツがポーランドへ侵攻した理由を理解するために、ドイツの歴史をサラッとおさらいしておきます。
ドイツ、第一次世界大戦に敗北する
話は、第一次世界大戦(1914年〜1918年)の頃までさかのぼります。
ドイツは、第一次世界大戦で敗戦国となり、1919年にはヴェルサイユ条約を結ばされて、ザックリと次のような制裁を課されることになります。
・巨額の賠償金(今の価値に換算すると約200兆円)
・植民地を全て剥奪
・ドイツ本国の領地割譲
ドイツは、西部地方ではアルザス・ロレーヌ地方をフランスに奪われ、
ドイツ東部では、ポーランドが独立を果たし、ドイツの領土は大きく縮小しました。
第一次世界大戦前のドイツの領地は下地図のようでしたが・・・、
第一次世界大戦に敗北したドイツの領地はこうなりました↓↓
地図を比較すると、旧ドイツ西南の一部(アルザス・ロレーヌ地方)がフランスに奪い取られ、東部の一部がポーランド領になってしまっていることがわかるね!
・一部地方(ラインラント)の非武装化
・軍備制限
経済・軍事・国土に三重もの足枷をはめられたドイツは、国の再建を図りますが思うように再建を進めることができません。
世界恐慌からの・・・ヒトラー登場
そんな中、 1929年に世界恐慌が起こり、世界は大不況へと見舞われます。
イギリス・フランスは、豊富な植民地を利用したブロック経済で不況を乗り切ろうとしましたが、国力の貧弱だったドイツは大不況の前になす術がありません。
ドイツは失業者で溢れかえり、国民の多くが貧困に苦しむことになります。
そんな中、ドイツで頭角を表したのが国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)のヒトラーでした。
ヒトラーは、国難を乗り越えるため国家権力を我が手に掌握し、独裁者としてドイツの立て直しを図ります。
そして、ドイツ立て直しのためヒトラーが必須と考えたのが、ヴェルサイユ条約という足枷からドイツを解放することでした。
・・・つまり、ヴェルサイユ条約で奪われた経済的自由、軍備、国土を取り戻すことが自らの使命だとヒトラーは考えたのです。
ポーランド侵攻は、ドイツから見ればヴェルサイユ条約で奪われた領土を取り戻す戦いでもあったわけだね。
ポーランド侵攻が起きるまで
ヒトラーは、イギリス・フランスの様子を見ながら、少しずつ領土拡大を試みるようになります。
- 1935年ヴェルサイユ条約を無視した再軍備を開始
- 1936年非武装地域と決められていたラインラント地方に軍を進駐
- 1938年3月オーストリアを併合
- 1938年9月ミュンヘン会談でズデーテン地方の併合が認められる
ドイツが、チェコスロバキアに対してズデーテン地方併合を要求すると、
その対応をめぐってイギリス・フランス・ドイツ・イタリアのトップたちがミュンヘンで会談を実施。(ミュンヘン会談)
ミュンヘン会談の結果、ドイツは『これ以上の侵略行為をしない』という条件付きで、イギリス・フランスにズデーテン地方併合を認めさせる。
ドイツは、この一連の侵略行為を通じてあることに気が付きます。
俺が無茶苦茶やっても、イギリス・フランスはどうも俺との戦争を恐れて、強硬な態度には出れないらしい。
・・・イギリス・フランスが弱腰な今こそ、ポーランドを奪還するチャンスでは!?
1939年3月、ドイツはミュンヘン会談の約束を破ってチェコスロバキアを解体に追い込み、チェコスロバキアの西半分を奪い取ります。
さらに、ポーランドに対して次の2点を要求しました。
・ダンツィヒの返還
・ポーランド回廊への陸上交通路の建設
実はドイツは、第一次世界大戦でポーランドに領土を奪われたとき、下図のように領土を2つに分断されていました。
そして、この分断された境目はポーランド領地となり、港町だったダンツィヒはドイツにもポーランドにも属さない自由都市となりました。上図の紫部分
※ドイツ領を分断したポーランド領地のことを世界史の専門用語でポーランド回廊と言います。
ヒトラーめ、俺たちがビビってるからって調子に乗りやがって!!
とはいえ、さすがに今回のドイツの要求は飲めないよな。
俺たちはポーランドの支援に回り、ポーランドにドイツの要求を断固拒否させるぞ!
このドイツの要求に対して、イギリス・フランスから支援の約束を受けたポーランドは、断固拒否の姿勢を示します。
・・・イギリス・フランスが予想以上に強硬だな。
まぁよい。ポーランドは力づくで奪い返してやんよ。
独ソ不可侵条約
ドイツは、1939年に入ってからポーランド侵攻を計画し始めましたが、1つ大きな問題がありました。
・・・それは、ソ連の存在です。
ポーランドへ侵攻すれば、イギリス・フランスと戦うことになるかもしれぬ。
もし、ソ連がポーランドに加担することになれば、西はイギリス・フランス、東はソ連から挟み撃ちを受ける可能性がある。そうなればドイツに勝ち目はなくなるだろう。
ポーランド侵攻の前に、ソ連と敵対しないよう外交交渉をしておく必要があるな・・・。
1939年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結び、ポーランド侵攻の準備を整えました。
ドイツとソ連は犬猿の仲だったはず・・・。この2国が条約を結ぶなんて絶対におかしい。何か裏があるはずだ。
イギリスめ、なかなか鋭いな。
そうさ!俺はソ連と密約を交わして、ポーランドの半分をソ連に渡すことにした。
・・・つまり、ポーランドを餌にしてソ連を懐柔したわけさ。
ソ連は、チェコスロバキアの領地をめぐってミュンヘン会議が開かれた時に、イギリス・フランスがソ連を誘わなかったことに不信感を抱いていました。
そこでソ連も、ドイツと組んだを方が自国にとって利益がある・・・と考えたわけです。
ポーランド侵攻
1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドに対して電光石火の奇襲攻撃を開始。
ドイツは、圧倒的な物量により国境から一気に進軍を開始。ポーランドの首都ワルシャワを目指します。
9月3日、ポーランドへの支援を約束していたイギリス・フランスがドイツに対して宣戦布告。
・・・が、イギリス・フランスがポーランドに対して軍事支援を行うことはありませんでした。
ドイツの計画は、ポーランドに戦力を集中投下して一気に決着をつけるというものでした。
なのでポーランド侵攻中は、ドイツの国境守備は手薄となり、イギリス・フランスがドイツを攻勢をかけるチャンスでした。・・・が、戦争を恐れていたイギリス・フランスが動くことはありませんでした。
ヒトラーも、イギリス・フランスが攻め込んでくることはないと読んでポーランド侵攻に踏み切ったのがですが、その予想がバッチリ当たったのです。
9月8日、ドイツ軍がワルシャワに到着。9日以降、ワルシャワの周辺で激しい攻防戦が繰り広げられます。
ちくしょう!ドイツが強すぎる!!
一度、東側に引いて体制を立て直そう。
・・・ところが9月17日、その東側から突如としてソ連がポーランドに攻め込んできます。
・・・はっ?
ソ連とは不可侵条約を結んでいたはずだが・・・!?
ポーランド政府はドイツの侵攻によって崩壊した。そして約束の相手がいなくなったわけだから、不可侵条約は自然と効力を失う。つまり、条約違反はノーカン!ノーカウントなんだ!!
俺はドイツとポーランドの半分を手に入れる密約を交わしている。悪いがポーランドには犠牲になってもらう・・・!
ソ連は9月16日までノモンハンで日本と戦闘を続けていました。(ノモンハン事件)
そして9月16日に停戦が決まりと、すぐさま方針転換し、17日からポーランドへの侵攻を開始したのです。
もしノモンハンでの戦いが長引いていたら、ポーランド侵攻の結果も違うものになっていたかもしれません・・・。
ドイツとソ連から挟撃を受けたポーランドは、これに対抗する手段がありません。
ソ連の参戦が決定打となり、9月28日には首都のワルシャワが陥落。・・・そして10月6日、ついにポーランドは降伏しました。
ポーランド侵攻の結果
ポーランド分割される
終わってみれば、独ソ不可侵条約での密約どおり、ドイツはポーランド西部、ソ連が東部を占領。
ドイツとソ連が裏で組んでいたことも世界の知るところとなりました。
ドイツは占領後もなお抵抗するポーランド人や、ポーランドに住むユダヤ人に迫害を加え、600万人が虐殺され、そのうち300万人はアウシュヴィッツなどの強制収容所に送られたと言われています。
一方のソ連でも、抵抗する人々は大弾圧を受け、多くの人々がシベリア送りとなりました・・・。
第二次世界大戦が始まる
ドイツに宣戦布告していたイギリス・フランスは、結局ポーランドに何も支援できず、ポーランドを見殺しにする結果となりました。
ポーランド侵攻後も、ドイツとイギリス・フランスの戦争状態は続きますが、イギリス・フランスは積極的にドイツを攻めることはなく、戦況はこう着状態となります。
・・・あれ、イギリス・フランスが攻めてこない?
これはラッキーだ。ポーランド侵攻で俺も傷付いたし、今のうちに体制を一度立て直して次は西側へ攻めることにしよう。
イギリス・フランスの消極的な姿勢は、結果的にポーランド侵攻で疲弊したドイツ軍に回復の隙を与える結果となり、1940年に入ると体制を立て直したドイツがフランス・イギリスへ進撃。
ついにはフランスを降伏にまで追い込み、ヨーロッパ戦線は拡大の一途を辿ることになります。
さらに、1940年後半からはドイツと同盟(日独伊三国同盟)を組んでいたイタリアがエジプトやアフリカへ侵攻開始。
1941年には、ドイツの同盟国である日本が、イギリス・フランスと太平洋戦争を開始。
こうして、ポーランド侵攻から始まった争いは世界へと拡大し、第二次世界大戦へと発展していくことになります。
コメント